第百十七話:勧誘(2)

 寝返りは戦争の華だ。

 こと国家間の争いにあっては調略と言うかたちでそれが行われる。

 クオリアは長らく戦争とは無縁の平和な国家であったが、だとしても文献にその事は記されているし、実際に小規模な小競り合いなどでもそれらは観測されている。

 どのような目的があるかはその時々によって千差万別だが、少なくとも言えることは自分たちが相手にとって調略すべき価値のある存在であるという一点のみである。

 意図を知りたいという欲望を振り払い、だがクレーエは断固としてその提案を拒否した。


「お断りします」


「んまぁっ!? どして?」


「どうしてもこうしてもない。一度は貴方の提案に乗りましたが、それはあくまで平和的なものであったからこそ。此度のものは明らかに我が国家に仇なす意図が存在している。よしんばそのような事実がなかったとして、どうして小職たちが闇のものに屈すると思えるのですか?」


「でもそうしないと彼が生き返らないではないですか? イムレイスくんが邪悪に屈っしましゅ~ってダブルピースしてくれたら、吾輩、偉大なる神に頼んで生き返らせてもらう準備があったのですが……」


「――っ!! や、やめなさい。そのような言葉で誑かすとは何事ですか。人の死は覆せない。だからこそ人は己を常に顧み、後悔のない人生を送るのです。それに……貴様らのせいだろうが!」


 言わずとも、ヴィットーリオが何について言及しているのか理解できた。

 だからこそクレーエは激昂する。どこまで人を愚弄すればよいのか? なんの罪もない少女の願いですら、己の策に利用するのかと。


「吾輩のせいではありませんよ? 実際は余計なことをやらかした随伴の聖騎士のせいですな。本来なら無事帰ってくるはずだったのです。ですが眼の前が曇り傲慢さの代償を支払うことになった。仲間の失態のツケを命で払わねばならないとは、聖騎士というのも因果な商売ですな~。吾輩同情!」


「くっ!」


 不思議であった。クレーエの知る上級聖騎士ヴェルデルという男は冷静沈着で決して無謀な争いに身を投じない男だ。

 聖教の教えには正直不真面目なところがあったが、それが融通の利く柔軟性を生み出しており、こと調査任務などでは指令以上の成果を上げてきた。

 危険と見ればすぐさま撤退の判断もでき、状況判断は誰よりも得意。そんな彼が消息を絶つとはいささか疑問だったが、先のヴィットーリオの言葉が真実であれば納得は行く。

 だがそれは、クレーエの中にあった僅かな希望が潰えたことを意味していた。

 大呪界調査にて行方不明となった者の生死について大呪界を本拠地とするものが語る。これほどまでに絶望的で確定的なことは他になかったのだから……。

 だから、ああだからこそ。


「あの、えっと、なんの話ですか?」


 彼女だけには聞かれたくなかった。

 クレーエは逡巡する。どうやって誤魔化そうかと。この場を切り抜けるための嘘をどのようにして用意しようかと。


「小さく哀れな日記のお嬢さん。君のお父さん。死んでるよ?」


 だがそんなクレーエの思いを裏腹に、ヴィットーリオはあっけらかんと言い放った。


「……え?」

「ざ、戯れ言です! 聞いてはなりませんネリム!」


 叫んだ。だがその言葉は空虚で、まるで無価値とばかりに響くばかりだ。


「戯れ言ではないことはチミが一番よ~っく知っているのではないのかねぇ、イムレイス審問官。聖騎士ヴェルデルは大呪界の調査任務にて我らが陣営と衝突。そのなかで命を散らした。連絡もない、姿も見せない、それってぇ! 死んじゃったってことでしょうがぁっ!」


 嬉しそうに、心底嬉しそうに道化師が嗤う。

 反論の言葉が見つからない中、ボロボロと瞳から涙をこぼすネリムが果敢にもクレーエの背中から前に出る。


「けど、けど! わ、私はお父さんに会いました! 忙しいからまた会おうって言われて! ちゃんとお話もして!」」


「あっ、それ偽物です。具体的には我が神が模倣したまがい物です。偽物相手に感動の再会しちゃいましたね可哀想!」


「う、嘘です……。そんな、いや……」


「別に信じなくてもいいけど、それじゃ死んだ人は戻らないよ? 我が神もおそらくもう二度と件の聖騎士の真似事はなされないでしょうし。まぁやったところで同じ記憶を持つ偽物なのでどうしようもないですけどねっ!」


 大きな瞳から、はらはらと涙があふれていく。

 震える彼女を見つめる自分の視界が滲んでいることに、クレーエはついぞ気づかなかった。

 ああ、邪悪なる者はここまで人を苦しめることができるのか。

 灼熱の炎や邪悪なる呪い。凶悪な爪や武器を使わずとも、ただの言の葉でここまで魂を傷つけることができるのか。

 もはや二人に争う意志は残されていない。……争ったところですでにもうどうしようもないところまで来ていることに気づいてしまったから。

 彼が……ヴィットーリオが何かをする前に、ずっとずっと前にすべて終わってしまっていたのだ。

 ただそれが明らかになっただけ。


「だって、だって良き行いをしていれば必ず良いことが起きるって……」


 日記の聖女の心が崩れる。ただ一つ、ただ唯一。

 彼女が自己を確立させるために保持していた父との記憶、そして苦しくて辛い現実に立ち向かうための純粋無垢なる願い。


 ――良きことをしていれば、必ず良い結果が起こる。

 父から授かった希望の言葉は……。


「それ、今まで良いこと起きましたぁ?」


 この瞬間、全て灰燼と帰した。


「そんな。そんなぁ……」


「まぁまぁそんなに泣かないで。その悲しみも神に捧げちゃえばいんですぞ。だってほら、君ってそういう能力でしょ? なんならお父上の記憶も捧げればまるっと解決!」


「もういい、貴方の――貴様の言葉は腐臭が漂う。それ以上口を開くな。やはり小職は間違っていた。魔なる者の甘言に乗ることがこれほどまで悍ましい結果をもたらすとは、ここで貴方を切り、全てを終わらせます」


 怒りがクレーエの全身を支配する。

 剣の場所は遠いが、そのような事は問題なかった。

 今すぐ目の前の男を切り刻んでやりたいというどす黒い感情がうずまき、自分にあった聖なる心と冷静さを駆逐していく。


「いいえ、口を開きます。そしてその手を下ろしなさい! なぜなら吾輩は、この悲劇を解決する唯一の提案をさせて頂きに来たのですから!」


 世迷い言だ。これほどまでの侮辱を受けて、なお話を聞くなどという妄想を目の前の男が信じていることが理解できなかった。

 だがそんな事はどうでも良い。彼女のすべきことは一つしかないのだから……。

 すなわちこのまま目の前の男を殴り倒し、隙をついて手に取った聖騎士剣でその汚らわしい口を永遠に閉じること。

 だが……。


(――っ!?)


 体が動かない。

 まるで不可思議な能力で話を聞くように矯正されているかのように、クレーエの体はその荒れ狂う意志とは裏腹に沈黙を保っていた。


「そう提案! 此度の提案! それこそが我が陣営に下ること! いやね、流石にね、吾輩もそこのちびっ子の境遇には同情的でね、出来るならどうにかしてあげたいと思っているのですよ。ってか普通に考えてドン引きじゃね? 血も涙も無いよこれ」


 ――動け、動け、動け。

 何度も言い聞かせる。何度も叫ぶ。だが体は愚か言葉さえも発せない。


「なのでぇ! まるっと救済しちゃいますぅ! やったねハッピーエンドですぞ!」


 これ以上聞いてはいけない。

 聞いてしまえば、心が揺れるから。

 聞いてしまえば、提案に乗ってしまいそうになるから。

 甘美な言葉は、たしかな毒となってクレーエを蝕んでいく。


「邪悪なるものが人に同情を? ナンセンス! なぜなら、邪悪なるものにはありとあらゆることが許されているのだからっ! すなわちぃ、敵対する善なる聖女に情けをかけることもまた自由! 正義にガチガチに縛られたチミ達とは違ってねぇ!」


「だとしても、我々は貴方に下ることはない! どれほどの言葉を述べようとも、それらは一切小職たちには届きません! 邪悪なるものの口車に乗ることは、すなわち破滅への道に進むこと他ならないのですから。その事をよく理解しました。理解させられました」


「ふむぅん。聖なる神の教えですな。何も出来ぬ神に殊勝なことで……」


 ハァハァと、荒い息が漏れる。

 気力を振り絞ってなんとか叫んだが、それだけでもう疲労困憊だ。

 だがクレーエの反抗が意外だったのか、ヴィットーリオはひどくつまらなさそうに鼻を鳴らしてみせた。

 どうやら、今回は魔の誘いを避けることができたようだ……。

 安堵感がクレーエを包む。


「まぁいいでしょう。今回は吾輩尻尾を巻いて帰宅します。そろそろ夕飯の時間ですしね」


 また去るのか。

 追いかける気力は残されていない。だがこの場で相手が撤退の手を取ってくれたことは幸いだった。

 もしやヴィットーリオは戦いに関してあまり得意ではないのだろうか?

 そんな推測がクレーエの脳裏に浮かぶが、今はそのことを考える時ではないと気持ちを切り替える。

 足取り軽やかにドアの方へと歩んでいくヴィットーリオの背中を見送る。

 今はただただ、この苦痛極まりない状況から逃げ出したかった。


「あっ、そうだ! 最後にイムレイス審問官。邪悪なる者の誘いがどうして恐ろしいと言われるのか真にご理解されていますかなぁ?」


「…………」


 ドアを手で開き、退出しようとするその最中。

 ヴィットーリオが不思議な問いかけをしてきた。

 無言で返答としてみたものの、クレーエとてその真意は測りきれない。

 邪悪なる誘いが恐ろしいのは破滅が待っているから。それが世の理であり、神の教えである。万物普遍の法則を再度確認して、一体何を伝えようと言うのか。


「全て事実なのです」


「…………?」


 短く語られた言葉の意図ができず困惑する。

 だが次いで語られた言葉に、聞くべきではなかったとクレーエは強い後悔を抱いた。


「永遠の美貌、傾城の美姫、無限の知性、無双の力――そして死んでしまった人との再開。古今東西魔が与えし報酬はその全てが真実なのです。むろんそこに詐欺的な罠は存在していません。永遠の美貌は腐らない。傾城の美姫は微笑み続けるし、知恵と力はその勢いを増す。そして蘇りし人は灰になったりなどしない。だからこそ、邪悪なるものの誘いは強烈に人を魅了する」


 道化師の誘いは続く。

 それはどこまでも甘美で、興味を掻き立てられるものだ。


「貴女は吾輩の言葉に乗れば破滅が待ち受けていると思うのでしょう。何らかの罠が存在し、永遠の苦しみと後悔の中で朽ち果てるのだと」


 その通りだ。そう教えられてきたし、そう信じてきた。

 そして今はそうあって欲しいと心から願っている。


「断じてそのようなことはございませぇん。我が神に頭を垂れた貴女に待つのは永遠の幸福と安寧。失った人との再会に大切な人との平穏な日々。そして三食昼寝付き残業無しの生活。物語の締めくくりはもちろんめでたしめでたし。それこそが、我らが神イラ=タクトが貴女に与えるものです」


 邪悪なる誘いがクレーエを、そしてリトレインを絡め取る。


「吾輩、貴方がたの選択をたのし~みに、しておりますぞ!」


 そして静寂が訪れた。


 残されたのは凍えてしまいそうなほどの寒さと、暗い暗い絶望の想いだけ。


 そしてただただ涙を流す二人の哀れな娘。

 やがて彼女たちはどちらからともなく抱き合い、お互いを慰め合うように静かに泣くのであった。

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