exp(x) ≪中≫

「おはよ、藍」


 いつもの時間に登校した私を、慧は迎えてくれた。読んでいた本に栞を挟み、パタンと閉じると、無表情に近い笑顔で私を見つめる。


 彼女が私以外の人間に感情の起伏を見せることは滅多にない。この笑顔は私だけのものだ。それだけで私たちの絆を証明するのに十分だろう。


 その絆を今日だけ踏みにじる。


「……」

「藍……?」


 慧は訝しげな表情でこちらを覗く。


 私は彼女の視線に引っ張られながら、彼女の言葉を無視して自分の席に座った。


 ごめんね、慧。でもこうしなきゃダメなの。


 罪悪感が胸を駆ける。


 今日、私は死ぬかもしれない。もしかしたら明日も明後日も……。仮にそうだとしたら、前回、前々回と同じように大きな事故が起きるはずだ。


 その事故に慧を巻き込むわけにはいかない。彼女がいない世界で生きるなら、死んだ方がマシだと思えるほどに彼女が大切だ。


 必ず、慧を守る。


 だから私は彼女を遠ざける。


「話しかけないで」


 彼女のためならばどんな障害だって乗り越えられる。


   *


「ねえ、藍……一緒に帰ろ……」

「私に着いて来ないでって言ってるでしょ」


 彼女はとても悲しそうな顔をしていた。


 私自身、もう少し言い方があったのではと思うのだが、どうしようもなく不器用なのだ。でもこれも今日だけ。明日になったら全力で謝ろう。それが私にできる罪滅ぼしだ。


 私に縋ろうとする慧を振り切って教室を出た。


 階段を下り、灰色の廊下を進む。途中で二度ほど角を曲がるとその先に玄関が見える。その手前にある自販機に小銭を入れ、ボタンを押した。


 私が今回、学校に来たのには理由がある。


 一つは交差点での事故が、私がいなくても起こるのか確認するため。前回、私が学校を休んだ時にもあの事故が起きていたならば、その時間に下校してるであろう慧が巻き込まれるかもしれない。これは避けたい。


 もう一つは私が死ぬ時間。死ぬことが運命づけられているのならば、その時間がランダムなのか、それとも決まっているのか把握しておきたい。もしランダムであれば、やはり慧を遠ざけなければならない。


 ため息が出る。


 アームがパックを掴み、取り出し口まで持ってくる。私はそれを取り出すと、半ば八つ当たりぎみにストローを突き刺した。


「うにパワーで頑張ろ!」


 口の中を覆う、いつものまろやかで苦い得体の知れない味がいつもより薄く感じた。


   *


 私は交差点には近付かず、およそ百メートルくらい手前の電柱の影で待機していた。道は直線だし、クラクションが鳴るから事故の確認は容易だ。


 事故が起きた時刻はもうそろそろだったはず。私は固唾を飲んで監視していた。




 ……一分、二分。スマートフォンで時間を確認しながら交差点を見守るが、事故は一向に起きない。予定の時間は過ぎているはずだ。


 目頭が熱くなる。


 なんて卑しいんだ。世界は私を殺すためだけに動いている。なんだそれ。こんな性格の悪い世界と付き合っていかないといけないのか。ふざけるな。私が一体何をしたんだ。


 納得のいかない現実に嫌気がさす。


 しかし結果は得られた。私が死ぬようにだけ世界は進むが、時間は厳密ではない。いつ事故が起こるか分からないということは、やはり慧と一緒にいることはできない。


「慧には申し訳ないな……」


 罪悪感で押し潰されそうだった。不本意ながらも親友を裏切るのだから。だが、仲直りの言い訳は明日の私に任せよう。今日の私は、まず目の前の問題を解決しなければ。


 駅に向かうためにはあの通りを横切るしかない。また渡る時に事故が起こるのか、はたまた予定の時刻が過ぎているから起こらないのが。とにかく注意して行こう。


「ねえ、喉、渇かナい?」


 私が先へ進もうとしたとき、誰かに呼び止められた。聞き覚えのない声だ。


 振り向くとそこには黒いパーカーを着た男がこちらを見ていた。手には濁った液体が入ったペットボトル。深く被ったフードからは並びの悪い歯だけが覗いている。


 来た、と私は直感した。次の災厄はおそらくこいつだ。


 男は口元を醜く歪ませると、ゆらりと動き始めた。


「こ、来ないで!」


 私は身を翻して逃げるが、まるで夢の中かのように足がもたついてうまく走れない。また繰り返すかもしれないと考えたら体が動かないのだ。


「待ァってよお」


 這う這うの体で不格好に逃げる私の背中にへばりつくような声。


「捕まえタ♪」


 揚々と走る男にあっさりと追い付かれ、肩を掴まれてバランスを崩した勢いのままアスファルトに押し倒された。抗おうとするが力が強く、なかなか身動きが取れない。


「やめ……てよっ!」

「いって」


 なりふり構わず必死にもがいていたら、振りほどけた手が男の頬を直撃した。


 ずっと気味の悪い笑いを浮かべていた男の表情がみるみるうちに怒気を帯びる。男は咆哮した。左手で私の喉を地面へ押し付けながら、右手を大きく振り上げた。その手にはぎらりと光るナイフが握られていた。


「や――」


 男の腕が振り下ろされたとき、金属の冷感が私の体の内部に潜り込んだ。直後、その傷口を中心に痛みと熱が体を駆け巡る。


 血が飛沫をあげる。私の胸を何度も、何度も、何度も。


「こ……ぁ……っ……」


 締め上げられた喉から声にもならない音が鳴る。視界が混濁し、感覚も鈍り始めた。背中と地面の境界線が曖昧になり、胸のナイフもスポンジに刺しているかのように感じる。


 やがて何も感じ取れなくなり、ゆっくりと意識は遠のいていった。


  <4>


「はぁ、はぁ……」


 また戻ってきてしまった。


 やはり私は死ぬのだ。正解ルートを見つけるためにこの『巻き戻り』が起きている。


 生きて死んでを繰り返して、私の存在が不明確になっていくようで恐ろしい。いつか呼吸の仕方を間違えてしまうのではと不安で仕方ない。


 苦しい。


「……っ……私なにして……」


 手で撫でていただけのはずの首に、気が付けば爪がくい込んでいた。


 落ち着け。


 私は生きている。生きているだろ。それは紛れもない事実だ。確かに死んだかもしれない。それも事実。それでも動いている。私の心臓は脈を打っている。


 絶望することなんてない。私が明日を迎えるまでこれが続くなら、私はきっと今日を乗り越える事ができる。回数に限りがあるのかもしれないが、ここは失敗を取り返せる世界だ。何も臆することはない。


 むしろ恐れるのは慧に謝れないこと。慧を裏切り続けなければいけないこと。しかしそれも生き残ることさえできれば無問題だ!


「絶対に生きて、慧に謝ろう!」




 ――死んだ。




  <5> 


 死んだ。




  <8>


 死んだ。




  <44>


 しんだ。




  <   >


 。




 これでなんどめの「きょう」だったっけ。


 私は完全に停止していた。考えることも動くこともやめ、ただ部屋の隅で布団を被ってじっとし続けた。


 何度繰り返そうが解は変わらない。袋小路の現実に、どれだけ抵抗しても無意味だと悟った。生き残る方法を探していたのに、次第に楽な死に方を求め、しかしそれすらも見つからず、遂には何もしないことを選択した。


 この状態を何十日も続けている私の運命は知れている。正午過ぎに焼死もしくは転落死。それを逃れれば避けようのない事故死か溺死が待っている。死が諸手を挙げて待ち構えているようだ。


「はやくおわんないかなー。これ」


 だから私もそれを受け入れた。


 この『巻き戻り』は、記憶だけが引き継がれる。つまり脳も臓物もすこぶる健康。だから、睡眠から目覚めた時の心地よさと自身の骸の山の残像は、私を狂わせるのに十分だった。


 これは救済ではなく、罰なのだ。罰を受け続ければきっと神様が私のことを殺してくれる。審判の日が待ち遠しい。


 


 そんな私の思考に割り込むように、突然インターホンが鳴った。時刻は午前七時過ぎ。こんな朝に訪問者なんて珍しい。


「あーちゃーん! 慧ちゃんが来たわよー!」


 階下から母の声が響く。訪問者は我が親友、慧だった。彼女とはずっとまともに話をしていないが、彼女にとってはこれからのことだ。しかし彼女が一体何の用だろう。


 そこに違和感を感じた。

 

 運命は存在する。世界はある式に従って、一寸の狂いなく機械的にレールを辿るのだと思う。その中で私はイレギュラーだ。『巻き戻り』を通じて、私は本来とは異なる行動をとることができる。


 勿論、私は私以上の行動をとることはできないが、それでも世界は確実にズレていく。だから世界は整合性をとろうとする。私の死という結果を以てして。


 これが私の結論だが……


 私は前回、前々回をなぞるように過ごしていたはずだ。意識的に行動を変えた覚えはない。思考は保持しているから、僅かに変化が生じることはあるだろうが、それでも呼吸の乱れで台風は生じないし、踏み出す足の違いで地震が起こるわけではない。


 だから、今日もいつもどおり焼かれて死ぬ予定だったのだが、彼女は来た。


 中学校は同じだったが、家は離れていて、歩いて二十分くらいはかかる。私が目覚めてから十数分。仮に私が運命を変えるような行動を起こしていたとしても、彼女がここにいるはずがないのだ。



 なら、



「藍、起きてる?」


 ノック音のあとに聞こえてきたのは慧の声。澄んでいて、どこか気の抜けていて、聞くと安心する。だが、この扉の奥にいるのは本当に慧なのだろうか。


 途端に私は恐ろしくなった。死の恐怖とは別種の、知ってはいけなかったものをしってしまったかのような恐怖。


「開けるね?」


 そのセリフを聞き終える前に、私は窓を開け、身を乗り出していた。焼死を回避するためのルート。最初、私は焦り過ぎたせいで足を滑らせ、打ち所悪く転落死した。


 地面を確認してから体を宙に投げる。背後から聞こえた開扉音が、やけに鮮明だった。


   *


 とにかく遠くへ行きたかった。


 私は息も絶え絶えに、アスファルトを遮二無二蹴り続けた。


 文字通り死ぬ気で身に付けたリスクヘッジ。さっき飛び降りたときの受け身もそのひとつだ。これで体力とかも引き継げていれば……


 そうこう考えているうちに右側に公園が見えた。こういう開けたところは経験則的に割と危険が少ない。体力も限界だしここで休もう。


「……」


 石造りのベンチに腰をかけた私は脳みそをフル回転させた。


 もし、世界が慧――もしかしたらそれ以外の人間――すらも狂わせてまで私を殺しに来ているとしたら……。


 十分に考えられる話だ。この最低最悪の世界ならばどんな反則技だってやってのけるだろう。


 そうなったら、つまり難易度が上がる。いや、ゴールがないのだから、罰のパターンが増えたと言うべきか。なんともまあ大変なことだろう。


 しかし私にとってそれは大した問題ではないわけだ。なぜなら私はとうに諦めているから。苦しい死に方が増えるのは嫌だが……あぁ、そうか。私が同じ行動しかしないから退屈だったのか。性格の悪いこの世界なら納得だ。


「ぷはっ、なにそれ!」


 壮大で神秘的だと我々が敬ってやまない世界様は、その実世界一陰湿な世界様だった。


 私は腹を抱えて笑った。


 こんなくだらないことをしている場合ではなかったが、気を紛らわしたかったし、なによりこうすることでもう一つのとても恐ろしい可能性から目を背けていた。


 背けなければどうにかなってしまいそうだった。


 それは――


「なんだか、ヒ、たのしそうだね」


 不意に聞き覚えのある、しかし決して喜ばしくない、言ってしまえば不快な声が鼓膜を揺らす。耳にべったりと張り付くような喋り方。見ずとも分かる。黒パーカーの男だ。


 彼を認識した時、既に私は走り出していた。


 冷静さを取り戻して、さっさと死のうと思っていた私だが、こいつにだけは殺されたくない。


 この『巻き戻り』では事故死が大半を占めてきたが、こいつだけは明確に悪意を持って私を殺そうとしてくる。その粘着質な態度がこの世界と重なって癪に障るのだ。


「うヒ、どうして逃げるのさ」


 林を突っ切り、道路ヘ向かう。途中で裸足に砂利や枝が突き刺さって体勢を崩しそうになったが、止まればあいつに捕まってしまう。地面に手を付いて、なんとか前ヘ進む。


 林を抜け道路に出ると、目の前は石垣が広がっていた。真後ろからはあいつが茂みを掻き分ける音。考える暇もなく私は右に進み、最初の交差点を左に曲がった。


 そして間もなく、私の後ろを追いかけてきた男も角を曲がり、その姿を現した。


「いイ加減諦めな――っガァ……ッ!」


 私はこれまでの世界で生きるためにどんなことも試してきた。たとえそれが犯罪だとしても。


 私の右手から血が滴る。


 裸足であろうがなかろうが、そこまで足が速くない私は結局男に捕まっただろう。今日は何も用意せずに家を出てきてしまった。だから、さっき林で体勢を崩しかけたとき、手のひら大の石を拾っておいたのだ。


 私は体制を崩した男に跨り、それを振り下ろした。


「ウっ……やめ――」


 何度も、何度も何度も。


 相変わらず気色悪い顔。石で打ちつけようが、血に塗れようが大して変わらない。むしろこうした方が男前に見えるんじゃない?


 腕を振り下ろす。


 でもこいつには感謝してる。世界に抗うことは許されないが、男一人にだったら抗える。このやり場のない苛立ちを発散することができるのだ。


 腕を振り下ろす。


 男が伸ばしていた右腕が地面に落ちる。彼はもう動かない。


 興奮したせいか体がだるい。服に付いた男の汚い血を洗いたいところだが力が出ない。少し休憩しよう。


 私はやけに血で汚れた服を視線を下ろした。


 ……は、なんだこれ。


 私の左脇腹にナイフが刺さっている。二本持っていた? 興奮していて気が付かなかった? 血が溢れて止まらない。


 それを認識した途端に走る激痛。


 私は半ば諦めていたが、やはり生存本能が働くのか、どうにか止血しようと努めた。しかし血は止まらない。


「君、どきなさい!」


 その怒鳴り声と同時に右方から衝撃がきた。勇気ある男性が私を男から引き剥がしたのだ。


 ぐちゃぐちゃになっている男に跨る血まみれの私。傍から見たら私が一方的に襲ったように見えていただろう。


 勘弁してよ。今、力、入らないんだから。


「ぅぐ、ぁあぁッ……!」


 慣性に従うまま、私は倒され、体に刺さるナイフの柄が地面と接触した。腹をかき混ぜられながら皮を裂かれ、私は呻いた。


 粘着質な男と運命に、私はまた抗うことができなかった。


 視界が狭まる。


 ああ、くそ。やっぱり怖いんだ。

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