第2話一人きりの朝食
先ずは鱗を引く。
包丁の背を使い、丁寧に、丁寧に。
『おかーさん! おかーさん! 今日はなあに?』
「ふふ、駄目ですよ
我が子のじゃれつきを笑顔でいなしながら、戸上想苗は調理を続ける。
一通り鱗がとれたら、腹に包丁を入れ内蔵を抜く。血合いを捌いて、中骨を抜く。
「祐一郎様は、もう起きたかしら。蛍、お父様のご様子を見てきてくれる?」
『はーい!』
ドンッ!
振り下ろした包丁が、頭を落とす。こういうときは、躊躇わないのがこつなのだ。
更に包丁を振るい、背びれと尾びれとを切り取っていく。
『おとーさん、起きたよ!』
「あらあら、蛍? 駄目だと言ったでしょう、飛び付いては危ないわ」
『ふわぁぁぁ、おはよう、想苗』
「うふふ、祐一郎様? 髪くらいとかして下さい、襦袢もはだけてしまって……」
手頃な大きさに切り分けたら、塩を振ってフライパンへ。
石油コンロに火を点し、切り身を焼き上げる。その間に鍋に味噌を投入し、刻んだ豆腐とネギを混ぜる。
「さあ、そろそろできますから。二人とも、席について下さいね?」
『はーい!』
『はーい、ふふ』
「うふふ」
『…………想苗殿』
視界が、表反る。
何処か朧気だった景色が、はっきりと見えてくる。足元に纏わりついていた幼子の姿も、目の端に浮かんでいた背の高い、痩せた男の姿も消え失せて。
黄金の輝きが、刃のように鋭く想苗を睨み付けている。
刃のように、というのは比喩ではない。
何しろ、彼は刀だ。
眩いばかりに輝く金の毛を持つ、大きな鳥。
刀霊【
その、清浄な気を帯びた黄金に、想苗の意識は集中を取り戻した。
「……私、また……」
『また、です。想苗殿』
焼き鮭、白米、湯気を立てる味噌汁。
卓上に並んだ三人分の朝食を見て、想苗は深くため息を吐いた。
戸上想苗は、優れた霊力の持ち主として見出だされ、十五の時に戸上家に迎え入れられた。
戸上家の跡継ぎであった祐一郎の外出中、突如として霊魔が湧いたのだ。そして、偶然買い出しに出ていた想苗は、彼の脇差しで霊魔を二体滅したのである。
『可憐、されど苛烈なり』
祐一郎はそう言うと、その場で想苗に求婚したのである。本当に驚いた、地べたから立ち上がるや否や、即座に女の手を取ったのだから。
元来、名付きの花守の家ならば、婚姻には色々と制限がつきまとうものだろうが。
幸いにも戸上家はさして上級でもなく、祐一郎の霊力を鑑みれば落ち目とさえ言われていた。ヒトの社会に付き物の煩わしさは、二人の婚姻に関しては全く無かったのである。
幸か不幸か、というやつだと、【金宝】は嘆息する。
もしも祐一郎の下に嫁入りしていなければ。想苗は、こんな目に遭わずに済んだろうに。
まあ少なくとも。
傍で見る限りにおいて、二人の結婚生活は幸福に見えた――二人は互いを尊重しあっていたし、仲睦まじく過ごしていた。
戦場においても、霊力で夫を補佐しながら、想苗は烈女の如く活躍していた。
ただ。
ただ一点、不幸だったとするのなら。
結婚して三年、二人の間には未だ子が出来なかったのだ。
……陰で、謂われない中傷を散々囁かれたのを、勿論【金宝】は知っている。
想苗の居場所は、祐一郎の隣だけだった――義理の親でさえ彼女のことを嘲笑っていたのだから、余程のことだ。
幸い、彼女の地獄は三年で終わった。
待望の第一子を授かったのだ。
しかも男児。それも、母親の想苗を上回るほどの霊力を持って生まれてきた、正しく神童であった。
待たされた分、周囲の期待と過保護振りは半端ではなかった。
子が笑えば笑い、泣いても笑い。
立てば誉めそやし、喋ればもてはやし。
初めて我を握った時など、それはもう、恥ずかしすぎて見ていられなかった。
『あぁ、何と良き構えだ! 想苗、想苗、この子は天才だぞ!』
『えぇ、左様ですねぇ、祐一郎様。うふふ、【金宝】をこんなに早くから……きっと将来、貴方よりも上手く使えますよ?』
『あはは、確かにそうかも知れぬな! きっと強く優しい子になるぞ、お前のようにな』
『祐一郎様……』
『想苗……』
こっちもこっちで、見ていられなかった。
まあ、周囲のお陰でか。
蛍はすくすくと育ち、優しくも強くなる、筈だった。
それが崩れたのは、当たり前だが一月前。
廣永六年、九月一日。件の大災害、【霊境崩壊】だった。
彼女の家族は、祐一郎と蛍は。
それ以来。
彼女はこうなった。
我を握っているときは、未だマシ。
日常の多くの時間を、彼女は夢現の中で過ごすようになってしまった。
我が子と最愛の夫の幻影に、抱かれて。
二人の居ない現実を、取りこぼしている。
『…………想苗殿』
「は、はい」
さしあたっての、問題は。
『この料理は如何するおつもりか?』
食卓に見事に並ぶ、三人前の食事を前に、想苗はがっくりと肩を落とした。
「【金宝】、お願いします……!」
結局、一人前と半分ほどをどうにか食べたところで、想苗は【金宝】に泣きついた。
神気を帯びた刀の付喪神たる刀霊は、望むなら実体を象ることができる。
【金宝】は、身の丈二尺ほどの鳥の姿を好む。羽を広げた姿が優美だし、すらりと伸びた首が【金宝】の琴線に触れたのだ。
だからまあ、勿論食事を取ることも不可能ではないが。
『駄目です』
「うう、やはりですか……」
『当たり前でしょう、想苗殿。これは、貴女の仕業。始末も貴女がつけるべきです』
幻影、幻覚。それは所詮気の迷いで、心の弱さが招くものだ。
悲劇から一月という期間の短さには確かに同情するが、逆に言えば、【金宝】は一月待ったのだ。これ以上甘やかすつもりは、ない。
まして、想苗は刀を握ることを選んだのだ。今更、過去の傷に囚われていては命に関わる。
彼女一人の、ではない。
戦場においては、一人の失敗が作戦そのものを左右することもある。
想苗が例えば幻覚に誘われ持ち場を離れ、そのせいで誰かが死ぬことになったら。最早、彼女は立ち直れないだろう。
そうならないために。
うっかり怪我をする程度の日常で済んでいる内に、何とかしなくてはならない。
『……食料とて、無料ではありません。米も、魚も野菜も味噌も、多くのヒトの手によって作られています。それを無駄にするのは良くありません』
「だ、だから、手伝ってとお願いしているじゃあありませんか……」
『それでは貴女のためになりませぬ。貴女がしてしまったのです、貴女がどうにかするか、どうにもなら無いのなら大人しく。貴重な食材が腐る様をご覧になり、反省し、戒めとするのです、想苗殿』
「う、うぅ……」
『……どうしてもと、言うのなら』
【金宝】は、然り気無い調子で言う。『我と正式に契約を結べば宜しい。想苗殿が主人となるのなら、命に従うことも吝かでは』
「それは、出来ません」
暗く、けれど確固たる決意に満ちた瞳が、【金宝】を見詰めている。
「あなたは、戸上家当主に代々継承されるべき刀。祐一郎様か、せめて蛍の許し無くして契約など、もっての外です」
『……左様か』
その、深夜の井戸のような暗闇を見詰め返して、【金宝】はため息を吐いた。
『……ならば、己でどうにかするしかありませんよ、想苗殿』
「う、うぅ……そこはこう、臨機応変というものがあるではありませんか」
そうはいかない。
これは、意地だ。彼女が張り通すと決めた、彼女の意地だ。
何とも、歯痒いが。
自分に出来ることは、小言を言うことくらいだ。あとは、彼女が変わるのを待つしかあるまい。
眉を寄せながら味噌汁に手を伸ばす想苗を見ながら、【金宝】はそっと目を閉じた。
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