ゼリーを好むナムナムティ
それは、象をうんと小型にしたような生き物だった。 ずんぐりした体つきに長い鼻。耳のないつるんとした頭。小さな目。4本足に指はなく、歩く度ごとに体から突き出ては引っ込む。
風呂上がり、タオルで湯気の立つ体を吹きながら、冷蔵庫の冷えたゼリーを楽しみに歩いてきたところに、出会った光景は奇妙極まるものだった。
何者かがキッチンに入り込んでいる。
その何かは、冷蔵庫に顔を突っ込んで一心不乱に何かを食べているのが、音から分かった。ずるずる、むにゃむにゃ、なむ、なむ。
そいつの足元に散乱するものを見て、悲鳴を上げそうになった−
プラスチックの容器とフタ。
「それは私のゼリーじゃないか!」
スーパーで買ってきた、3個パックゼリーのパッケージに間違いはなかった。なんてことだろう、とっておきの、冷や冷やのソーダ味ゼリーが奪われたなんて。
しかも奴が貪っているのは、最後の一個らしいーということは、風呂上がりのお楽しみがなくなった、ということだ。
私の挙げた悲鳴に驚いたのか、その何かは動きを止め、冷蔵庫に突っ込んだ頭を抜き出した。
小型の象のような体躯、獏のような長い鼻が、器用にゼリー容器をもてあそぶ。
全身が薄い緑色で、半透明のその体は、
「…ゼリー?」
なむ、なむ、と口を動かして、その生き物は一歩こちらに近づいた。
落ち着け、慌てるんじゃない。
こいつには牙がないはずだ、だってゼリーを啜っているんだから、鼻から…。
次に気がついた時には、自分は夜道を走っていた。せっかくシャワーで流したというのに、また汗だくになっている。
じっとりとした素肌を、冷房の風が一気に冷やす。自宅からほど近いスーパーに着いたのだった。
店内の一角、子供連れの客がちらほら立ち並ぶ中をかい潜り、手元のカゴに迷いなく放り込んだのは、プラスチックカップの中でゆらゆらと揺れる水色の海−
ソーダ味の3個パックゼリーだ。
青いゼリーをたんまり買い込んだ私は、緊張しながらアパートの鍵を回した。
私はこう考えたのだ。
我が家の闖入者、−象とゼリーのあいのこのようなアレ−は、多分ゼリーに興味を引かれるだろう。
もし未だに家にのさばるようなら、とりあえずゼリーを与えておいて、ヤツが貪っている間に対処を考える。
もし考えている間に食べ終わったら、さらにゼリーを投げてやればいい。
−それにしても、よく冷えたゼリーだ。
私は、風呂上がりのゼリーを逃したことを急に思い出した。
ピリピリとカップの蓋を開け、付属の小さなスプーンで掬い、ぷるぷる揺れる青い塊を口に運んだ。
冷んやりとしたソーダ味が、喉を滑り落ちていった。
「なむ、なむ」
フタを開けたカップを、床に置いてやる。すると、ナムナムティ−この不思議な生き物の名前だ−は、器用に鼻で啜り上げる。
説明すると、私たちはうまくやっている。少なくとも、初めて会った日に考えたよりは。こいつがゼリーを食べるときの、「なむ、なむ」という音にちなんで「ナムナムティ」と名付けて世話してやっているのだ。ナムナムティには、買い置きのゼリーを欲しがる以外に危害を加える気がないとわかってからは、私も譲歩する準備が出来た。
毎週水曜日のセールには、お決まりのゼリーを買い込んで冷蔵庫に補充する。時間が来たら、ナムナムティにゼリーを与える。そうするだけで、手間がかからないのが奴の長点だ。大人しいし、うるさくない。部屋も汚さない−トイレの必要もないようだった。ずんぐりした体つきに長い鼻。耳のないつるんとした頭。小さな目。4本足に指はなく、歩く度ごとに体から突き出ては引っ込む。ゼリーを食べるごとに、その体が膨れ上がる。奴が「生きている」限り、体のゼリーは悪くならないらしい。
ナムナムティは、どちらかというと軟らかなゼリーを好んだ。フルーツ入りは、フルーツを避けてゼリーのみを綺麗に平らげる。まあ、歯がないのだから咀嚼できないのは当然か。ゼリー以外の食べ物に全く興味を示さず、もっとも好むのはソーダ味のゼリーだった。その点で、私と好みが一致したため、我が家の冷蔵庫には常に青いカップがストックされるようになった。
車の後部座席に、ゼリーでいっぱいの買い物袋を積み込むのも、これで何回めだろうか。
実は今、我が家はちょっとした圧迫をかけられている。
いや、別にゼリーが冷蔵庫から溢れたわけではない。
ゼリーは安いものだから、家計の負担もさほどではない。
それより懸念していることは−
もうはや習慣となったゼリーの買い出しから帰り、アパートのドアを開けて−
「なむ、なむ。」
−こいつ、大きくなったな。明らかに。
そう、今やナムナムティは大型犬ほどの大きさになっていた。出会った始めは、体高30cmくらいだったのに−与えられたゼリーを体内に溜め込むおかげで、こいつの体は徐々に膨れる一方なのだった。
今のところはまだいい、だけどこれからさらに大きくなるとしたら?
かといって、ゼリーを与えるのをやめたらどうなるだろう。今更になって、初期の頃感じた嫌な予感が蘇ってきた。床が冷えきったゼリーで出来ているかのように、冷んやりとした不安定な気持ちが足元から這い上がってきた。
悩める頭を冷えたカップで冷やしていると、
「なむ、なむ。」
他でもない、悩みの種がゼリーをねだってきた。額に当てたカップのフタを剥がして、床に置いてやる。
青いゼリーがナムナムティの体内に消えていくのをぼんやりと見守った。
ほのかに甘いソーダの香りが立ち昇り、ふわりと私の鼻をくすぐった。
食欲はなかったというのに−俄然 唾が湧いてきて、私は思わず視線を移した。
ゼリーを食べるナムナムティの体から、わずかにソーダの香りが漂うことに、その時気がついたのだった。
それからというもの、薄緑の体を揺らして歩くナムナムティを見つめる目線に、以前とは別の意味が込められたのは言うまでもない。冷蔵庫のゼリーを取り出して口に含んではみたが、どうもいまいちしっくりこない。
−これじゃない−
食べかけのカップをテーブルの脇に押しやったまま、ぷるぷると体を震わせて歩くナムナムティを眺める。
ポニーよりは一回りほど小さいその体ーあれほど豊満なゼリー、かつてあっただろうか?
体表から漂うソーダの香り、あれほど芳醇な香りは?
巨大なゼリーが闊歩する様から、目が離せない。
そして−
「ナムナムティ、おいで。」
私は生き物を呼び寄せると、食べかけのカップを置いてやった。夢中で鼻を突っ込むその背中に−
そっと、スプーンを滑り込ませたのだった。
ほんのひと掬いだ。
これ以上ないほど滑らかで蕩けるような舌触り、甘く、それでいてあっさりした風味。爽やかなソーダの香り。
他とは比べ物にならない、完璧なゼリーだった。
ナムナムティは、案の定というべきか、痛がる様子も、それどころか気にするそぶりさえ見せなかった。掬いとった部分はすぐに分からなくなった。きっと、新しく食べたゼリーで補完されたのだろう。
そうとも、奴はゼリーを食べた分だけ大きくなるのだ、ならちょっとぐらい小さくなってもいいじゃないか?
水曜日に車を飛ばしてゼリーを買い込む日々は相変わらず続いたものの、買う個数は減った。今ではナムナムティの分さえあればいい。極上のゼリーの味を知ってからというもの、自分ではカップのゼリーを食べなくなっていたからだ。
「ほんのひとさじ」が、カップ一個分になり、2個分になるまでに時間はかからなかった。
ナムナムティは、ラブラドールと比べたらどちらが大きいか、というぐらいの大きさになっていた。
このごろ、ふと切なくなることがある。まるで、胸の中がよく冷えたゼリーになったかのように。つい、もしナムナムティがいなくなったら…と考えることが増えた。
いったい、ナムナムティがいなくなったら、次はどんなゼリーを食べればいいんだ?
以前までの好物だった市販のゼリーは、もう一口も食べる気がしない。試しに、別のメーカーも試してみたのだが、それも結果は芳しくなかった。まあ、まだ余裕はある。もう一皿食べてから考えても遅くないだろう。
私はレードルをナムナムティの背中に沈み込ませる。この手つきも慣れたものだ。
冷蔵庫から、大皿一盛りの薄緑色のゼリーを取り出しながら考えた。
そう、いっそゼリーの食べ収めにしてもいいな。他のゼリーを食べる気にはならないし、ナムナムティの名誉を称して、金輪際ゼリーを口にしない。
−なかなかいいアイディアじゃないか。
皿の上で静かに目を閉じるナムナムティの首にスプーンを滑り込ませ、私は満足して頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます