第百六話:日記(2)

 ――聖女の奇跡。


 クレーエは、止める術を持ち合わせていなかった。

 聖女が奇跡を行使し苦しむ者を救う。

 その尊き行いは、誰も止める事が許されない。

 決意を持って奇跡を行使する聖女を止める事は、何よりも許しがたい悪しき行いだから。

 異端審問官という誰よりも神の法を守らなければならない職務を与えられているが故に。

 止めるべきだと叫ぶ感情を、クレーエは神への献身と倫理観で必死に押さえ込む。


「神様、神様――私の大切な思い出を捧げます。どうかこの人に、また神様への信仰を……」


 だからクレーエは、いつものようにその光景を歯を食いしばって眺めている事しかできなかった。

 そして神の奇跡は成就する。

 瞬間、天幕の内側を光が満たした。

 陽光とはまた別の、ほのかな暖かさを伴った清らかな光が眩いばかりに視界の全てを覆う。

 まるで母親の胎内にでもいるかのような安堵と幸福がその場にいる全ての者の心を優しく包み込む。

 確かにそれは神の存在を感じさせるもので、何か超常的な力がこの場に降臨した事を魂で理解させられるものだった。


「ああ、あああ……っ!!」


 その最中、聞こえてきたのはこの光景にそぐわしくない、慟哭であった。


「私はなんということを! 何故いままでこんな大切な事を忘れていたのですか!」


 ケイマン医療司祭がその場に崩れ落ち、頭を抱えながら叫ぶ。

 劇的な変化ではあったが、おおよそ予想の付く反応だった。彼の心に再び宿った信仰心が、失われた間の行いを悔い改めさせているのだ。

 彼は今、どのような心の苦痛を感じているのだろうか?

 信仰心を失ったことのないクレーエには分からなかったが、それでも彼の態度を見ればそれが身を引き裂かんばかりの苦しみだということが手に取るように分かる。


「おお! お許しください神よ! お許しください聖女さま! この愚か者めをどうかお許しください。なんたることか、私は……いままで何を! 何をしていたというのですか……」


 これこそが日記の聖女による奇跡。

 何よりも尊く、何よりも残酷な、神が与えし祝福。

 その範囲は無限。主として誰かを癒やすことに特化しているが、それが奇跡と呼ばれるものの範疇であるのならどのような事でもなし得てみせる。

 病人の治療、破壊された物品の再生、悪しき魔を祓う力の獲得。

 効果は千差万別、及ぶ範囲もまた千差万別。

 七人いる聖女の中で最も多様性に富み、最も強力だとされる神が与えし日記の奇跡。

 それは破滅の王がもたらした忘失の呪いすら簡単に打ち破って見せた。

 聖なる神は苦しむ人々を聖女の御手を通して遍く救う。

 だがそれはあまりにも残酷な光景だ。

 なぜなら、日記の聖女が――リトレインが奇跡を使う代償として、



 ――神は彼女の記憶を求めるのだから。



 彼女が日記を持つに至った経緯は何だったか?

 彼女が日記を書き始めたのはいつ頃だったか?

 捧げてしまった人々との思い出の数だけ、救われた人が存在する。

 失った記憶の数だけ、感謝の言葉が存在する。

 目の前で感激にむせび泣く信徒が何故泣いているのかも分からぬことがほとんどのリトレインが、処世術として考えついた手段こそが彼女が持つ大きな日記の正体だった。


「リトレインさま! 偉大なる聖女リトレインさま! 神の恩寵、感謝いたします。私のような不信心者に奇跡を与えてくださる慈悲。なんと申し上げて良いか! 卑しい身を恥じてあえて申し上げます。どうかその奇跡を未だ苦しむ万民へお与えください! さすれば必ずやこの街も復興しましょうぞ! 未だ破滅の王が残した呪いに苦しむ者は多くおります!」


「……? え? あっ、は、はい!」


 ケイマン司祭の狂乱じみた嘆願に対し、リトレインは日記を開き、確認し、閉じる。

 目の前の相手がどのような理由で泣き崩れているのか、どのような理由で感謝の言葉を述べているのか。

 リトレインはその理由を確認しているのだろう。もしかしたら、彼がケイマン医療司祭ということすら代償に捧げ、いま初めて知り直したのかもしれない。


 彼女に残る思い出は酷く少ない。

 誰も知らないし、誰も分からない。

 ただ日記にそう書いてあるから、そう接しているだけだ。


「えと、とりあえず、よかったです」


「奇跡の成就、おめでとうございますリトレインさま! なんと素晴らしき御業か! この私、初めて神の奇跡を目の当たりにして感動に打ちひしがれております! そのお力があれば、必ずやこの南方州は救われましょう!」


「はい、えっと……はい。ありがとうございます?」


 興奮のあまりどこかうわずった声で賞賛の言葉を並べる聖騎士。そんな彼にリトレインはいまその存在に気付いたとばかりにまた曖昧な返事を向ける。

 おそらく彼のことも、誰であって何故ここにいるのかも、分かっていないのだろう。

 困惑気味の声が如実にそれを物語っている。


 この幼い少女に課せられた使命は、果てしなく重い。

 神の恩寵は、彼女一人が受け止めるにはあまりにもまぶしく、あまりにも強大すぎた。

 だがその肩代わりをすることは誰にも許されていない。

 聖女の孤独は、他ならぬ神によって求められているのだから。


「奇跡の成就、実に――良きことです。ですがケイマン医療司祭はいまだ混乱されているご様子。己を見つめ直す時間が必要でしょう。……そこの貴方。彼を休憩所へ案内してくれますか? 聴取の続きと今後の協力願いについてはまた後ほど行いたいと思います」


「はっ! 了解しましたイムレイス審問官! では失礼します! さぁ、ケイマン様。こちらへ……」


「ああ、申し訳ない。聖騎士の方のお手を煩わせるなんて、なんという……」


「お気になさらずに!」


 クレーエが自然な流れで退室を促し、興奮冷めやらぬ二人が天幕から出て行く。

 用も済んだだろうし、このまま事態を見守っていたとしても何かが起こるわけではないからだ。せいぜいがケイマン医療司祭の感謝の言葉にバリエーションが増える程度だろう。

 神の奇跡を自らの身に浴びた幸運者と、その目撃者。

 ともすれば聖書の一文に記されるであろう奇跡の当事者となった二人が退室した後は、やけに静かな空間が彼女達を待っていた。


「よろしかったのですか?」


 先ほどから必死で日記のページをめくるリトレインに、クレーエはゆっくりと問うた。


「はい、た、多分……」


「そうですか」


 そのまま押し黙る。

 彼女の――日記の聖女リトレインの記憶は当然のことながら有限だ。

 日々加わる新たな記憶を積極的に代償として捧げているが、それでも無闇矢鱈と奇跡を行使していればいずれ限界が訪れる。


 すなわち、彼女が今まで代償として捧げる事を拒否し続けてきた記憶が必要になる時が来てしまう可能性があるのだ。

 記憶を捧げ続け、穴だらけになったリトレインが唯一捧げることを拒否し大切に抱えているもの。それは父との記憶だ。

 クレーエは、言外に伝えたのだ。あまり無駄に奇跡を使うといずれ重大な決断をしなければならない時が来るぞと。


 すなわちそれは、彼女の記憶が全て失われ、リトレインがリトレインでなくなる日。

 父との思い出もなくなり、ただがらんどうの聖女という機能だけを乗せた人形が生まれる日。


 ――いま、世界は混沌に満ちている。

 邪悪なる勢力が虎視眈々と人々の暮らしを脅かし、その生命全てを地獄の底に引きずり込もうと胎動を始めている。

 エル=ナー精霊契約連合はすでに敗れ、悪しき者たちによる不穏な動きを見せている。

 クオリアもまた、レネア神光国として興った南方州に壊滅的な打撃を受け、その深い傷から立ち直れずにいる。

 さらに南部の大陸――暗黒大陸では中立国家にてまた別の悍ましき存在ありとの神託が下された。

 これからおそらく……いや、間違いなく光と闇の戦いは苛烈さを増していくだろう。


 その課程で傷つき、倒れる者は数知れず。

 聖女の助けを求める者は、増えることはあれど決して減ることはない。

 そして助けを求める無辜の民を捨て置けるほど、彼女は冷酷な人間ではない。

 だから日記の聖女リトレインはこれからも奇跡を使い続けるだろう。

 たとえ、捧げられる思い出を全て差し出したとしてもなお……。

 その時彼女は……。

 この優しい娘は、一体何を差し出せば良いというのだ。


「あの、イムレイス異端審問官……」


「…………なんでしょうか?」


「神様は、アーロス様は……私の良き行いを見ていてくれたでしょうか?」


 決して答えの出ない問題に心を暗くしていたクレーエに、リトレインはおずおずと語りかける。

 その姿を見るのが、何よりもつらかった。

 酷く辛く、耐えがたかった。

 だから決して己の考えを悟らせないよう、心を閉じ、感情を凍らせ、笑みを浮かべる。

 けれども……クレーエは、その鉄のごとき意志の力をもってしても、震える声を止める事ができずにいる。


「え、ええ。神は、必ず……ネリムさまの行いをご覧になっていることでしょう」


「そっか……よかった」


 本当に、本当にほっとした表情で、リトレインが笑った。

 その笑顔が本当に無邪気で、クレーエにどうしようもない罪悪感を覚えさせる。


 クレーエは覚えている。

 この小さな娘が本当は快活で人なつこい性格であることを。

 相手が自分を知っているのに自分は記憶を失っているという状況が故に、相手に不快感を与えまいとオドオドとした窺うような態度をとってしまうことを。


 クレーエは覚えている。

 リトレインという名前は、彼女が中央に引き取られた際につけられたもので、本当の名前は養父から与えられたネリムだということを。

 どちらも互いを知らない時、聖女との謁見に緊張する自分に対して言ってくれた「私の事は気軽にネリムと呼んでね」というあの優しい言葉を。


 クレーエは覚えている。

 彼女は正義感が人一倍強く、人一倍人の苦しみに敏感であることを。

 それはまるで彼女の父親そっくりで、いつの日か彼のように立派な聖職者になれるだろうと、なれるはずだと思っていたことを。


 クレーエは覚えている。

 彼女が夜中にひっそりと父の名前を呼びながら泣いている事を……。


「父君は必ず戻りますよ。――あと」


 クレーエは心の中で慟哭する。

 何度練習しても上手く出来ない笑みがまた崩れ、ぎこちないそれに変わる。

 ああ神よ、ああ偉大なる神よ、どうしてこれほどまで悲劇をご所望になるのか?

 彼女はいつ救われるのか? 彼女はどのように救われるのか?

 自分は何を彼女にしてやるべきなのか。

 答える神はいない。

 全知全能であるのなら、聞こえているはずの善なる神。

 存在を確認されているはずの神は、聖なる御心のまま沈黙を貫く。


 だからクレーエは、ただただ悲しげな笑みを浮かべ……。


「小職のことは、どうぞクレーエと気軽にお呼びください」


 いずれ訪れるであろう終わりの時まで、少女のそばに居ると心に誓うのであった。


 ◇   ◇   ◇


 レネア神光国崩壊より約一ヶ月後の某日。

 旧クオリア南方州。商業都市セルドーチ。


 南方州と暗黒大陸の接続部に最も近い都市。

 クオリア本国から見れば南の最果てに位置するその都市は、以前では暗黒大陸の中立国家との非公式な貿易で賑わった歴史のある街だ。

 だが今この混乱の時代において、多種多様な人々が訪れていたその場所は一種の陰鬱とした空気に包まれていた。


 ――セルドーチの都市の入り口に設けられた入国管理所は封鎖されており、現在は閑古鳥が鳴いている。

 南方州にあるこの都市は、現在クオリア三法王の名において重要管理都市の指定がされており、人の往来は徹底的に遮断されている。

 外からやってくる者は無論、中からも人を出さないという厳重なものであったが、そもそもこの大事だ。

 商人はさっさと安全な場所に逃げているし、旅人や巡礼者も疫病の発生でそれどころではない。

 普段は行商人や巡礼者、傭兵の入国審査に休む暇もなかった警備の一般兵もその煽りを受け当然のように休業中だ。

 ともあれ警備は必要であり、全く無人にするという訳にもいかない。

 その日も一人の兵士が街門の併設された管理所の椅子に座り、監視窓に肘をつきながらぼんやりと外に見える晴れ渡った空を眺めていた。

 誰がみても明らかだったが、彼は重要な任務を与えられながらも全くやって来ない仕事に退屈さを感じていた。


「こう言ってはなんだけど、暇すぎても苦痛だな……。こうまでやることがないと、あの忙しい毎日が逆に懐かしくなってくるよ」


 末端の兵士と上層部で抱く危機感に大きな隔たりがあるのは組織の常だ。

 彼もまた多少の不安はあれど危機意識に乏しく、ただぼんやりと一日を過ごして早く交代の時間にならないかと暇を持て余していたのだが……。

 その時は、本当に突然に、前触れもなく訪れた。


「もしもぉぉぉっすぃ。ちょ~っとよろしいですかなぁ!?」


「うぉっ! な、なにもの……何者だ?」


 その男は突然、本当に突然窓の外に現れた。

 ぼーっとしていたとは言え、窓から見えるこの辺りの景色は見通しもよく、隠れるような場所もない。

 にもかかわらず自分に一切気付かせることなくここまで接近して来た男に、先ほどまで不真面目に任務をこなしていた兵士も警戒を隠せない。

 思わず窓から距離を取り腰の剣に手をかける。

 だがあからさまに発せられる不信感と相手を警戒する態度にも、その奇妙な男はなんら気にした様子もなく、それどころか自らの怪しさを言いつくろう気配すらない。


「おおお! これは大変失礼しましたぁっ! 吾輩の名前はヴィットーリオ、マイノグーラの方からやって来ましたヴィットーリオォ!」


 兵士による困惑混じりの疑惑の視線になんのその。

 それどころか、仰々しい態度で深々とお辞儀をする。

 ゆったりと持ち上げられた頭はまるで鎌首をもたげた蛇のごとく陰湿な気配を放っており、ニタリと笑う口元は舌なめずりをしているかのような不気味さがある。

 情報に疎い末端の兵士である彼にとって、マイノグーラの王であるイラ=タクトが起こした破滅の詳細が届いていなかった事は、はたして幸か不幸か。


 だがそのような疑問もはやこの段階に至っては無意味であることが次の瞬間に明らかとなる。

 同じくいつの間に現れたのか、彼の後ろからぞろぞろと集団がやってきたのだ

 それらは一様にニコニコと不気味なまでに強い笑みを浮かべている。

 まるで作り物めいた存在であったが、彼らが人形でないことは先頭にいるやたら不機嫌かつ疲れた表情を見せた数人の少女から分かる。


「い、いったい……何用だ? この都市は現在封鎖中なのだが」


 腰が引けた様子で問いかける兵士の男。

 いつもなら暗黒大陸の人とみるや居丈高に振る舞う小物ではあったが、さすがにこの状況で余計なことをしでかさないだけの頭は働いたらしい。

 最低限の人員ということで仲間も近くに居ないため動揺が見え隠れしていることは失点ではあったが。

 もっとも、彼の頭が多少回ったところで目の前の詐欺師に対抗できる可能性は皆無に等しいのだが……。


「貴方はいまぁ、幸せでぇすかぁ~?」


 どこかで言われた言葉が、ここでもまた垂れ流される。

 暇を持て余したヴィットーリオの奇行が……。

 策謀の英雄による次なる一手は、始まろうとしていた。

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