第百十六話:勧誘(1)

 ヴィットーリオの……邪悪なる者の口車に乗った件に関しては一旦棚上げとなった。

 聖騎士たちとて状況は理解しているのだ。

 彼女が提案に乗らなかった場合に自らの親族がどのような運命を迎えるかを。

 だからこそ彼女の行為の是非について保留とし、まずは人々の安全を第一の目標として職務に当たることに納得してくれた。

 だがクレーエが聖なる教えに背いたこともまた事実。聖教を強く信奉する彼らだからこそ、自らの無力感とクレーエの独断を感情的に処理できずある種のしこりとなっていた。


 クレーエと聖騎士たちにあったはずの絆には、ほんの少しだけ亀裂が生じていた。


「これは、よくない……」


 旧南方州騎士団本部。その中で用意した自室にて、クレーエは己を取り巻く状況を冷静に分析していた。

 だがどれほど計算しようとも、どれほど情報を吟味しようとも、自らの――そして聖女リトレインの置かれた状況は厳しい。


(聖騎士は非協力的。それどころか小職に対する不信を抱えている……)


 聖騎士たちにも主張があるのだろう。例の一件以来、彼らの態度は大きく変わっていった。

 無論それらを表に出すような子供じみた精神を持つ者はいない。今すべきことを履き違えてクレーエを非難したり糾弾したりするものが現れないのがその証拠だ。

 だが、だとしても双方に入った亀裂は徐々にその大きさを増している。


(民を助けるために合理的判断をしたつもりですが、その行いが邪悪なる者への譲歩と取られたのでしょう。もう今までのような職位を盾にした強行は無理ですね)


 クレーエが今まで強い権力とリーダーシップを取ることができたのは、ひとえに日記の聖女リトレインの代理であるという一点のみである。

 無理やり加えるのであれば、彼女の異端審問官という役職から来る畏怖もあろう。

 だがここに至ってはその権威も地に落ちようとしている。

 リトレインの信任と、中央からの指示があったからこその地位なのだ。聖騎士たちから不信を抱かれている現状ではそれらもうまく機能しない。

 それほどまでに、邪悪なる者との取り引きというのは彼女の立場に暗い影を指している。


(いえ、取り繕うのはやめましょう。小職は確かに魔なる者に譲歩したのです。あのままいけばネリムさまに危害が加わる可能性があった。小職は……あの不気味な男が皆の大切な者の名前を羅列したときに、確かにネリムさまの顔を思い浮かべてしまったのだから)


 聖女リトレインが持つ日記の能力は強力無比だ。

 記憶という犠牲を厭わなければ、あらゆる奇跡を可能とするだろう。

 だがその使い手であるネリムはただの哀れな少女なのだ。

 自分とは違ってこと戦闘に関してはまるで素人と言えよう。

 聖騎士や随伴の兵士たちが手一杯の現状、実に隙だらけで狙いやすい的とも言える。


 クレーエは聖職者であり戦士でもある。神の御意志を代行し、人々を遍く守護する存在だ。

 だが同時にリトレインの友人でもあるのだ。彼女はそのことをすでに忘れているかもしれないが、だとしてもクレーエだけはそのことを決して忘れない。

 そしてクレーエは、大切な友人を犠牲にできるほど冷酷な人間ではない。

 それこそ……他のすべてを犠牲にしたとしても。

 クレーエは、決してネリムを見捨てることはないだろう。


(神よ……小職はどうすれば)


 祈りは幾万繰り返した。

 聖句はもはや間違えるのが不思議なほど脳裏にこびりついているし、捧げた聖儀式は数えるのが困難な程だ。

 だが……彼女の、彼女たちの状況が良くなることは決してない。


「神よ……貴方は何故助けてくれないのですか」


 決して口にしてはならぬ言葉と同時に、コトリと室内に音が鳴った。

 ビクリと反応し、驚いたように振り返るクレーエ。

 しばらくすると音の出どころ……入り口のドアがゆっくりと開き、相変わらずおどおどとした表情のリトレインがひょっこり顔を覗かせた。


「えと、……イムレイス審問官」


「おやネリム。体調はどうですか?」


 取り繕うように笑顔を向ける。ぎこちない笑いは果たして彼女に通じただろうか?

 先程の言葉を聞かれていたらという不安が胸中をしめ、バクバクと心臓が高鳴る。

 今はリトレインの記憶がひたすら失われるその奇跡に感謝した。いずれこの秘密も……彼女の頭の中から消え去ってしまうのだから。

 もっとも、不思議そうに首を傾げる彼女の様子から、その心配は必要なかったようだが。


「……? 元気です」


「そうですか。ここ最近は無理をしていたようなので、少し心配していたのです」


「そうなのですか?」


 トコトコと室内に入ってくるリトレインに椅子をすすめ、膝を折って彼女と視線を合わせる。

 くりくりとしたガラスのような瞳がクレーエを見つめ、あまりにも澄みきったその瞳の奥に吸い込まれるかのような感覚に陥る。

 そしてゆっくりと、クレーエは己の思いを彼女に打ち明ける。


「貴女さまの能力は……神から与えられた尊きものです。その力は人々を癒やし、信仰を取り戻し、そして悪を退ける強力なもの。ですがその代償として貴女さまの記憶が必要とされる」


 きっとそれがすぐに失われてしまうものだとしても……。


「小職は、これ以上貴女に負担を負って欲しくはないのです……」


「でも、良き行いをすれば必ず良きことがあると、お父さんが言っていました」


 上級生騎士ヴェルデル。

 彼女の心の中には常に父との思い出が駆け巡っている。

 あらゆる記憶を犠牲にしながら、唯一残され彼女を形作っている父との思い出。

 クレーエはその言葉を聞くたびに心が張り裂けそうな気持ちになる。

 なぜなら……彼女の父は。


「えと……私はまた、お父さんと一緒に暮らそうって約束したんです。だから、早く一緒に暮らせるようにもっともっと頑張らないと駄目なんです。沢山のよき行いが、私には必要なんです」


 目を背けていた事実がある。

 アムリタの街で人々への支援を行いながら、クレーエはある調査を行っていた。

 その中で判明した事実。おそらく……と枕言葉をつければいくらか希望があろうが、実際は絶望的な結果として目の前に鎮座しているその悲劇。

 つまり……。


「ですがぁ。いくら頑張っても、もうどうにもならないんですよねぇ!」


「貴方は!」


 突如、部屋のすみから声が上がった。

 クレーエは慌ててネリムを抱えると、常人とかけ離れた脚力を持って距離を取る。

 いつからそこにいたのか、相変わらずニヤニヤと不誠実な笑みを浮かべ、何かを吟味するようにその手を顎にやってこちらに無遠慮な視線を向けてくる。


「ネリムさま……小職の後ろに下がって。魔なる者ヴィットーリオ。どういう了見ですか? 貴方は先日互いの不干渉を了承した。その誓いを早速破ると言うのですか?」


「いえいえ、今回のこれはあくまでお話の範疇! 今行っているゲームに影響するものではありません!」


「痴れ言を。そのように言葉を弄すれば小職が納得するとでも? 代理教祖殿はなんと言っているのですか?」


「いや、ヨナヨナくんには黙ってきましたので。だって言ったらボコられるから……」


「それは実に良い。彼女こそが正式な教祖になるべきだと小職は提案させて頂きましょう」


「ふふふん。吾輩もそう思いますぅ」


 どうやらこの場に代理教祖の少女――ヨナヨナはいないらしい。

 彼の言葉を信じるならば独断専行にてこの場にいるとのことだが、あの誠実な少女の性格を思うにおそらくそれは事実なのだろう。

 それはすなわち目の前の男のストッパーがいないことを意味しており、この悪辣なる人物が完全に自由気ままに行動を起こせることの証左でもあった。


「それで、小職の聖剣技がご所望ということですか?」


 チラリと、視線を少し離れた場所へ向ける。

 自室だと気を抜いて装備はその場に置かれたままだ。剣を抜くとは威勢の良い言葉であったが、実際眼の前の男を出し抜いてそれがなし得るかと言われると言葉に窮す。

 だがクレーエはやらねばならない。背中で震える少女を守るためなら、どのような犠牲も厭わないと誓ったのだから。

 だが、またしてもというべきか、やはりというべきか。


「いえいえ! それには及びません! 吾輩、本日は提案に来ているのですから!!」


 眼の前の男はまた言葉での交渉を求めてきた。

 すなわち提案である。邪悪なる誘惑。破滅へと人を誘う禁忌の言葉だ。


「提案? またそれですか? 一体貴方は――」


 言い終わる前に、言葉が紡がれる。

 その内容にクレーエも、そして背後にいるリトレインも驚愕に目を見開く。


「イムレイス審問官。そちらの哀れなお嬢さんを連れて、我が陣営に寝返りませんか?」


 おおよそ予想だにしなかったその言葉に、クレーエは強い怒りの視線をヴィットーリオに向けるのであった。

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