第9話昔馴染みと過去の影
薄暗い店内には、鼻がむず痒くなる細かな刺激と甘い匂いとが組み合わさった、独特な香が立ち込めていた。
床も天井も、赤い。
吊るされた灯籠のせいではなく、板そのものが赤く塗られているのだ。
落ち着きを持ち込むのを忘れたような鮮烈な赤色は、視覚的にとてもとても煩い。
壁は壁で、静寂が親の仇なのかと疑いたくなるような有り様だ。
見るからに価値のありそうな水墨画の掛け軸から、どう見ても幼子が無計画に絵の具を塗ったとしか思えない油絵、張りぼての龍、色とりどりの面、羽織、人形など、良く解らないものが良く解らない順番で、一貫性なく飾られていた。
余程隙間を作りたくないのか、物と物との間には『福』と書かれた札が数枚、何故だか上下逆に貼られている。
大陸、華僑の文化を凝縮したような店内。
昔と変わらないその様子に、想苗は思わず呻くような声をこぼした。
「相変わらず、胡散臭い……」
「良く言われますわ、昔から」
耳と記憶に馴染んだ、懐かしさの名残を感じる声に、想苗はゆっくりと店の奥へと視線を向けた。
赤の間に浮かび上がる、黒い机。
その向こうに
ケネススカアレット。
最早記憶の中にしか存在しない夏の空。
それを嵌め込んだような澄んだ青い眼から判る通り、海向こうの英国人である。
で、あるのだが。
彼女は幼い時分から、どういうわけだか中国の文化に並々ならぬ興味を抱いていた。
中華街区に足繁く通い、華僑の言葉を覚え、好奇の目も嫌悪の声もはね除けるように力強く吸収していった。
娘に絆されたのか、この子にしてこの親ありということなのか、想苗が十の頃にはもうスカアレット家はこうなっていた。
『
中国よりも中国らしい奇妙な店は、そんな看板を掲げていた。
「ソナエよね? お隣の、ソナエ。
「……すかあれっと」
言いづらい名字を苦心して言う。「勿論覚えているわ」
「ケネスで良いわって、昔から言っているでしょう、ソナエ?」
「戸上と呼んでと、以前に言った筈よ」
「大きくなったのね、貴女」
「貴女だって、随分と大きくなったわよソナエ。私、誰かを見上げるのって久し振り」
「……店を、継いだの?」
「そもそも私のための場所だもの、当たり前でしょう?」
それもそうだ。
昔からここは、ケネスの城であり壁だった。彼女はこの世で最も安全な場所を、安心できるように築き上げたのだ。
「ご両親は?」
「死んだわ。貴女の実家と同じ」
僅かな棘の気配に、想苗は思わず口をつぐんだ。
鼻が触れるような距離にまで近付いていたケネスの顔は、睨むように笑っている。
「もしかして、この辺りに実家があったっていうことを忘れているのかしら、ソナエ。貴女はここの三軒先で生まれて、十六で嫁ぐまで此処に居た。貴女の御両親はずっといたのよ、貴女がいなくなってからも」
「それは、解って……」
「でも来なかった」
ケネスの言葉は、容赦がない。「解っていても、何でも、貴女は一度も来なかったわ、ソナエ」
八年という重みに押し潰される自分を、想苗は幻視した。
戸上の家での生活が極楽浄土だったとは言えないが、しかし、実家の様子を見に行こうと思わなかったのは紛れもない事実だった。
一年目の正月には、挨拶を手紙に記した。未だ子も為せぬ半人前で、むざむざと我が家に帰れる筈もないと。
苦悩を言い訳に、次の年も手紙で済ませた。
蛍を身籠ったときには、不安と期待でそれどころではなかった。
蛍が生まれてからは、もう、帰るという気さえ失くしていた。
この大惨事にあってさえ、戸上の家が健在であったなら、想苗はきっと。
「友達だと思っていたわ、ソナエ。私も、貴女の御両親も、私を貴女の友達として遇してくれていた」
ケネスの額が軽く、想苗の額とぶつかる。「皆そう思っていたのよ、貴女以外はね」
まさか、手紙もくれないなんて。
いつの間にか、ケネスは笑っていなかった。
彫りの深い顔の中から、青が、想苗をじっと見詰めている。
「…………ごめんなさい。ごめんなさい、ケネス。私は、私も、貴女の友達で居たいわ」
「………………」
ぼやけた視界の中で、ケネスの唇が何か言ったような気がした。
だが――想苗の耳には、別な言葉が届いていた。
『泣いているの、お母さん』
「……ソナエ、本当に反省してるのなら、一緒にお墓にお祈りに……ソナエ?」
八年ぶりに現れた幼馴染み。
身長は随分と伸びていたし、スタイルも女性らしくなっていたし、黒いインバネスを羽織り、袴を履いたその腰に長大なカタナを差していたが、一目で解った。
解ったからこそ嬉しかったし、同時に酷く腹立たしかった――家族を置いて省みることの無かった友人に、ケネスはどろりとした暗いものを感じていたのだ。
とは言え、こうして言いたいことを言って、ソナエが泣きながら謝ってくれた時点で、ケネスの怒りは心の引き出しに戻っていた。
あとは、彼女の両親の墓前に一緒に行って、共に冥福を祈ろう。そう、思っていたのに。
「…………」
ソナエは、何も答えない。
拒絶しているのではない、ケネスの言葉が聞こえていないかのように、不思議そうに見詰めてきているのだ。
その瞳が、不意に揺らいだ。
ソナエは足元を見ている。ケネスも釣られて見るが、彼女のブーツがわりと汚れてるな、と思っただけだ。
眉を寄せつつ、顔を上げる。そして、ハッと息を呑んだ。
ソナエが、笑っている。
「……ケイ」
静かにしなさい――彼女はそう言った。
子供の頭辺りの虚空を見ながら、子供に言い聞かせるような口振りで、虚無に話し掛けていた。
「今……お母さんは、大事な話を……して……」
「ソナエ、ソナエ?!」
勢い良く、両肩を揺さぶる。
数度の瞬きの末、ソナエは漸く、ケネスに焦点を合わせたようだった。「ケネス……?」
「……奥へ入って、ソナエ」
有無を言わせぬ口調で、ケネスはソナエの手を引いた。「貴女がこの店に来た理由が、良く解ったと思うわ」
思い当たる点が、あるのだろう。
大人しく、ソナエはケネスの後について歩き出した。
まるで、子供のように。
真っ赤な廊下を暫く進み、想苗たちはその部屋に辿り着いた。
眩しさに、目が眩む。
それまでと打って変わって、そこは純白の部屋だった――壁も床も、天井さえ度を越した清潔さで塗られている。
四方には行灯。
それを繋ぐように縄が張られ、風鈴のように錆びた鉄釘がちろりちろりと鳴っている。
「適当に座って」
行灯以外家具も何もない部屋の中央で、ケネスは振り返った。「それで? 何が見えるの?」
「……別に」
大胆に胡座をかいたケネスに倣い正座した想苗は、努めて落ち着いた声を返した。「誰も、居ないわ」
「何か聞こえる?」
「何も『お母さあああん』っ、聞こえない」
傍らで、声がする。
視界の隅に、見慣れたおかっぱ頭が見える。小さな手のひらがちらついて、膝を、ごねるように揺すろうとしている。
全て、幻覚だ――誰もいない、蛍は、祐一郎様は、もう――。
ケネスは、ため息を吐いた。
「……相当、キテるわね」
「何を……」
「私は、『何が見えるの』と聞いたのよ、ソナエ。なのに、貴女は誰もいないと答えた」
見えるんでしょう。
何もかも見透かすように、ケネスは笑った。
「……ケイ、っていうのは、貴女の子供の名前よね?」
「っ!!」
「知っているわよ、勿論。トガミのユーイチローとの間に生まれた子供。友達の嫁ぎ先くらい調べるでしょう、当たり前でしょう?」
いつの間に取り出したのか、洒落た長煙管を咥えながら、ケネスは肩を竦めた。「知ってるから、ピンと来たのよ。帰ってきたんだ、ってね」
――死んだんでしょう?
「
「…………」
「そして、その格好。帯刀してるということは、貴女は跡を……」
「……私は代理よ」
そこだけははっきりと、想苗は断言した。「蛍も、祐一郎様も、きっといつか帰ってくる」
そうだ、帰ってくるのだ。
二人の直接の死体を、想苗は見た記憶がない。発見されたという報告もだ、勿論生きているという証拠もないが、死んだ証拠を想苗は、知らない。
ならばと、想苗は一縷の望みにすがり付いている――蜘蛛の糸ほどの救いではない、天井に吊るした帯にぶら下がるような、先の無い希望ではあるが、それがなくてはもうどうすることも出来ない。
「その希望が、貴女に幻覚を見せている」
「解ってるわ」
そう、二人はいつか帰ってくるだろうが、それは今ではない。
何も知らない、何事もなかったというような顔で笑い掛ける二人の幻覚は、想苗自身さえ『有り得ない』と理解できる間違いだ。
「……花守は、瘴気に身と心を晒す職業。弱った心では、簡単に漬け込まれてしまう」
「だから、ここに?」
「貴女のお店、漢方とかそういう怪しげな薬があったでしょう? あれなら、心を落ち着かせるようなものもあるんじゃないかと思って」
「……そういうこと……」
「瘴気のせいでも、あるとは思うのだけれど」
「それはないわ」
ケネスの断言に、想苗は首を傾げた。
彼女は厭そうに、吊るした鉄釘を示した。
「ここは魔除けの結界なの――瘴気であれなんであれ、邪なものは入れない」
意を決するように一呼吸置いて、ケネスは想苗に止めを刺した。「ここで幻覚を見たのなら、それは瘴気のせいじゃあない。貴女の心のせいなのよ」
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