第百十九話:屈服(2)

「痛い痛い痛いっ! 暴力反対っ! 暴力ぅぅぅ! はんたぁぁぁい!」


 ヴィットーリオの叫びが教会の庭に木霊す。

 荒縄で雁字搦めにされ、わざわざこのために作られた木製の吊るし台に拘束されているのはマイノグーラが誇る舌禍の英雄だ。

 そして先程からぎゃあぎゃあ大声で騒ぎ喚く彼に容赦なく打撃を加えているのはこれまたマイノグーラが誇る悲劇の英雄、エルフール姉妹であった。


「この程度、暴力に入らないのです。英雄なので頑丈でしょう? もう二三発殴っておくのです」

「くすくす。顔はばれるからお腹がいいと思うよキャリア」

「なるほど、流石お姉ちゃんさんなのです」


 時刻は真夜中。月も出ておりエルフール姉妹が魔女として最も力を発揮する頃合いだ。

 すでに人としての範疇から逸れ、英雄としての性質を強く有するこの双子の少女たちから、たとえ戯れといえど殴打を受けて平然としているのは流石同じ英雄と言ったところか。

 とは言えその情けない姿を見る限り、そのような称賛の言葉は誰も述べないであろうが……。


「いい気味だなバカ教祖。余計なことするなっつってるのに話を聞かねぇからそういうことになるんだ。マジで反省しろ」


 無論、この場にいるのは英雄たちだけではない。

 ここはアムリタにおけるイラ教の本拠地。南の教区のにある礼拝堂を大々的に改築した彼らの教会だ。

 無論代理教祖であるヨナヨナも額に青筋を浮かべながらヴィットーリオを睨みつけているし、新たにイラの信徒となった者たちも困惑気味にこの折檻の儀式を眺めている。

 なおヴィットーリオとともにこの都市にやってきた旧来の信徒にとってはすでに見飽きている光景らしく、各々が勝手に割り当てられた仕事などを進めている。

 良くも悪くも、この光景はイラ教において日常だった。


「あっ! ウチの分も残しといてください! この前勝手に出かけた分のけじめ、まだぶん殴ってないので!」


「はーい」

「了解なのです」


「なんなのこのクソガキどもぉ。暴力慣れしすぎてなぁい?」


 ヴィットーリオが己の境遇に文句を言い出すが、全ては身から出た錆だ。

 特に聖教の者たちとの約定を違えてちょっかいを出しに行ったことは許しがたい。

 ヨナヨナもエルフール姉妹も彼の行動によって聖教の信徒たちがどうなろうが正直なところ知ったところではないのだが、今回の話はイラ教と拓斗の名前を出してまで締結されたものだ。

 約束を違えることはすなわち拓斗の顔に泥を塗ることになる。

 それだけはなんとしても避けたかった。

 ゆえの折檻である。ヴィットーリオのこの性質はもはやどうしようもないという諦めはたしかにあったが、とりあえず殴って鬱憤をはらさないとやっていけない。

 よってヴィットーリオは雁字搦めに縛られ吊され、ボコボコに殴られているのである。


 もっとも、本人はたしかに痛みを感じているようではあったがどこ吹く風。

 それどころか殴られている最中にまたぞろ新しい謀りごとを思いついたようだった。

 事実、その顔にニヤニヤと不気味な笑みを浮かべながら、視線を遠くへ向ける。


「身内には最大限の敬意を払い、決して仲間を犠牲にすることはしてはならない。人として基本的で普遍的な決まり事――そう思いませんかな、イムレイス審問官どの?」


「ヴィットーリオ……」


 現れたのは聖クオリア筆頭異端審問官クレーエ=イムレイス。

 聖なる教えに忠実なはずの、神の僕であった。


「わざわざこのような時間に起こしいただいたという事は、吾輩の提案を受けて頂けると考えてよろしいか?」


 ブラブラと吊されながら真面目なセリフを言い出すヴィットーリオに一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに我に返るクレーエ。

 だが彼の質問の意を正しく理解しているであろうはずの彼女は、険しい表情で黙したまま一向に口を開かない。

 逡巡しているであろうことは、誰の目にも明らかだった。


「んー、どんな理由で来たのかは知らないけど、寝返るってんなら歓迎するよ。一度身内になったら逆は無しだけどな……。それに、こいつだけが例外で他は皆気のいいやつばかりだ。不安に思うことはない、そこはウチが保障する」


「くすくす。いいとこだよ。今までのことなんて全部忘れて、こっちにおいで」

「苦労しているみたいですし、来るなら歓迎するのです。違うのなら、目障りなのでさっさと帰るのです」


 時間は夜。月が出ているがために姉妹からくる邪悪なる圧力も相まって耐え難き恐ろしさがその場に満ちている。

 だがその半面、かけられた言葉は何よりも優しかった。

 どこか突き放した物言いのキャリアの言葉さえ、彼女の決断を後押しするような意図が込められている。

 だから、クレーエは少しだけ自分たちの境遇を……ネリムの境遇を彼らに聞いて欲しくなる。

 奇しくもそれは、神に懺悔する罪人のようでもあった。


「ネリムは、哀れな子です。小職は彼女に幸せになって欲しかった。ただそれだけだったのに……神はいつまで経っても彼女に報いを与えなかった」


「お宅の神は信仰心に報いを与えませんからなー。いわゆる信じる事に見返りを求めるのは禁止。みたいな」


 聖教の基本はこれだ。神は教えを授けるが、決して救いを与えない。

 否……神の救いは聖女と聖職者を通じて与えられるのだ。

 聖女が持つ決して人では成し得ない奇跡をもって、人々に救いを与えていく。

 聖職者たちはその奇跡の守り手だ。人々に神の教えを教示し、助けを求める者の居場所を聖女へと示す。

 ……これが神の法理。絶対普遍の聖なる掟。

 だが、 ならばその聖女へと誰が救いを与えるのか?

 常に誰かを助けることを当然として求められ、その強大な力を使う代償として大きな犠牲を払わされる聖女は誰が助けるのか?

 聖なる神はその答えを指し示していない。


「あまりにも不憫なのです。小さな子が、どうしてこれほどまでの仕打ちを受けなければいけないのでしょうか。小職が無力なあまりに、彼女に苦労をかける」


「人の身で出来ることはたかが知れています。貴方は神ではなく、ただの人なのですから」


 リトレインの……日記の聖女の境遇は実のところすでにこの地にいるマイノグーラの者たちにとって周知の事実である。

 それは何も非合法な手段などで得たというわけではなく、彼女の動向や人々の噂話を聞いていれば容易に分かる事柄だった。

 通常聖女の奇跡はみだりに人前で披露するものではないとされており、ある種の箝口令のようなものが敷かれている。

 にもかかわらず容易に情報が入手できるということは日記の聖女が奇跡を乱発している証拠であり、同時に聖なる者たちに全くの余裕がないことの証左でもあった。

 すなわちそれは、リトレイン自身への強大な負担となる。


「小職はどうなってもよい、だが彼女だけは……どうか彼女だけは助けて頂きたい。このままでは奇跡の代償に、ネリムさまが消えてしまう」


 ただただリトレインの事を想い、縋る。

 邪悪に屈したと彼女を非難するのは容易いだろう。だが、であれば、どのような手段で彼女が救われるというのか? どのような奇跡があれば、聖女ネリムを救うことができるというのか?

 奇跡は人の領分にあらず。すなわちそれは神の領域によって行われるものである。

 であればこそ、クレーエ=イムレイスが別の神に奇跡を求めるのは必然と言えよう。


「我らが神はどっかの誰かさんと違ってそんな狭量なことはいいませんぞ。哀れな聖女と哀れな貴女。どちらも救われると良い。言ったでしょう? ハッピーエンドだと!」


 ヴィットーリオが高らかに宣言する。

 その言葉に偽りはない。彼は自らの神――すなわち拓斗の完璧性を心の底から盲信している。

 その彼が断言するのであれば、必ずやクレーエとリトレインは救われるだろう。

 それだけの力が彼にはある。それだけの力が彼の主にはある。

 クレーエの心の中に希望の明かりが灯る。

 最後の最後で差し伸べられた手を、彼女はようやくとる決心をする。

 ……どれだけ言葉を尽くそうとも、どれだけ自分を偽ろうと真実は常に一つだ。

 彼女は救われたかったのだ。ずっと、ずっと。


「ではぁ……かつての神を捨て、我が神を崇める言葉を述べなさい。それで全てが完了します」


「私は――」


 そして……運命の針が真逆を指し示す。


「――捨てます」


 瞬間。何かが変わった。

 何が変わったのかというと不思議ではあったが、どこかスッキリとした気分になったのは確かだった。

 彼女の中にある何らかの重しのようなものが取り払われ代わりに暖かな外套に包まれたかのような。まるで母親の胎内にいるのかと錯覚されるような、不思議な安堵感があった。

 神を捨て、邪悪に膝を屈し助けを求めた。

 だがいざそうなってみると、以前とはそう変わっていない自分がいることにクレーエは少しばかりの戸惑いを覚えた。


「んぐぅぅぅぅっど!」


 そんなクレーエにニコニコ顔でやってくる男がいる。

 いつの間に縄抜けしたのか、ご機嫌の様子でスキップしてくるのは他ならぬヴィットーリオだ。

 彼は戸惑う彼女の肩に手をかけると、ナンパ男よろしくやけに馴れ馴れしく語り始める。


「いやぁ、イムレイスくん。君センスあるよ! 普通の人、ここでノー出しちゃうんだよねっ! そこを受け入れるこの胆力! 吾輩感心! これから仲良くしちゃおうね! こんどデートする? 水族館とか行く?」


 なるほどこれは鬱陶しい。

 聖なる陣営として彼に相対していた時は、彼を嫌がるヨナヨナの態度もまた謀りの一つかと思っていたが、実際イラ教へと信仰を変えてからならはっきりと分かる。

 これは事実だ。ただ単純に、この男は鬱陶しいのだ。

 クレーエの中で急速に代理教祖であるヨナヨナへの同情心が湧いてきた。


「おいバカ教祖。女性に軽々しくさわんじゃねぇ!」


「ぐほっ!」


 新たな感情に戸惑っているクレーエを助けてくれたのもまたヨナヨナであった。

 彼女は怒り心頭の様子で素早く駆け寄ると、大振りの拳で勢いよくヴィットーリオを殴りつけると、クレーエに向き直る。

 どこぞに転がっていったボロ雑巾の事をすぐに記憶から消し去り、クレーエはヨナヨナをじっと見つめた。


「まぁなんだ。いろいろあるみたいだが、アレの言うとおり仲良くしような。えーっと、聖女だっけ? その子もすぐに連れてきな。もういろいろヤバいんだろ?」


「は、はい……」


 そう笑いかけて手を差し伸べてくるヨナヨナに握手を返す。

 獣人と蔑んでいた心はすでにどこかに消え、その優しい応対に感謝の念が湧いてくる。

 きっと、彼女とならうまくやれるだろう。

 ヴィットーリオを除いて最も長く接した相手がヨナヨナであるためそこでしか判断はできなかったが、彼女たちの言う通りこちら側での生活もそう悪くないのだろう。

 むしろ制限だらけだった聖教よりも過ごしやすい可能性がある……。


 これならば、ネリムもきっと。

 ここならば彼女もきっと無碍に扱われることはないだろう。

 ただの少女として、過ごすことができるだろう。

 ヴィットーリオの言葉通り、全てが幸福へと導かれようとしていた……。


 しかし。


「んーむ」


 いつの間にか復活したヴィットーリオが珍しく難しい表情でひょこひょこと戻ってきた。

 なにか考え事があるのか、両手を組みながら少しばかり不機嫌な様子もある。

 日頃から己を隠し全てを嘲笑うこの英雄にしては珍しい態度に、先程から無視を決め込んでいたヨナヨナも流石に心配になって尋ねる。


「ん? どうした?」


「ここまで来れば後はウィニングランかと思いましたが、いやはやどうしたものか」


 不可思議な言葉に全員が頭に疑問符を浮かべる。

 一体どういう意味か? その問いを投げかける前に、新たな影がこの場に現れた。


「人は愚かゆえに、時として自ら望んで滅びへと歩みを進めます。そして致命的な過ちを犯すとき、得てして彼らは最良の選択を行ったと信じがちなのでぇす」


「ね、ネリム……」


 それはクレーエが何よりも大切にし、何よりも助けたいと願った少女。

 全てを捨てて、聖なる神すら捨ててその幸せを願った少女。

 日記の聖女リトレイン=ネリム=クオーツであった。


「それ以上はやめるのです、哀れな聖女のお嬢さん。吾輩にあるひと欠片の慈悲からの忠告ですぞ」


 ヴィットーリオが珍しく真面目な口調で警告を行う。

 黙して語らぬ少女は、目の前にいるはずなのにどこか果てしなく遠くにいるように感じられた……。

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