散りし花弁よもう一度

レライエ

第1話霊境崩壊

 ほぅ、と短く一息、夜空を見上げる女の唇から吐息がこぼれ落ちる。


「…………綺麗ね」


 吐息に続いて、ぽつり、短い言葉。

 視線の先に浮かぶのは――月。上弦の月が一人きりで、雲一つ無い夜空に輝いている。


 見上げる女も、一人きり。


 二十代、半ば程か。

 驚くほど短い断髪頭に、化粧っ気の無い顔。袴に西洋風の外套インバネスを羽織ったモダンな服装は、しかし辺りの景色にまるでそぐわない。


 かつてはそこに、家があったのだろう。

 丁寧に細やかに砕かれた木材の破片が、女の目の前に散らばっている。

 目前ばかりではない。

 女の周囲は、似たような光景が広がっている。町並み全てが、木片の山と化してしまっているようだ。


 誰か片付けないのか、とは、女は思わない。

 誰だって思わないだろう――残骸の影から、側溝から、何体もの


『……

「解っているわ、【金宝にげら】」


 自分にだけ聞こえる声に応じながら、女は抱えていた包みをほどくと、を取り出す。

 金継ぎを幾箇所にも施された、大太刀。

 女の細腕には似合わないそれを、手慣れた様子で軽々と抜き放つ。


 月の光を受けて、太刀の波紋が金色に輝く。

 その輝きに魅了されるように、手足の細長いのと子供のように小柄なの、霊魔が二体、ずずいと前に進み出る。


 女は冷たい輝きを瞳に宿しながら、もう一度だけ、夜空を見上げた。

 本当に、良い月だ。


「……、戸上想苗、参ります。幽世の者よ、在るべき場所に還りたまえ」


 言うが早いか、想苗は霊魔の群れへと駆け出していった。胸に生じた悪夢の断片を、振り払うように。









 戸上想苗とがみそなえが全てを喪ったのは、廣永六年九月一日のことであった。


 珍しい話では、無い。


 その日の晩、何とも見事な月の下。

 帝都夕京を未曾有の大災害が襲ったのだ。


 ヒトの世界、現世。

 霊魔の世界、幽世。


 けして交わらない筈の二つの世界がその日、どういうわけだか重なった。

 後に【霊境崩壊】と呼ばれることになるその事件は、花の帝都に大きすぎる爪痕を残した――桜路町区より東は壊滅、迫間、深山の霊脈は崩壊にまで追い込まれた。


 政府は直ぐ様対応した。


 全国各地より【花守】を招集、その霊力を用いて霊魔を祓うよう求めたのである。

 その招集は徹底的かつ画一的で。

 それなりに歴史のある戸上家にも、赤紙は届けられた――


 書類だけを見た者は、想苗だけでも残って良かったと安堵しただろう。貴重な戦力が一人、無事だったと。

 彼女と会った者は、きっとそうは思わなかっただろう――なにしろ彼女は全てを失った。


 当主である夫も、僅か六つの息子も。

 


「……畏まりました」

 想苗に令を伝えた若き花守は、彼女が微笑んだと報告した。「私が参りましょう」


 それから。


「……えぇ、

 誰も居ない居間に向けて一礼し。

 誰も居ない虚空を、あやすように撫でた。


 ……戸上想苗の様子を、若き花守は確かに報告した。

 その上で。

 彼女は戦列に加えられたのである――必要充分な技能は持っていると、判断されて。


「うふ、うふふ……」


 それが英断だったか、はたまた愚考であったのか。


「うふふふふははあははははははっ!!」


 答えは、誰にも解らない。

 少なくとも、今は、未だ。

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