水薬

水薬


 水薬というと、液体の薬のことを指すのが普通だが、奴の意味するのは少し違っていた。「水のように透明なくすり」という意味合いで、藤森は呼んでいた。

「秋本、ちょっと俺ん家へ来いよ。」

面白いもん見せてやるからさあ、という藤森に誘われて、俺は奴の住まいするアパートへ足を運んだ。

「おう、来たか。まあ入れよ。」

奴は機嫌良さそうに、にやにやと笑みを貼り付けながら招き入れた。


 とん、と目の前の畳に置かれたのは、少し水色がかった、飾り気のない小瓶だった。

「なんだと思う?」

藤森は無精髭の生えたむさ苦しい顔になおもにやにや笑いを浮かべて、踏ん反り返って腕組みなんかしている。こいつ、こんな態度さえ取らなければいいんだがな…。

「なんだ?珍しい酒とかか?」

「違うね。」

確かにアルコール臭はしないから、その線は外れだと言えるだろう。

「飲み物か?」

「まあな。お前には飲まさないけどよ。」

すると…

「飲ませる相手が決まっているのか?」

「おっ、そうだな。それは当たりだぜ。」

「薬か?…、毒じゃ、ないよな?」

「毒じゃねえよ。まあ、飲む相手にとっては毒になるかもなあ?」

不気味なことを言う奴だ。俺が考えあぐねていると、

ばさ、ぱたぱた。

鳥が羽ばたくような音が部屋に響いた。

「おい、鳥がいるのか?」

「気づいたか。」

しゃあねえ、答えになっちまうけど見せてやるよ、と言って藤森は立ち上がり、すたすたと部屋の一角に歩いて行った。俺が首を伸ばして伺っていると、いつのまに飼い始めたのか、小鳥用の鳥かごが片隅に置いてあった。

「これだよ。覗いてみなよ。」

鳥かごは、空っぽだった。それなのに、ぱた、ぱた、と、小鳥が羽ばたいたり、さえずる気配がするのだ。餌やりの中の粟だかヒエだかが、ふ、と宙に浮いては、はらはらと殻だけが溢れる。ちょうど、カナリヤやインコくらいの鳥がついばむような感じで…。

いないはずの小鳥が、そこにいる。

 俺があっけに取られていると、藤森の奴は話し出した。

「さっきの薬な。こいつに飲ませたんだよ。」


 ひょんなことからこの水薬を手に入れたそうだ。詳しいことは口を濁していたが、貰ったときにその相手から用途を聞いたところによると、この薬を飲ませた動物の姿と声を奪うのだという。さらに、飲まされた動物はそれ以前に比べて驚くほど従順に、おとなしくなるらしい。


「このインコもさあ、買ったばかりのときはすげえ気性が荒かったんだよ。俺のことを嘴で突いたり、手に乗せようとしてもばたばた飛んで行っちゃったりさあ。」

それでこの薬を飲ませたら、この通りだ。

 藤森は鳥かごの扉を開け、手を差し入れた。すると、やはりぱた、という羽音がして、藤森はそろそろと手を引き抜いた。手のひらには何も見えなかったが、何か小さな気配が藤森の手から腕先に飛び移ったのが、服のしわが動くことで分かった。

「手、出してみろよ。」

言われるがまま、俺が片手を出すと、ちょん、と確かに小さな足爪の感触が当たった。

 な?と言ってまたにやにやする藤森が再び手を差し出すと、俺の手からその感触は消えた。藤森は空に見える手のひらを鳥かごに戻した。


 それから、しばらく俺は奴の家に近づかなかったのだが、あるときまた用事があって顔を出した。

「お前、犬平気だったよな?」

なんと、藤森は今度は犬を飼い始めたのだ。ころころ太った白い子犬が、尻尾を振りながらアパートの部屋を駆け回っている。

「かわいいな。何ていう名前なんだよ?」

そんな他愛もない会話をしばらく広げて、用が済んだ俺は退散した。


2ヶ月、3ヶ月、時々奴の犬自慢を聞きつつ過ごしたのだが、半年、1年と経って再び用足しに家を訪れたとき。

 子犬の姿は見えず、ただ気配だけが家のあちこちを行き来していた。


 その後、俺は奴の家に行かなくなった。

 用事がなかったから、ではない。

 避けていたのだ。

 恐ろしかったのだ。


―あいつの家に行ったら、俺、

―透明にさせられるんじゃないか。


 例えば奴と酒を飲んで、その中にあの薬が入っていたら。

 例えばひょんなときに、奴の機嫌を損ねたら。

自分の姿を奪われるばかりか、奴に逆らえない体にさせられてしまう。想像するだに身震いが走るほど恐ろしくて、俺は奴から誘われても断りつづけた。


 運命とは不思議なもので、そんな奴の元を訪れる機会がまたやってきた。なんと、藤森は結婚を決めたのだ。水薬の一件以来苦手にしていたのだが、寿とあれば祝ってやるべきだ。あいつのことは祝福したくなくても、せめて相手の女性には失礼のないよう振る舞うのが、取るべき態度というものだろう。

 意外にも、と言ってよいか、結婚式の当日は藤森も、花嫁の真実さんも幸せそうにしていた。藤森は例のにやにや笑いも、無精髭もやめて、優しげな笑い皺を目の端に浮かべていた。

 これなら、間違いは起こらないだろうか…。どうか、万が一でも「花嫁が気配だけになる」というようなことは、起こらないで欲しい。そう思いながら、俺は2人を見守った。


 そんな心配も、おそらく取り越し苦労だろうな、と思えたのは、2人の挙式から2、3年経ってようやくだった。

―まあ、あいつも、奥さんを貰って人が丸くなったんだろう。俺の思い過ごしだったか。順調に生活を送る2人を、俺はそんな風に眺めていた。


「あら、秋本さんいらっしゃい。どうぞお上りになったら。」

「おじゃまします。」

今日も、また用事ができたので藤本の家に立ち寄った。ところが、奥さんが言うには藤森は留守だという。奴がいなくては用も済まされないので、よもやま話をしてから俺はさっさと立ち去ることにした。

「じゃあ、今日はお邪魔しました。藤森の奴にもよろしく言っといてください。」

「お疲れ様でした。」

深々と丁寧に頭を下げる真実さんの後ろに、俺は見た。

男物のスリッパがきちんと揃えられ、彼女が頭を上げる間際に踵を返して奥に向かうのを。


戸口で呆然とする俺を尻目に、鼻先で扉はばたんと閉まった。

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