3.まぼろしの男
私は千塚さんの指を想像してしまう。
しなやかな長い指。今、私の口の中にあるこの指が千塚さんのものだったらいいのに……と、いつも、千塚さんではない、私の目の前にいる誰かの指に。
夜が更けていくひとり暮らしの部屋で私は、スマホを手に取るたびにLinxを開いては千塚さんの日記の更新や彼からのメッセージが届いていないかを確認していた。千塚さんの動きの見えないSNSの画面を見ていると、飢えて死ぬ寸前の獣のような気分になってくる。
千塚さんのアカウントにメッセージを送ってみようかと新規作成画面を開いたところで、あおいちゃんに忠告された言葉がよみがえって手を止めた。代わりに私は、もう何十回も読んだ千塚さんからのメッセージを再び開き、その文面を黙読し音読しながら、千塚さんがスマホの画面上に指をすべらせ、私のために人生の貴重な時間を使ってメッセージを書いてくれた場面を想像する。千塚さんを見つけたその日から、彼の日記を読み込み、SNS上の交友関係を探り、コミュニティをチェックしては彼の嗜好の傾向を把握しようと努めてきたけれど、そんなデータのみで満足できるわけがなかった。私が本当に知りたいのは今千塚さんが何をして何を考えているのかということであり、どこにいてどんな言葉を口にしているのかということなのだから。
ゆめいろファクトリーのことを調べるのとは違い、一般人の千塚さんの情報を手に入れるのはとても難しい。インターネットで「千塚貴之」と検索しても本人の情報にはまったく結びつかない。私は、彼とは何の関係もないことが分かっていながらりんご農家を営む長野県の千塚貴之さんのブログを延々と追ってしまったり、千塚貴之という名前の持つ運気を解説する姓名判断のサイトを読み込んでしまったりしている。とにかく何かをしていないと居ても立ってもいられなかった。
千塚さんの卒業年度の東第一中学校の卒業アルバムはすでに必要な部分のコピーを手に入れていた。彼のSNS上での友人たちとのやりとりから千塚さんが今も実家で暮らしていることは知っている。
実家の住所をネットの地図で検索すると千塚さんの住む家を見ることが出来た。少年時代の千塚さんの写真を眺めながら、この家で彼が過ごしていた日々や今そこで彼が送る時間に想いを馳せる。私は今、距離も時代も隔ててしか千塚さんに触れられないことがひどくさびしい。
酔って好きでもない男とイチャつくなんて最悪。誘われた飲み会に軽く顔を出すだけのつもりでいたのにいつの間にか私は泥酔していて、カラオケでふたりきりになっていた男の指をくわえていた。その人の指は、たぶんどこか千塚さんのものに似ていたんだろう。まったく似ていなかったのかもしれないけれど。酔っているから、よく分からないな。
相手の指を吐き出して体を離すと、男はこちらが正気に戻ったことに気付いたようだった。それで酒を勧めてくるから、「いらない」うつむいたまま気分が悪くなったふりをして、はねつける。
男がお手洗いに立ったすきにそのまま店を出た。千塚さんと出会った街、ここ渋谷で私は一体何をしているんだろう。おとなしく自宅にいればよかった。もう絶対に、家から出ない。誰に呼ばれてもどこにもいかない。さびしさは千塚さん以外の人やものでは埋まらない。私の心と体はすべて、千塚さんのものなんだから!
それであたしは、嗚呼、さっきの相手が千塚さんだったらいいのに、せめて口に含んだあの指だけでも千塚さんのものとすげ替えられていたらいいのに、と考えて、あ嗚呼うああ、私、千塚さんが好き! と心の中で獣性の狂った咆哮を上げる。
千塚さんが好き。千塚さんが大好き。千塚さんがいいの。千塚さん以外全員嫌い。千塚さんと会いたい。千塚さんと手を繋ぎたい。今の私が千塚さんに触れることが過ぎた贅沢ならせめて、千塚さんの手や腕を一晩私に貸して欲しい。千塚さんの片腕を貸して。次の朝、千塚さんが目覚める前までにはきちんと返しておくから、どうかこの願いを叶えて欲しい。
私は千塚さんが欲しいのに、千塚さんとなら仲良くお付き合いしていけそうな気がするのに、どうして今すぐに一緒にいられないんだろう。
「前にライブで興奮した隣の人にタックルされて鎖骨折っちゃったことあるんですよ」
今日千塚さんが更新した日記にはそんな一文があった。私は千塚さんの身体を怪我させる原因を作ったゆめいろファクトリーに対して慰謝料を請求したい気分だったけれど、その話題でコメントを書くきっかけができたから今回は特別に許してやって訴訟は見送ることにした。
友人申請を受理してもらって以来、千塚さんの日記には何度かコメントをしている。そこで私が「いつかライブで会えたら良いですね」と書き込んだときには、千塚さんから「そうですね」という積極的で優しい返信も来ている。
千塚さんに会いたいって伝えちゃダメかな、そうあおいちゃんに相談すると、相手はまだ社交辞令で言っているだけだと思うし理由もなく会うことを打診するなんて不審だと反対されるけれど、やっぱり早く千塚さんに会いたい。声が聞きたい。どんな話題でどんな風に笑うのかを知りたい。彼の好きな食べ物だとか、小さい頃の思い出だとかを心置きなく尋ねてみたい。千塚さんが好きだ。千塚さんの長い指、悪戯っぽい八重歯、実年齢とそぐわない妙な若さ、好きなものに対する突き抜けたパワー、髪の毛、唇のかたち、鎖骨が折れていたこと、純粋で、可愛くて、あったかくて優しいところ。 そしてこれからゆっくり知っていくであろうもっとたくさんの千塚さんの素敵なところ。
新しい洋服を見に行ったりネイルサロンでデザインを選んでいたりするとき、千塚さんと会うことばかりを考えてしまう。可愛い服を買ったら彼に見てもらいたいし、手をつないだときに指先が目に入ったら、きれいだと思って欲しい。
最近どうですか、ネイリストさんから話を振られればもう、千塚さんの話題は止まらない。春が来たことを小鳥がさえずりで告げるように、恋をしたら弾む気持ちをまわりに触れてまわりたくなる。
私はSNSを通して知った千塚さんの情報を、さも彼の口から直接聞いたように、彼と触れ合う中で知り得たように会話の相手に話して聞かせた。少し都合の悪い部分は隠しながら自分なりにアレンジを加えると、千塚さんとの関係はもはや交際まで秒読み段階と伝えざるを得ないのだけれど、不思議とそれも真実からは遠くないような気がする。
色付いていく指先を見つめながら、春に花が開くことについて考える。花は、春が来てあたたかくなるから咲くのではなく、春が来て嬉しいから咲いてしまうんじゃないだろうか。千塚さんと出会った日にはつぼみだった桜も、もう花開きあっという間に七分咲きを超えそうだ。今、春が来ている。この世の中に、私の心に、千塚さんと共に!
千塚さんのことを誰かに話しているとき、そこにいくらかの嘘があっても、妄想で補足されている箇所があったとしても、語るほどに私の彼に対する想いは増していき、ふたりの関係を信じることができた。そういうとき、私は自分が強くなったような気持ちになる。どんなさびしい夜だって、いつか千塚さんとともに過ごせる日々のためなら乗り越えていけると感じる。
「ねえ、私、彼氏が出来るかもしれない」
「そうなんだ、私の知ってる人?」
「ううん。知らない人。千塚さんていうの」
「へー、おめでとう」
私と千塚さんの愛を祝福したいずみは、そのまま同じトーンで話を続ける。
「ところで、女衒から連絡来てるんだけど、今日の夜お花見クルーズ行かない?」
「話聞いてた? 私、彼氏出来そうなんだよ」
「だから何?」
「そのタイミングで出会いの場に行くわけないじゃん」
一瞬間を置いて、いずみは首をかしげる。
「そうなの?」
私は当たり前のことを言ったつもりだったけれど、相手にはまったく届いていないようだった。たしかに、彼女が誘ってきた集まりを「出会いの場」と呼ぶのは語弊があったかもしれないけれど、少なくとも異性との交流の場ではある。いずみが「女衒」と呼ぶ三十過ぎの女が主催している飲み会やイベントは、経済的に余裕のあるおじさんと若い女をマッチングさせる趣旨のもので、私たちは条件が合えばそういうものに参加してキックバックを受け取っていた。
「まあ、出会いの場というより、単なるバイトみたいなもんじゃん。気にしなくていいでしょ」
「千塚さん以外の男の人と、もう話したくない」
「相手を男だと思うな、金だと思え」
「千塚さんにも悪いし……」
「ふーん。まあ、まだ早い時間だしもうちょっと飲んでから考えよう」
いずみは片手をあげて店員を呼び止めるとレモンサワーを注文し、私にも次のドリンクを促した。どいつこいつもみんな私のことを、「酔わせればなんとかなる」と思っているようだけど、千塚さんを想う私の心はもうそんなに軽くはない。
気がつくと私は、大横川を走るクルーザーの上にいた。
居酒屋ですっかり出来上がってしまい、いずみから「このあとシャンパン飲もうよ!」と乗せられるままに女衒がセッティングした船に乗せられた記憶はうっすらある。もういずみもすっかりやり手ババアの側にいるようだ。それとも私がばかで軽薄なだけなのだろうか。夜に重しが欲しい。
川の両岸には桜並木が続いていた。クルーザーは緩急をつけてその間を進んでいく。ライトアップされた夜の桜は乳白色のオパールのような光を放ち、その連なりがホログラムのトンネルを作り出している。桜の花自体に光が宿り、そこからひとつひとつ音の震えが感じられるようだった。同乗している騒がしい酔っぱらいたちの声がもしも止むなら、一帯に花の奏でる音色が響きそうな夜桜。
この桜を千塚さんと一緒に見られたらいいのに、と自然と考えてしまう。船を降りたら二度と会うつもりもない女の子やおじさんたちとこの瞬間を共有しても、ただむなしいだけだった。
桜の枝が川面にしなだれかかるように垂れ下がる場所で、船は速度をゆるめる。みんなが一斉にスマホで写真を撮り始めた。私も何回かシャッターを切るけれど、画面に表示される桜は目に映るものとはまるで違っていた。
「
おじさんのひとりが集合写真の枠内に私を押し込む。さっきまでもう少し酔っていたときには気持ちよく喋れていた相手だったのに、今はどうしてこの人が馴れ馴れしく私に触れるのかも、分からない。グラスで顔を隠してその場をやり過ごし、残っていたシャンパンをあおった。そのまま上を見遣ると、花びらが空飛ぶ魚のうろこのように銀色に輝きながら舞い散るのが目に入る。川面にはもういくつかの花びらが浮かんでいた。
私はこの桜の下で、千塚さんと触れたときに覚えるであろう感触を想像する。
四月の夜、彼の鼻の先はきっと少し冷たい。千塚さんとキスするなら、その冷たい鼻先は唇よりも先に私に触れるだろう。お互いの鼻がぶつかるやや硬い感触を覚えるとすぐに、千塚さんの唇が私の口元を覆う。下唇のほうが少しだけ厚い千塚さんは、やさしく包み込むようなキスをしてくれるはずだ。睦み合う長い口付けの途中に、彼の指が私の髪を梳く。それは少し、くすぐったかったりもするのだろうか。
「ねえ、鈴ちゃん、写真送るから連絡先教えてよ」
「あ、彼氏いるから無理です」
おじさんの一言で現実に引き戻されたせいで、とっさに相手を拒絶してしまった。
こういう答え方をすることは、当たり前ながら女衒主催の飲み会では歓迎されない。別に、彼氏はいるならいたでいいだろうけれど、それを公言するにしてもおじさんたちの期待を潰してはいけないのだった。こういう場での男の優しさは、チャンスを感じさせてくれる女にのみ向けられる。それがなくなるということは、こちらへの当たりが厳しくなるということだから、自分にとっても得になる話ではなかった。
「絶対、鈴のせいだよ」
タクシー代が出なかったことにいずみは腹を立てていた。私だって、憤りで血管がブチ切れそうではあるが、自分で蒔いた種なのだから仕方ないと思うしかない。
クルーザーを降りた後、みんなで店に入って飲み直す流れになったけれど、場の雰囲気はどんどん悪くなっていくばかりだった。船の上で私が連絡先の交換を拒否したおじさんは、他の女にターゲットを変えればいいものの次の店でも私に照準を絞り、そのたびにこちらの対応に不満を示した。彼はおじさんたち側の中心人物だったようで、まわりもなんとか私たちをうまくいかせようと援護してきたけれど、彼氏がいるからどうのこうのとネチネチ言ってくるおじさんに途中から本当に嫌気がさしてしまってシカトし始めたら彼の一声で場はお開きになり、私は他の女の子にもおじさん連中からもうとまれて店を後にしたのだった。
いずみは吊り革に片方の手首を通してぶら下がるような格好になっている。彼女と電車で帰宅するのは、はじめてかもしれない。
「盛り下げちゃってごめん」
私が話しかけるとスマホに目を落としていたいずみは顔を上げ、ほんの短い間、何も言わずにこちらの目を見つめ小さく口を動かす。
「本当」
にらまれたわけではないけれど、何も言い返せない。飲み会のキックバックとタクシー代はお互いにとって大事な収入源だった。それを知っていながら自分の事情だけを優先するなんて、本当はしてはいけないことだったんだと思う。
「対価発生してるんだからちゃんとしようよ。向こうも接待飲みっぽかったし、ああいう態度とったらまわりの人も可哀想じゃん」
正論めいたことを言ういずみの言葉を黙って聞いていた。そういうことはまともな場所でまともな相手にだけ言って欲しいというのが本音だった。ギャラ飲みなんて体のいい援交みたいなものなんだから、そんな倫理観を持つ必要はないと思う。だけど、現実の問題として彼女が手にするはずだった収入の一部を私がおじゃんにしてしまったことは心苦しい。相手に何の補填もしてあげられないなら、こうしておとなしく叱責を受けるしかない。神妙な表情を作るだけなら、無料(タダ)だ。
「……彼氏いるって言ってたけど、まだ付き合ってはないんじゃなかったっけ」
私の反省を感じさせる姿勢を見てか、いずみのほうから話題を変えてくれた様子だった。
「うん、でも、もうすぐって感じだから」
「ふーん。彼氏いるから連絡先交換できませんってウケるね」
「ごめんね。千塚さんのこと、裏切りたくなかったの……」
「そんな真面目な人なんだ」
「うん。それに優しいし、情熱的で、すごくいい人」
今のところ千塚さんの情熱的な面はゆめいろファクトリーに関してしか発揮されているのを知らないけれど、間違った情報というわけではない。
「どこで出会ったの?」
「……SNS」
本当のことを言うべきか否か、葛藤があった。中途半端に倫理的ないずみには、千塚さんとのなれそめを話せそうにはなかった。余計なことで叱られるのは趣味じゃない。
「そうなんだ。ツイッターとか? 何がきっかけで会うようになったの?」
だけど、相手から質問されるうちに、少しだけ試してみたくなる気持ちが生まれる。千塚さんとのことは、まだあおいちゃんしか事実を知らない。他の人に話すことはあっても、その内容は私の編む物語だという自覚はあった。だからこそ不安だった。自分が置かれている状況に客観的な意見が欲しかった。占うようなつもりで、私はいずみに今の状況を伝えた。
「まだふたりで会ってはいないんだよね」
相手の眉根に軽くしわが寄る。彼女は私が言ったことを飲み込めていないようだった。薄墨をこぼしたようにさっと胸に広がった動揺を隠して、私は話を続けた。
「SNSで仲良くなって、メッセージのやり取りとかをしてるの。それで、それが、その……とってもいい感じで」
「はあ。だけど普通、そういう風に仲良くなったら男の方から食事に誘ってきたりしない?」
「まあ、そうだよね」
「その気配はあるの?」
「多分ね。彼は恥ずかしがり屋さんなんだと思う。女性は苦手って言ってたし」
どこからも入手していないでっち上げの情報で切り返す。いずみはまだ、要領を得ないような顔をしている。
「めんどくさい男だなあ。っていうか、本当に会えるの、それ。なんか会えないような気がしちゃ……」
「会える。会うよ、絶対会う!」
悪い結果の出る占いなんて信じない。食い気味にいずみの言葉を遮ると、相手の目が少し泳いだ。
「ちなみに、その人の顔は知ってるんだよね」
「うん」
「まあ、それにしてもさ……」
地下を走る真っ暗な車窓に私といずみの顔が並んでいる。ガラスの中のいずみと目が合い、彼女は私から視線を外す。
「ネット上で交流を深めるのもいいけど、なるべく早く会ったほうが良いんじゃないの」
「出来るだけ頑張ってみる」
「そうして。実物がどんな感じかは分からないもん。写真なんてどんな風にでも加工できるし、そもそも別人の写真かもしれないからね」
それだけは否定出来ることだったけれど、言い返せば出会いの経緯との矛盾が生まれてしまうので黙っているしかない。
「でも、もし相手の顔が写真と違ってても私は別にいいよ。千塚さんの見た目を好きになったっていうわけじゃないし。性格いいのは分かってるんだから大丈夫」
「そうは言っても、会って喋ったり遊んだりしなきゃ分かんないじゃん。ネット上での発言なんていくらでも取り繕えるでしょ。そこだけで相手がどんな人か判断するなんて……」
心配無用、とはねつけたかった。占いの時間はもう終わりだ。いずみにはもっと現実を見て欲しい、リアルな千塚さんの姿を。そうすれば、彼がどんなに素敵な男性か分かってもらえるはずだ。千塚さんとお付き合いして、早くいずみを彼と会わせてあげたかった。私の愛する千塚さんを前にすれば、彼女はきっと自分が誤解をしていたことを詫びるだろう。私には、両手をついて謝るいずみの体を起こし、その額についた泥を白いハンカチで拭ってあげるところまでイメージできている。未来の予想図が頭に浮かぶと、車窓の中の私の口元もほころんだ。その横で、いずみの警告的なアドバイスはまだ続いていた。
「そんなのってまぼろしに恋してるのと一緒じゃん」
最後に私の耳に入ってきた言葉は、すぐに消えてはくれなかった。地下を走る真っ暗な車窓に私といずみの顔が並んでいる。ガラスの中のいずみと目が合い、私は彼女から視線を外す。
早く千塚さんに会いたい。千塚さんに触れたい。Linxにアクセスしてもまだ千塚さんの日記の更新はなく、仕方なしにもう何度も読んでいる二日前に投稿された彼の最新の投稿にまた目を通す。
書かれている内容は相変わらず、ゆめいろファクトリーのことだ。日記にはまなこのブログに飛べるURLも貼り付けられていた。こちらも、もちろんチェック済みだった。ブログには父親の誕生日に自宅で手巻き寿司パーティーをしたという報告と、家族と思われる四人の手元が映った写真、それから手巻き寿司を頬張るまなこの顔が上げられていた。アホ面の背後に映る窓の外はまだ明るい。昼間から、ずいぶんとおめでたいことだ。私の脳みそには、また無駄なまなこの情報ばかりが蓄積されていく。こいつの好きな手巻き寿司の具がイクラとサーモンとキュウリの組み合わせだと知ったところで嬉しくもなんともない。私が知りたいのは、千塚さんなら何を巻くかだ。
千塚さんは、寿司を巻くまなこが可愛いという。お父さんを大切にしていてえらいねという。まなこを持ち上げる千塚さんの日記を読んでいると、いつの間にか自分が両の奥歯を食い縛っていることに気付く。悔しくてたまらないけれど、千塚さんだって、ずっとこんな風にまなこのファンでいるわけではない。アイドルでいられるのなんて若い間のほんの短い期間だけだし、いずれはグループも解散する。うまくいけばそこでまなこは引退するだろうし、そうならなかったとしてもどのみち、いずれは死ぬ。千塚さんもそこまでの過程で、きっと目を覚ましてくれるはずだ。これだけ何かを好きになれる人なら、きっと私と恋をしても情熱的な想いを持ってくれるだろう。私だって、千塚さん以上にいつまでも彼を愛し続ける自信がある。大丈夫、千塚さんなら大丈夫、私と最高の関係が築けるはず、そう言い聞かせる。
いずみと別れて帰宅してから、化粧も落とさずベッドに横になって千塚さんのSNSの画面をずっと眺めていた。それ以外には、何もする気になれなかった。
いずみは私の千塚さんへの想いをまぼろしと一緒だと言ったけれど、そもそも恋そのものが相手にまぼろしを見ることなんじゃないだろうか。千塚さんだって、恋とは違うかもしれないけれど、実際に知り合ってもいないまなこに夢中になっている。
私は千塚さんを一目見ただけで気がついたらもう彼のことを好きになっていた。考えを巡らせる余裕もなく、どうしようもなくなってしまっていた。春が来て開く花が我慢も逡巡もしないように、私の恋は千塚さんに巡り合ったことでただ喜びを覚え、始まってしまった。人を好きになる気持ち自体かたちのないまぼろしのようなものだというのに、それをいちいち現実と照らし合わせて過度に期待をしていないか確認するなんてばかげていると思う。己の胸に宿る熱い想いを信じてさえいれば、夢見ることを恐れなくてもいいはずだ。私の中には、自分が想う千塚さんの姿がまぼろしであったとしてもこの気持ちを貫いていく覚悟がある。彼に出会って恋に落ちたことが始まりで、そこで話は完結している。今日のいずみの言葉には引っかかりを覚えたけれど、本当は、疑うことなんて何もないんじゃないだろうか。揺らぐ必要だってどこにもない。恋はいつでもアルファ・オメガ。始まってしまったらもう、終わりまで突っ走るしかない。
Linxを閉じて、いずみに今夜のことを謝るメッセージを送った。
「今日は本当にごめんね。あの後で、千塚さんと会う約束できたよ!」
追加した一文はまだ予言ではあるものの、そう書いてみるとそれは確かに、本当になることのような気がした。
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