第百二十話:極光

 ネリムはなんの変哲もない少女だった。

 今よりもずっと幼い頃に両親が流行病で死んだ彼女は、クオリアの慣習によって上級聖騎士ヴェルデルの元へと預けられる。

 日頃から家をあけることが多く、どちらかというと破天荒な父との交流は様々な障害があったものの暖かいものであった。

 彼女はヴェルデルから多くの事を学んだし、ヴェルデルもまた初めての子育て、それも娘という経験から多くの事を学んだ。

 取り分けて語る事はそう多くないが、親子はたしかに幸せだったのだ。

 ネリムという名前は、その時に父から貰ったものである。


 全てが変わったのはいつだったか?

 ネリムも新しい生活に慣れ、不精な父の生活態度に小言を言えるほどに関係性を構築した頃だった。

 なんの変哲もない一日、いつもどおりのその日、ネリムとその環境は劇的に変化した。

 聖女としての覚醒は、神の啓示によって記される。

 本人と聖女、そしてクオリアの三法王にのみ直接示されるそれによって、イドラギィア大陸七人目の聖女の誕生が告げられた。

 中央より聖女降臨の告知がなされると同時にまるでお祭り騒ぎのような状況に国は包まれる。

 人々は新たな信仰の守りての出現に祝福の言葉を述べ、より世界に善が満ちると希望をふくらませる。

 だがどれほど人々が幸せになろうと、どれほど人々が称賛しようが、犠牲を強いられる少女が幸せになることは決してなかった。


 父との別離。

 そして人々より求められる数々の奇跡。

 リトレイン=ネリム=クオーツ。

 中央から過去の経歴を消され、父から貰った大切な名前すら新しいものにすげ替えようとされた中で、なんとか守り抜いた故に生まれた歪な名前。

 そして誰かの為に捧げられる記憶。

 大切な思い出がどんどんすり減る中で、彼女の心が壊れなかったのはひとえに父からの教えがあったからだ。

 父の教えがあるから彼女は強くあれる。

 善き行いをした後には、必ず良きことが待っているのだとそう信じて。

 いつか自分が聖女の役目から解き放たれ、父とともにまた過ごすのだと信じて。

 だから彼女は日記を書き続けた。

 いつか来る日のために、せめて思い出だけは残しておこうと。

 忘れてしまった大切な人たちにまた会いに行けるようにと。


 クレーエは、そんな中で彼女が初期の頃に出会った人物だった。

 適当な人選が難しかったのだろうか。それとも同じ女性として都合が良いと思われたのか。

 どちらにしろネリムに知るよしはなかったが、彼女が日記に記す数多くの思い出の中で最もその頻度が多く出ている名前がクレーエだ。

 初期の頃の記憶は残念ながら失われた様子だったが、その内容からネリムがどれほど彼女に信頼を寄せていたかよくわかった。

 そして同時に、彼女が自分にどれだけ心を砕いてくれていたかもよくわかった。


 自分は誰かのお陰で生きている。

 自分の生は、誰かが必死に守ってくれたお陰で存在している。


 その事は、その事だけは常に忘れたことがなかった。

 口下手故に、そして記憶が不明瞭な故に、はっきりと感謝の言葉を述べたことはない。その記憶もない。

 だが確かにネリムはクレーエを信頼し彼女に感謝していた。


 クレーエの想いは、たしかにネリムに届いていたのだ。


 ◇   ◇   ◇   ◇


 一歩。ネリムが前に出る。

 彼女が自らそう望み、勇気を出して踏み出す一歩だ。

 誰かに願われたから、誰かに乞われたからではなく、彼女がそう願うが故の一歩。


「イムレイス審問官。私はいろんなものを貴女から受け取ってきました」


 震える声は彼女の緊張を表しているが、だが同時にその内に秘める強い決意をも示している。


「貴女が……ずっと私の事を気にかけてくれていたことは知っていました。けど私は私のことを考えることで精一杯で、言われたままに誰かを助けることで精一杯で、貴女にお礼を言うことも忘れてしまっていた」


 ゆっくりと語る。クレーエは静かに首を左右に振り、違うのだと否定しようとする。

 だがこの先に起こる彼女の決断に怯え、うまく言葉にできない。


「本当は何度もお礼を言おうと思っていたのに、その事も忘れちゃって。私はいつまでも子供で、だからいつも守って貰ってばっかりで、助けて貰ってばっかりだった。でも――貴女も苦しんでいたんですね」


 ネリムが日記をギュッと抱きしめる。

 まるでその中にある数々の思い出を噛みしめるように。それこそが彼女を突き動かす原動力だと言わんばかりに。

 思い出に消えた数々の人々に、勇気をもらうように。


「けど……もう間違えません。今なら言えます。私の力、私の思い出は、この時の為にあったのだと。皆を助けるより、貴女を助けたい。今までずっと貴女から受け取ってきた物を。今ここで返します。大丈夫、私の心は、貴女と共にあります」


「だ、だめ……違うのです。違うのですネリム」


 止められないと悟ったのか、止まらないと悟ったのか。

 クレーエはただただ涙を流す。

 最良を望み決断をしたはずが、その実が最悪の結果をもたらしてしまった。

 誰もが悪かった訳では無い。そこに邪悪なる意図や悪意が存在したわけではない。


 ただただ、誰もが優しすぎたが故に、悲劇は起きる。


「だから泣かないで。闇に負けないで」


「まってネリム!」


「私が助けます」


 叫びながら駆け寄ろうとするクレーエを不可視の衝撃波が吹き飛ばした。

 ごうごうと、白く輝く聖なる波動がネリムの周りを包み、あらゆる妨害を弾き飛ばし敬虔なる祈りを成就へと導く。


「神様。お父さんの記憶を全て捧げます――」


 静かに、だがハッキリと。

 その場にいるあらゆる存在にその宣言は届く。

 神への祈り。奇跡の成就。

 ネリムの全てを捧げた、真摯なる祈りはやがて聖なる神に聞き届けられる。


「――だから私に、クレーエさんを助けるだけの力をください」


 世界を照らすほどの極光が、少女を温かく包み込んだ。

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