第3話夢と現。
しん、と静寂に包まれた道場。
凛とした清涼な空気の中に、想苗は自分の呼吸音がやけに大きく聞こえていた。
それから。
『剣は正眼、この構えから始まり、この構えに集束する。多様な流派、多様な構えが剣術には存在するけれど、うん。基本こそが最高なんだよ、蛍』
剣士らしからぬひょろりと長い細腕で木刀を構えながら、祐一郎様は蛍にそのように教えていた。
二年ほど前の、稽古での出来事。
その様子を横目で見ながら、想苗は木刀を同じように構えた。
「……ふうん?」
指導役という、何やら雰囲気のある花守の青年は呟いた。「随分と、上等な構え方だな?」
「夫に、教わりまして」
息子が、だけれども。
祐一郎は、勿論現場にて真剣を振るう花守でもあったわけだが、それ以上に彼の剣術には所謂、『道場感』が抜けなかった。
構え、振りかぶり、振るう。
最早ヒトの形さえしていない霊魔を相手にしているというのに、彼の動きから【型】が消えることはなかった。
道場で木刀を握り、弟子たちに剣術を教えるときと。
戦場で真剣を握り、霊魔相手に討伐を試みるときと。
どちらも、その剣の動きは寸分さえも違わない。正確に、同じ軌道をなぞり続けていた。
『身体に染み込ませるのだ』
祐一郎様は、日々百本の打ち込みを数度こなしながら、晴れやかに笑っていた。『考える、という手間は、戦いには不要だよ。それを省くために、あらゆる武術は型をつくり、それを何度も何度も繰り返し、鍛えてきた』
素晴らしい考えだと、想苗は思った。
それと同じくらいの比重で、想苗はこうも思っていた――けれども結局、形振り構わない相手に対して、形振り構う剣術がどの程度通用するのだろうか、と。
構う形振りさえ持たない霊魔相手には、祐一郎の剣術は確かに通じていた。
だが――名を馳せていたのは、構わないことを形振りと呼んだ者だけだった。
『どんな相手でも、どんな流派でも。基本に徹している限り、完敗することはない』
最愛の夫の言葉を試すときが来た。
伝え聞く歳の割りに屈強な肉体と、その全身から発せられる覇気、そして――鬼気。
「……宜しくお願いします、師範殿」
「おれは代理だよ。……ったく、面倒事ばかりだぜ」
やる気の無さそうな所作に反して、青年の後ろには既に七人、犠牲者が倒れている。
死屍累々、と言うには生温いが。稽古として彼に挑み、敗北せしめられた面々の末路というものだ。
それでも想苗の前にも後にも、師範代理へと挑む者は後を立たない。何故なら、その敗北はただの敗北ではないからだ。
『聞き手の握りが甘ェ、それじゃあ弾かれるに決まってンだろォが!』
『そいつァ【踏み込み】っつわねェンだよ! 床を踏み抜くぐれェの気合いを籠めろ!』
『何処を斬るつもりで振るってンだそりゃあ! 想像しろ、手前の一挙手一投足が、敵の何をどうする
言葉選びは乱暴で、怒鳴り声は心の臓を揺らす程に激しかったが、それでも。
その敗北は、各自の全力を越えた上での敗北だった。
体力が尽き、倒れるまでの凡そ数分の稽古ではあっても。
挑んだ者は、その実力を兎に角伸ばしてから倒れたのだ。
強くなる、その目的への直行便。
逃す者は、この場には居なかったというわけだ。
『漸く、お母さんの番だ!!』
――そう、その通りよ蛍。だから、少し離れていなさいね。
『蛍。此方で大人しく見ていなさい。お前のためにもなる、見稽古というものだよ』
――流石は祐一郎様。申し訳ありません、暫しその子をお願い致します。
「…………チッ」
「っ!?」
突然舌打ちが聞こえたかと思うと、次の瞬間にはもう、指南役代理は動いていた。
否――動き終えていた、という方が正確だった。
無造作に振るわれた木刀が、あれほど確りと握っていた筈の木刀を、想苗の手からいとも容易く弾き飛ばす。
切っ先はそのまま、想苗の喉元に突きつけられている。正しく瞬殺、というわけだ。
「……もう一度だ、拾ってこい」
「は、はい」
これでは、訓練にもならない。木刀を拾い、想苗はもう一度身構える。
そこに、指南役代理が襲い掛かる。一合、二合で木刀は弾き飛ばされた。
「もう一度」
「……はい」
拾い、構え、打ち合う。……弾き飛ばされる。
何度も、何度も。
その愚直な繰り返しは、想苗の体力が尽きるまで続いた。
「……はあぁぁぁあ……」
『盛大な溜め息ですね、想苗殿』
訓練の後。
着替えを終え、道場の隅にちょこんと座る想苗に、大太刀【金宝】は静かに声を掛けた。
『仕方がないでしょう、想苗殿。貴女はこれまで、まともに剣術の稽古を受けたことがない。だからこそ来たわけで、あのように打ちのめされることは当然、予想通りの結果です。そのように、落ち込むことでは――』
「……いいえ」
夫の刀の言葉に、想苗は首を振った。「いいえ、【金宝】。そういうことでは、無いのです」
実際【金宝】の言うように、想苗は、剣術の稽古を確りと受けたこと等無かった。
勿論夫が息子に教えるのを、想苗とてしばしば見ていた――剣の握り、構え方、足運び。基礎的なものは、【金宝】さえ驚くほど詳しく理解していた。
だから、あとはそれを使うことに慣れなければならない。そう思っての訓練だ、別に、手も足も出なくとも落ち込むことなど無い。
「それに、訓練そのものは有意義でした。何度も敗北しましたが、その度その度、自分が研ぎ清まされていくようで――得難い、感覚でしたから」
『確かに。今日の想苗殿は調子が良さそうだ』
【金宝】の言う『調子』のことは、想苗自身とて良く解っている。
夫の声も、息子の姿も、訓練の後から感じられない。意識が明瞭で、正しさを間違いなく理解できている。
そして――それが落ち込んでいる原因でもあった。
訓練の、最後。
図体の割りに静かな足取りで、指南役代理の花守は想苗へと歩み寄り、こう言ったのだ。
『……手前が一番ひでェ』
『す、すみません……』
『全くだ……早ェとこ、どっちかに決めろ』
『……え?』
『気も
「…………どちらか、か」
気が付いた、ということだろう。
想苗の内面の煩雑さに、そこから生じている、幻覚と幻聴の存在に。
正気か、狂気か。
生きるか死ぬか、とっとと決めろと。自分はそう、言われたわけだ。
「そんなもの……」
決まっている、ではないか。
解っている、解っては、いるのだ。いかに世間知らずの女とて、どちらを選ぶべきかなど論ずるにも値しないと。
どれ程現実が厳しく、どれ程妄想が甘く優しくとも。
ヒトは、常に現実に生きるのだから。
ちゃんと、しなくては。ちゃんと。まともに。
『……では、さしあたっては食事からだな。真っ当に、一人分を作れるように成らなくてはなりませぬよ』
「う、うぅ……」
想苗は包みを広げ、握り飯を三つ取り出した。具は、鮭の解し身。
「あれだけ動いた後で、三つは辛いですね……」
『それもこれも、貴女のせいですからね想苗殿? 貴女がきちんと御自分の分だけを作れていれば、こんなことにはならなかったのですから』
「解っています……ん?」
小言に眉を潜める想苗の耳に、自分の方へと近付く足音が聞こえてきた。
顔を上げればそこには、自分より十近く若いであろう、青年と言うよりは少年が一人。
同じく訓練を受けていた少年だ――名前は、知らないが。
「あ、あの、戸上殿」
想苗は内心で舌打ちした。
相手の名前を自分は知らず、向こうはこちらの名前を知っている。これでは、想苗が無作法者、と思われても仕方がない。
それは不味い。
最早全滅に近い状況とはいえ、自分は戸上家の一員。自分の無作法は御家の無作法として世に広まるだろう。
どうにかしなくては。どうにか、『戸上家は礼を重んじる良家』という評判を世間に広めなくてはならない。
こういうときの定石を、想苗は義理の両親から教わっている――笑うのだ。
居住まいを正すと、想苗はゆっくりと、静かに、優雅に微笑んだ。
少年も、微笑んだ。
「ど、どうも戸上殿。お初にお目にかかります」
「……どうも」
お初でしたか、と想苗は胸を撫で下ろした。
忘れておりました申し訳御座いませんと、頭を下げる必要はなさそうだ。
だが――だとすると。
「何故、私の名を?」
「以前、祐一郎殿の稽古を拝見したことがありまして。その時、想苗殿のお姿も」
「左様でしたか……」
「それでその、宜しければ、この後一緒にカフェにでもと思いまして……あ! 勿論その、二人でということではなく他の皆も一緒なんですが……けど僕としては二人きりでもいいと言うか……」
「成る程、そうでしたか」
後半の方は良く聞き取れなかったが、要するに訓練後の懇親会ということだろう。
祐一郎様も、他流派との交流試合の後にはそうした会を催していた。
尤も、その場合は鍋と酒で。
カフェ、なんてハイカラな響きは実に耳慣れないが。
まあ、宜なるかな。
ぐるり、と見渡せば、道場に居るのは目の前の少年と同じくらい、十四五くらいの若者ばかり。彼らの懇親会とあらば、酒とはならないかもしれない。
――子供、か。
【霊境崩壊】のせいだ。
彼の大災害に応じたのは、当然ながら各家の当主、或いはそれに準じる実力者。
その多くが、帰れなかった。
帰れなかった家は、新たな当主を立てるより他になかった――例えそれが、未熟な子供達であっても。
もう、彼らしか居ないのだ。彼らの家にとって、担い手は、もう。
「どう、ですか、戸上殿。その、良く花守の方々が利用しているっていうカフェがありまして……」
「そうですか。それは、情報収集にも良いでしょうね」
「そ、そうなんです! だから是非」
「折角ですが」
力説する少年に、想苗は苦笑しながら握り飯を見せた。「今日は、弁当がありますので」
少年の顔に、絶望が浮かんだ。
まぁ、気持ちは解る――隣は子供ばかりで、周りには大人たち。
その言うことに従いながら、彼ら彼女らは手に刀を構え、霊魔という恐ろしい敵と戦わなければならない。その、精神的な負荷はどれ程だろうか。
対して、自分は二十四歳。
彼らが、亡くした母性を求めるには手頃な年齢だろう。
彼らは、甘えたいのだろう。無条件で愛してくれる誰かを探している。だが――それは、もっとまともな相手にしておくべきだ。
落ち込む少年の背中を見送りながら、想苗は一度軽く息を吐いて、それから握り飯にかぶりついた。
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