コーヒーの染み

男は、気まぐれに小説の古本を買った。

その時には分からなかったのだが、古書独特の匂いに混じって


ぷん。


「コーヒー。」

ほろ苦い香りが染みついていたのだ。

見ると、本の見返しに、薄っすらとコーヒーの輪っかが。


よくある失敗だ。飲みかけのマグカップを重石代わりにページの上に置く。次にカップを持ち上げる時には、ぱりぱりとくっついたものを剥がすことになる。そこには、薄い褐色の跡が丸く残るわけだ。


ー女だ。

なぜか、何となくそう思った。

この染みを残した主は女だ。


小説を読む。

しばし読んでから中断する。

何となく、コーヒーが飲みたくなるのだ。

そんなに好きではなかったはずなのに…


しかしそんな変化を、男はどこか心地よく受け入れた。


コーヒーを片手に、ページをめくる。

ページをめくっては、コーヒーに口をつける。


内容が緩慢なところは、ちびちびと。

盛り上がる部分は、早いペースで。

マグカップは、あるいは空に、あるいは満たされて香ばしい芳香を放った。


ーどう、面白いでしょう。


ふと、そこはかとなく気配を感じる。

いや、ただ頭の中で考えただけかもしれない。


ページをめくるたびほのかに香るコーヒーに刺激されてか、女のイメージが思い浮かぶのだ。


以前の本の持ち主で、例の染みを作ったひと。


この本をコーヒーの香り漂う本に仕立てたひと。


読書の時間に、香ばしさを添えることを教えてくれたひと。


ーここのところ、スリルあるわね。

ーこの場面。お気に入りなのよ。

ーさあ、もっと続きを読んでよ。

いつしか「彼女」の声に誘われて、読書がはかどった。

「彼女」と一緒に読書をしているような気になった。


しかし。

愉しく豊かなひと時も、いつかは終わりが来るものだ。


残るページがあとわずかしかない。

話はとっくに最終章に入ったのだった。


男の手はためらいがちにページをめくる。

この本が終わったら、次は何を読めばいいのか?

他の本では、「彼女」に会えないのではないか。



最後のページに差し掛かったとき。

男はとあることをした。


それからというもの、未だコーヒーの香りはどこからともなく漂い、「彼女」の気配は続いている。


男は最終ページにしおりを挟んだのだった。





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