exp(x) ≪下≫
< >
そう考えた方が辻褄が合った。
無実を証明したくてこれまでよりももっと頭を働かせた。しかし、どれだけ考えても私が望まない方向に逸れていく。
ガリ、ガリ、と私の心が削ぎ落とされる。
前回、彼女が家を訪問してきた。しかしそれは有り得ないことだ。
この世界はあくまでも理に従って動いている。決定された運命から逸れることを世界は許さない。『巻き戻り』がある以上、超常を否定することはできないのだがそれでも腑に落ちないのだ。
今思えば私が死を受け入れて部屋に閉じこもっていた期間に結末が何度か変化していたこともおかしい。それはつまり、私以外の何かが運命に干渉していることにほかならない。世界か、それ以外の何かが。
悪夢が始まった日――つまり私がこの世界の悪意を浴びることになったその日、私はトラックに轢かれる夢を見た。
私が跳ね、彼女の前で向かい合わせになったその瞬間、けたたましい音とともに車体が私の左半身を潰した。あれが始まりだったからよく覚えている。
きっとあれは『巻き戻り』の記憶の一片だ。
正夢ではない。なぜならその日のその瞬間、彼女は違う行動をとったから。
このわずかなズレがこの世界においてどれほどの意味を持つのか、私は痛いほど知っている。
つまり、そういうことなのかもしれない。
私へ降り注ぐ最悪の繰り返し。その私に最も近い存在。
彼女だ。彼女が何か知っている。聞かなければならない。私のために、そして彼女の無罪を証明するためにも。進むんだ。この閉ざされた世界から。
私は扉を開けた。
*
「……藍、今日は早いんだね」
「慧は遅かったね」
私は彼女の目を見ずに冷たく答えた。
彼女との会話は久しぶりだ。
「ちょっとついてきて」
「ホームルーム始まるよ」
「構わないでしょ?」
「……」
黙りこくる慧。この所作だけで彼女が『何か』であることを表していた。
やはり私は、彼女の目を見ることはできなかった。
*
屋上へと向かう引き戸を開けると、冷えた風が私たちを迎えた。ざらざらとしたコンクリートにはところどころ苔が生えている。
端まで歩いた私はフェンスを掴む。網の向こうには私を幾度となく殺した街が、世界が広がっている。私がいなければなんて呑気なものだろう。こんな茶番はもううんざりだ。
私は問う。
「過去に戻れるなら何がしたい?」
後ろにいる『何か』の正体を見定めるために。
「やっぱり覚えてるんだね……」
「――ッ!」
心臓が跳ねる。思考がまとまらない。
「答えになってないよ……ちゃんと言って……」
ぐちゃぐちゃになった喉の奥からやっとの思いで言葉を引っ張り出す。
彼女は今どんな表情をしている? 掌で転がされている私を嘲笑っている? それとも冷徹に私を見下している?
「私は、あなたを救いたい」
「は……?」
私はようやく彼女の顔を見た。
その顔は嘲笑うでもなく、見下してもいなかった。 私の知っている彼女の表情。一見無愛想だが実は柔らかく、優しい表情をしたいつもの彼女がそこにいた。
「ごめんね。辛かったよね。何度も酷い目にあって……助けられなくてごめんね」
悔しそうに唇を噛む彼女。
分からない。じゃあ今起こっていることは何? なぜ彼女は記憶を保持していて、私は死ぬ?
疑問が頭の中を錯綜する。
「……どうして慧がそれを知ってるの」
「それはこっちが聞きたいよ」
「どういうこと? あなたは一体なんなの!? 誰なの!?」
「私はあなたの親友だよ。何度この世界を繰り返そうが、何度あなたに遠ざけられようが、それだけは変わらない」
本当に知っているのだ。私が今まで、そして彼女にとってはこれから起こるはずの裏切りを。
彼女はずっと知っていたのだ。
「あなたは最初から知ってたの……?」
「うん。時間遡行は私の力だから」
「な、なに馬鹿げたこと言ってるの?」
「私だって分からないよ。でも、私はこれが二回目だから」
「えっ? えっ……?」
彼女の口から次々と出てくる予想外の言葉に私はずっと困惑させられた。
「覚えてないよね。私がこの力を初めて使ったのはあなたと出会ったとき。あなたと出会うために使ったの。いや、使ったというより体験したと言った方が正しいのかな」
彼女は言葉を綴る。
「私が心の底から後悔して願うと時間が巻き戻るの。どうして私にこんなことができるのか私自身分からない。でも、あの日あなたに声を掛けられなくて、すごく悔やんだ。そしたらその瞬間、私はベッドの上に戻ってた。それが最初」
彼女の目はどこか別の景色を見ているようだった。きっともう無かったことにされた、私の知らない世界を見ている。
「本当であれば私たちは出会うことはなかった関係。ねじ曲げた運命で私たちは友達になったの。そう、捻じ曲げた。私が捻じ曲げたの……だから、だから藍は……ッ!」
――だから私は死ぬ。そうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。しかしそれを私は肯定も否定もすることはできなかった。
「『この人と一緒にいたい』そう思っただけなのに。でもきっとそれが間違いだった。私の我儘で、あなたの終着点を変えてしまったの。分かるわけないじゃない……そんなの……ッ」
運命の友人だと思ってた。でもそれは彼女によって捻じ曲げられて作られた偽りの関係だった。
ごめんなさい、ごめんなさい、と彼女は喉を震わせて詫び続けた。顔をくしゃくしゃにして大粒の涙を零していた。
彼女の泣き顔を見たのは初めてだ。落ち着きがあって、表現が下手で、なにより強い心を持っていた。だからそんな彼女の泣き顔を見て、私の心は曇り始めていた。
でもね、と彼女が呟いた。
「まだ試してないことがあるの」
彼女は真向かいにいる私の方へ足を進め、そして私の横を通り過ぎた。私の後ろにあるのは転落防止のためのフェンスだけだ。彼女はそのフェンスを乗り越え、縁に立った。
「それはね、私が死ぬこと」
彼女は微笑んだ。
――――
「あ、あの!」
夏も始まりかけの日曜日。ティッシュやら洗剤やらの生活用品が少なくなったから、と私は母に買い物を頼まれていた。
そしてその帰り道にある公園。公園と言っても広い敷地にポピュラーな遊具とベンチが置いてあるだけの簡素な公園だ。私がベンチに腰を掛けてしばらくしたあと、その声は私の耳に飛び込んできた。
「ジュース、飲みませんか?」
誰かが言ってたなあ。道端で突然話しかけてきて、飲み物を勧めてくる不審者がいるから絶対に受け取ってはいけない、と。
「いやあ、遠慮しておきま――」
恐る恐るその声の主を確認したとき、思わず言葉が引っかかってしまった。
そこには女の子がいた。私と同じくらいの歳で、短く切り揃えた艶のある黒髪にお人形のような顔立ち。
そして、そう、なんとも形容しがたい不思議な感覚だ。初めて会うはずなのに初めての気がしない。なんとなくこの子と会えたことが嬉しい。そう感じた。
「とりあえず、隣へどうぞ……」
一目見て安全だと思った私は少し横にずれた。
*
「これ、変なの入ってないよね……?」
私は受け取った紙パックを訝しげにくるくると回転させて言った。
「は、入ってないですよ!」
「あはは、冗談冗談。あ、私は宮川藍。藍色の『藍』。あなたは?」
「灰野慧です。ちょっと違いますけど彗星の『彗』に下心で『慧』」
「したごころ……?」
私は漢字に疎かったせいで、もしかしてやっぱり彼女は危ない人なのでは、と思った。
「まあいいや。あと私、東中の二年なんだけど」
「私は笹中です。あ、でも私も二年生です」
「やっぱり同い年なんだ! ならそんなかしこまらなくても大丈夫だよ」
私はぐいっと前のめりに顔を近づけた。
「うん……そうする……」
彼女は顔を背けながら何度も紙パックにストローを突き立てていた。ようやく口を破ると、その中身を勢いよく吸い上げた。
「うえぇ……何この味……」
「えぇ!? ど、どうしたの!?」
もしかして本当に変なものが入ってて……だとしたら自爆? え、何やってるのこの子……。
と、半ば引き気味に思案していた私が彼女の持つジュースのパッケージを見てみると、そこには『ウニジュース』という見たことの無い組み合わせの文字が見えた。
「ど、どうしてそんなの買っちゃったの……」
「慌てて買ったから……」
なぜ慌てて買ったのかは敢えて突っ込むことはしなかった。なんとなく余計なお世話だと思ったからだ。
「ちょっと飲ませてよ」
「おいしくないよ……?」
「まーまー」
私は得体の知れないウニジュースとやらを受け取ると、ストローの穴で中を覗いてから慎重に中身を吸い上げた。
「……おいしいじゃん!」
「えっ? 本当に?」
「うん! 全然無問題!」
「ふーん……」
今度は逆に彼女が奇妙なものを見るような目をしていた。
「じゃあ私のと交換しようよ!」
「え、ほんとに?」
「いや?」
「むしろありがたいけど……」
「えへへ、やったー」
そのあとしばらくは互いに言葉も交わさないまま、ちゅーちゅーとジュースを吸い上げたり、変形した紙パックが元に戻る音だけが続いた。
暇だったので空を見上げたり、地面を観察したりしながら、この子が何をしに来たのか考えていた。
「あのね、宮川さん」
「んー?」
意を決したように口を開いた彼女だが、またすぐに「えっと、その」とどもってしまった。
それでも彼女は勇敢にももう一度口を開いて言った。
――――
「……さと……よ」
「藍……?」
初めて会った日の光景が脳裏を駆け巡る。
あの日のウニジュースはおいしくなんてなかった。
私たちはあれ以来、定期的に会うようになった。緊張していた彼女も次からは柔らかい表情を見せてくれた。
私たちが親友になるのはそう遠くはなかった。
一緒の高校に行こうと約束した。私は勉強が出来なかったから、彼女は私のレベルに合わせると言ってくれたけど、私はそれが嫌だったからすごく勉強して彼女の元々の志望校を受けた。
そして見事に合格し、運命なのか同じクラスになった。
大変だった分、嬉しかった。
全部、彼女が作った思い出だ。
なるほど。
ようやくこの世界が何で構成されているのか分かった。私を閉じ込めていたこの世界に満ちていたものをようやく理解した。
それは『エゴ』だ。
この世界は彼女の『エゴ』でできていた。
轢かれて、身体を潰されて、壊されて、滅多刺しにされて、臓物をかき混ぜられて、地面に激突して頭が割れて、暗い水の中で身動きが取れなくて、肺が焼けて、首が捻れて、瓦礫に肉を
――世界が憎かった。
「さっさと死んでよッ!」
それは落花のようだった。美しく、しかしとても儚い。重力に従うまま、あまりにも簡単に落ちた。
屋上には私と静寂だけが残った。
「フフッ……あはははッ! 終わった! やっと解放されたんだ!」
これで全部終わり。そして始まる。私の世界が。明日があるかは分からないが、『今日』はやっと今日で終わるんだ。
作り物の絆。作り物の関係。作り物の思い出。全部、運命ではなくて作られたものだった。
彼女が自分勝手に描いた幻想に私は巻き込まれたのだ。本来そこに友情なんてものは存在しなかった。
そうだ。
そのはずなのに、どうして。
どうしてこんなにも苦しいの。
あの日の言葉。
『あなたの友達になりたい』
ああ、作り物だ。それは変わることの真実だ。
でも、それでも彼女の笑顔は本物だったじゃないか。
「はは……」
彼女は加害者だったか? 違う。少なくとも彼女も運命に踊らされた被害者だ。罪滅ぼしのために何度も世界を繰り返して苦しんだはずだ。
私に言わなかったのはエゴかもしれない。
でも、コンクリートにできた涙のシミの数が教えてくれてるじゃないか。
私の気持ちは偽物だったか? そんなことはない。私にとって彼女は、慧は大切だ。初めて会った時からずっと。
そうだ。あのときのジュースは本当はおいしくなんてなかったんだから。
「馬鹿だ私は。自分が一番分かってたはずのに」
――彼女がいない世界で生きるなら、死んだ方がマシだ――
「ごめんね慧。すぐにそっちに行くよ。私たちずっと友達だからね」
いつか誓った仲直りを、今。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます