短編集

桑゙

現代ファンタジー

exp(x) ≪上≫

 黒く塗り固められたアスファルトをさらに黒く塗り潰す影がふたつ。十一月初旬の放課後、学校からの拘束を解かれた二人の女生徒が帰り道を堪能している。


 楽しげな二人。快活なローファーは寒空を励まし、瑞々しい声は閑静な住宅街に少しだけ色を付ける。


 僅かに下り勾配になっている小路を抜けると、片側二車線の通りに差し掛かり、視界が開ける。忙しなく通り過ぎる車。その奥には女生徒たちが向かう駅が見える。


 彼女たちは信号待ちの時間すら余すことなく有意義に使うことができる。


 今度の土日はどこに行こうか。それなんだけど、行ってみたいお店があるんだ。え、どこどこ?


 話の途中、手前の車線で車が止まり、向かい側の信号が青に切り替わる。少女はスマートフォン片手に店を調べながら歩き出した。


 ここ! すごく良くない!?


 少女は大きく一歩、跳ねるように白線を跨ぐと、友人の方へ振り向いてスマートフォンの画面を突き付ける。


 ――そしてけたたましいクラクションの音が彼女の左方から猛スピードで襲う。


 あ


 耳を劈く110デシベルが、まるで引き伸ばされたかのようにゆっくりと流れる。しかしそれはあっという間に彼女を飲み込んだ。


 あああ




  <1>


「――ぁぁあああぁぁああッッ!」


 私は上半身を振り上げた。カーテンの隙間から差す光がちょうど顔を照らす。朝だ。乱れた前髪の隙間から足元まですっ飛んだ布団を放心気味に見つめる。


「ゆ、夢……?」


 それもとびきりの悪夢。潰された左半身をさする。頭がまだ起きていないのか、夢と現実の感覚が混ざって気味が悪い。


「まあいいや。準備しよ!」


 私はその不快感から逃げるようにベッドから降りた。


   *


「セーーーーーフ!」

「今日も遅いね、あい


 後ろの扉から一番近い席、教室へ駆け込んだ私を呼んだのはけい


 静かに微笑むその仕草から分かるように、落ち着きがあってどこかミステリアスな女の子。席は隣同士。そして私の中学生からの親友だ。


 私は自分の席に鞄を置き、椅子に腰掛けた。


「間に合えば無問題!」


 遅刻したか、していないか。それだけが問題なのだ。それならばギリギリまで朝を楽しんだほうがお得でしょ、と私は持論を提唱する。


 慧は興味なさそうに「そ」とだけ返した。


 そっけない親友の反応に私は仕方なく鞄から教科書を取り出す。一限目は国語だ。永田爺さんの授業は面白い。


「一限、数学だよ」


 慧は私の手元を見ながら言った。


「えっ、そうだっけ!?」

「今日は月曜日。国語は明日」

「ガーン。教科書見せてー」


 なんてことだ。永田爺さんの癒しボイスを御預けだなんて……。別に数学が嫌いなわけではないのだが、今やっている微分積分はイマイチ何をしているのか分からない。


 ショックで感情を萎ませながら、私は慧の手を掴んでお願いした。


「し、しょうがないな」

「ありがとー!」

 

 慧は顔を背け、反対の手で自身のうなじを撫でた。


 彼女がこうするのは、決まって感情を悟られたくないとき。つまりは照れ隠しだ。ミステリアスな彼女は、実はとても可愛らしい。


 あとでジュースでも奢ってあげよう。


   *


 下校のチャイムが鳴り響き、生徒たちがゾロゾロと帰路につく。私たちもそれに紛れて学校を出た。駅へ続く、若干下りになっている道。自販機で買ったパックのジュースを片手に、私たちは肩を並べて歩いていた。


「毎度思うけど、よくそんなの飲めるね」

「えー、おいしいよー?」


 慧は私が持っている「ウニ味」と書かれたパックを見て、まるでいかがわしいものかのような目をする。


 このクリーミーで得体の知れない苦味のおいしさが分からないとはなんと不幸なことなのだろうか、と私は慧に同情した。


 ジュースを半分くらいまで飲み終えた頃、下り勾配が途切れ、片道二車線の道路に出くわす。ここまで来て今朝の凄惨な夢の内容を思い出した。


(正夢、なんてことはないよね)


 体に走る不快感。私はそれをすぐに振り払った。


 手前の車線で車が減速、そして止まる。信号が青に変わり、私は慎重に横断歩道へ足を踏み入れた。


(なーんて、そんなことあるわけないか)


 夢なんか怖がってたら慧に笑われる。私は気を紛らわすようにズカズカと白線を跨いだ。


「藍。ウニ、ちょうだい」ふと、慧が口を開いた。

「珍しいね。急にどうしたの。」

「別に。なんとなく飲みたくなったの」

「そう、変なの」


 私は振り返り、ウニジュースを慧の体の前に差し出す。


(あれ……この感じ――)


 喚き散らすように走る騒音。


 既視感。やはりそうだ。私が慧の方を振り返ると、それは私を目掛けて襲ってくる。そしてこのあと私は……。


 急接近する死の音で、私の足は地面に張り付いてしまった。


 あああ


 もう、すぐそこまで来ているはずの騒音がやけに遠くに感じる。これが走馬灯と呼ばれるものだろうか。脳みそは途轍もない速さで回るのに、体は凍ってしまったかのように固まったまま。表情が歪む。


 そして、猛スピードの鉄の塊が、私の背中を、僅かに


「え」


 軽トラに接触したスカートが引っ張られて、動かせなかった体がよろめく。歴とした交通事故だ。しかしそれは大した問題ではない。


 私は生きている。


 夢の再現であれば掠るどころか激突していて、私の身体はぐちゃぐちゃになっていた。きっと今朝見たのは正夢――神様からの警告だったのだ。だからこそ、私の身体は原型を留めているのかもしれない。


 間もなく軽トラが背後を通り過ぎる。生と死がないまぜになっていた横断歩道の上で、私はただそれを背中で感じていた。生を確かめ、安堵をする。


 それを嘲笑うように、背後から降り注ぐ鉄パイプが私を押し潰した。




  <2>


「――ぁぁあああぁぁああッッ!」


 私は上半身を振り上げた。カーテンの隙間から差す光がちょうど顔を照らす。朝だ。乱れた前髪の隙間から足元まですっ飛んだ布団を放心気味に見つめる。


「ゆ、夢……?」


 それもとびきりの悪夢。潰された体をさする。頭がまだ起きていないのか、夢と現実の感覚が混ざ――


「違う。現実だった」


 ついさっきまで一緒にいた慧はいない。飲んでいたジュースもない。半壊した私の身体も……


 潰れた肉や砕けた骨の感触を思い出して、吐きそうになる。なんとか堪えて、一度深呼吸をした。


 もしかしたら事故に遭ってから、ずっと眠っていたのかもしれない。怪我もきっと治ったんだ。そうか、そうに違いない。


 半ば脅迫するように自身を言い聞かせていると、枕元に置いてあるスマートフォンが目に入る。私は恐る恐る電源ボタンを押して、ディスプレイが点灯させた。


「うそ、でしょ……」


 自分の目を疑った。ディスプレイに表示されたのは今日の日付。


 11月5日 月曜日


 そう、私の感覚で言えば「今日」の日付、つまりは数分前に起きた事故が起きた日。そしてそのあとに続く「AM」の二文字に私は愕然とした。


 時間が巻き戻っている。


 夢や勘違いなどではない。私はこの日に、学校へ行き、慧と帰り、ウニジュースを飲み、轢かれ、死んだのだ。そしておそらくだが、このあと同じことをすれば同じ結果になるのだろう。


 私はもう一度あの光景を思い出す。現実だと認識してしまい、途端に恐ろしくなった。


「うぷ……」


 私はベッドの脚下に置かれたゴミ箱を慌てて掴み、口元まで引き寄せた。腹部が逆流する感覚。空嘔からえずきで呼吸が止まりそうになる。


 今日は休もう。


 吐き気が収まってから、私はそう思った。こんな状態じゃ出かける気力もないし、なによりあの事故を避けられる。皆勤賞を逃すのは惜しいが、命と比べたら安いだろう。


 私はリビングにいる母に学校を休む旨だけ伝え、自室に戻った。


 隙間の空いたカーテンを閉め、乱れた布団を手繰り寄せる。できるだけ己と外界を遮断するように包まり、団子状態で目を閉じた。


 上手く寝付けない。もう十一月だというのに気持ちの悪い汗が滲み、ガサガサに荒れた肌のような感情が胸を掻き乱した。




 昼過ぎまでは胸がざわついて寝ることができなかったのだが、お昼ご飯を食べたら、思いのほかすぐに寝ることができた。なんとまあ単純な構造だろうか、私の身体は。


 スマートフォンの時刻を確認する。


 11月5日 月曜日 PM4時45分


 しっかりと時を刻んでいることに安心する。昨日――実際には今日だが――の事故があったのは確か今くらいの時間だったはずだ。


 今頃あの交差点は大惨事になっているのかもしれない。いや、なっているのだろう。今思えばあの事故を止めるためになにか手を打つべきだった。


 私は死んだから分からないが、被害が私だけに留まるとは思えない。近くにいた人にも被害が及んでいたかもしれない。


 ここまで思考して、私の心臓は弾け飛ぶかと思うほどに鼓動した。


 ――近くにいた人。


「慧……!」


 考えるよりも私の身体は動いていた。適当な服にだけ着替え、一心不乱に階段を駆け下りる。


「どうしたの、あーちゃん」

「用事!」

「体調悪いんじゃなかったの?」

「治った!」


 母の呼びかけに最低限の返事で答え、一直線に外へ向かった。


 慧、慧、慧っ!


 中学時代、何の関わりもなかった私たちはひょんなことで出会い、それから親友としてずっと一緒にいる。家族の次に、ううん、同じくらい大切な人。運命だと思っている。


 そんな彼女を失ってしまったら、生きる意味を無くすだろう。それこそ時間を巻き戻して欲しいと神に縋るほどに。


 駅に着いた。既に十七時近い。学校方向への電車が来るまで、まだ少しかかるらしい。


 踵を何度もホームに打ちつける。呼吸を整えるのを忘れてしまうほど、気が急いていた。僅か数分がこの前体験した走馬灯のように途方もなく感じる。


『まもなく1番線を列車が通過します』


 通過列車のアナウンスがホームに流れる。程なくして線路の奥から電車がやってくるのが見えた。


 正直、今の私にとって、安全を知らせるアナウンスもホームを賑やかす雑踏も、鬱陶しいだけだった。


 まだ来ないの? 早く、はやく……!


 そう思う私の体は、なぜか宙に浮いていた。


「え?」


 背後でどよめきが起こる。慧の安否に意識を割いていた私は、後ろからの衝撃に一瞬気づくことができず、そのまま前方、線路の上へ放り出された。


 電車はもうすぐそこまで来ている。




  < 3 >


 見慣れた天井。多分、後ろで馬鹿騒ぎしてた大学生たちのせいだと思う。


 しかしどういうことだろう。交差点での事故を避けるために学校を休んだのに、今度は電車にはねられた。そして、またベッドの上に戻ってきている。


 私は前回より酷い死に方をしたにもかかわらず――もちろん体を這う死の恐怖が弱まることはないが――むしろ冷静になっていた。


 思案する。初めは交差点での事故を避けるための天からの啓示、もしくは施しか何かかと思っていた。実際、この現象が何によるものかは分からないし、私が解明できるものでもない気がする。


 ただ、私はまたもや戻ってきた。別の死に方で。


 つまり、この「巻き戻り」は交差点の事故を避けるためのものではなく、もっと広義で、残酷なものではないのか。


 朝、出発前に見る星座占い。或いは、少女漫画でよくある赤い糸。


 「運命」という、不安定な未来を結論づけてくれるそれは、得てして人を魅了する。


 そう、今起きていることも「運命」だ。私が交差点で事故に遭うことではない。今日、私が死ぬことが、だ。


 虚無感が私を襲う。


 運命が私を殺しにくる。そして神様が私に抗えと言う。


 今日も死が何食わぬ顔でやってくる。生き残る事ができなければ、次も、その次も。


 身体を潰されるあの感覚を、視界を満たすあの血の海を、心臓に直接しゃぶりつかれるようなあの恐怖を、何度も味わうのだ。


「冗談じゃないッ!」


 思わず声を荒らげた。私が何をしたって言うんだ。こんな理不尽、受け入れるはずがない。もうあんな思いしたくない。怖い、こわい……。


 ……でも、それでも、やり遂げなくちゃいけないんだ。


 そう、だから私がすべきことは――

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