第五十七話:悪意は人々を確かに救う
南方州議会場、聖アムリターテ大教会にある執務室で、ソアリーナは一人書類の束を眺めていた。
それらは全てが南方州議会の老獪どもがため込んでいた不正の証拠だったが、複雑かつ硬質化した行政システムのため予想を超える情報量となっていた。
ソアリーナは村娘の出自ゆえ、文章にはさほど慣れていない。
初等教育を受け始めたばかりの児童のように、たどたどしい手つきと速度で書類の内容を読み込む。
この書類の数だけ背後に苦しむ民がいる。
一枚でも、一文字でも早く内容を確認し不正を正しき形にしなければ……。
焦りばかりがつのり、余計に作業のスペースを鈍化させていく。
……不意に、執務室のドアがノックされ一人の聖騎士が入室してきた。
「聖女ソアリーナ様! 死亡した枢機卿らの私財調査が一段落いたしました」
現れたのは南方州聖騎士団の団長である上級聖騎士フィヨルド=ヴァイスタークだ。
老齢ながら未だ衰えぬその技の冴え渡りは南方州をおろかクオリア全域に轟いており、聖職者はもちろん市井の民でもその名を知らぬ者はいないほどである。
聖騎士という戦闘を主とする生業ながら、礼を尽くした所作で深々とお辞儀をするフィヨルド。
その彼に対して、ソアリーナは静かに頷くとやや期待に満ちた声音で問いを投げかける。
「いかほどでしたか?」
「すさまじい……の一言です。よもやこれほどの資産が隠されていようとは。二重帳簿、迂回献金、賄賂。これら民から預かりし喜捨が貧しき人々にちゃんと行き届いていればと、我が身の至らなさを嘆くばかりです」
日頃から冷静沈着、およそ感情を表に出さないフィヨルドが不快感を隠せず出している。
否――彼だからこそこの程度で済んでいるのだ。
事実、臨時に招集されこの事態の収拾に当たっている聖騎士達は、あまりにも悍ましいその所業に憤怒のあまり叫び散らしている最中だ。
「神は強き意志で人々の灯火となることを私達にお望みです。出来る事をやりましょう――お願いしていた人材の登用は?」
「各町村の司祭なども含め通達を行っておりますが、彼らにもそれぞれの事情がある故に急にとなると中々反応が芳しくありません」
穴が空いた行政システムを立て直すのは容易ではない。
ただ適当な人物をあてがえば良いというものではなく、そこには確かな人望と能力が求められる。
とは言えエラキノによって殺された司教や枢機卿は南方州行政の上流だ。
殆どの実務が一般の聖職者によって担当されている為、今のところ一般の市民にとっては平時と変わりない日常であり、なんとか均衡を保っている。
しかしながらその平穏も数日中に崩壊するであろうことは明らかだ。
それまでになんとかこの複雑怪奇に入り組んだ諸々の流れを、見える形まで修復しなければならない。
「そうですか……私の名前を出しても構いませんので、引き続き説得をおこなってください。今はとにかく人が必要です」
おいそれと出すべきではない聖女という名称の使用許可まで出す。
これがどれほどの意味を持っているのか、そしてソアリーナがどれほどの覚悟を有しているのかを悟り、フィヨルドは震える。
だが畏怖にも似た崇敬を聖女に向ける中、フィヨルドは南方州聖騎士団の団長として確認しておかねばならぬことがあることを思い出す。
「しかし、中央への報告を止めて良いのでしょうか?」
数秒の沈黙。ややして華葬の聖女ソアリーナは答えた。
「はい……そちらは問題ありません。今中央に余計な横やりを入れられては混乱は更に酷いものとなるでしょう。無論永遠に隠すという事ではありません。いずれ時期を見て」
「ふむぅ、ソアリーナさまがそのようにおっしゃるのであれば……」
明らかに誤魔化された。
フィヨルドはただの耄碌した引退間際の老いぼれではない。
その名を大陸中に轟かせる上級聖騎士であり、聖女を除けば最も多くの邪悪を討ち滅ぼしてきたクオリアの誇る英雄なのだ。
その洞察力はもはや予知や読心の域まで昇華されており、故にソアリーナが抱く何らかの後ろめたさと隠し事を見抜いたのだ。
何かある。ソアリーナが中央にこの重大事件を隠さねばならぬ理由が。
悟られぬように意識を集中し、今までに得た情報を精査する。
何かあるはずだ……何か違和感を見逃しているはずだ。
霞がかった意識の中、フィヨルドの脳裏に何かが見えた――。
辺り一面に散らばった司教達の死体。血の海で佇むソアリーナと少女。
フィヨルドが部下と共に聖騎士剣を抜き放ち、その御業にて少女へと斬りかかった瞬間――。
「やぁやぁ。なんだかお困り事みたいだねっ! ってか今は悠長にお話ししてる暇ないんじゃないの?」
「――っ! そなたは……」
「やっほー、騎士団長くん。目の隈が増えたんじゃない? ちゃんと寝てる?」
いつの間にか現れた少女が気安くフィヨルドに話しかけてくる。
視界がぼやけ、頭がガンガンと鳴る。少女と少女が重なり、血の様に赤い瞳とその口腔がニヤリと不気味に笑いかけてくる。
頭痛は更に酷くなり、あと一歩のところでその楔を抜き去ろうとしている。
「ぬっ、し、失礼……頭が」
あと少し――あと少し。
そうして聖騎士フィヨルドは、目の前の少女が《啜りの魔女エラキノ》であることを思い出し。
「ありゃりゃ……効果が切れかかってるか。しかたないにぇ。エラキノちゃんを信じてねっ、きゃっ♪」
=Message=============
エラキノの《洗脳》判定
判定:確定成功
―――――――――――――――――
気心の知れた聖なる信徒へと挨拶をした。
「むっ……何が? おお、エラキノ殿。いらしていたのですな。これは失礼した。少し目眩がしたもので」
先ほどの頭痛が嘘のように引き、途端に意識が冴え渡る。
と同時に正義の想いがこれでもかと己の身体を満たし、目の前の少女に対して礼を失してしまったことを悔やむ紳士の一面が現れる。
「エラキノちゃんの可愛さにメロメロになっちゃったのかな? あまり無理してお仕事しちゃだめだよ騎士団長くん」
「はははっ! 女性を心配させ気遣いさせるとは、私も精進が足りませぬな。ですがエラキノ殿。人には時として無理してでもやり遂げないことがあるのですぞ」
「人を助けること、とかかなっ?」
「うむ! 誠そのとおり! エラキノ殿もご存じの通り、いまクオリアは未曾有の混乱に巻き込まれようとしております。そしてこの難事にあたり、神の剣となり人々の盾となるのが聖騎士の勤めなのです。寝る暇がどこにあろうというのですか」
「にゃはは! うーん、なんというお仕事人間! 企業の社長になったら絶対ブラック化しそうな危うさがあるゾ♪ まぁ、そんな騎士団長くんには希望通りお仕事どうぞ~」
まっすぐな想いに気圧されたのか、それとも我が身を省みぬ強き意志に辟易としたのか。
エラキノは若干の苦笑いを浮かべながらどこからともなく紙束を取り出した。
「こ、これはっ!」
その書類を受け取ったフィヨルドは思わず驚愕に目を見開く。
なぜならそれは、決して形として残されるはずのない司教たちの財産の隠し場所に関する情報だったからだ……。
「エラキノ殿……これはどこで?」
「《調査》技能は大事だよっと、おおっと騎士団長くん。いま重要なのはそこかな? ソレをどうした? じゃなくてソレを使ってどうするか? でしょ?」
「むっ! これは失礼した。確かにその通りですな。よき教え、感謝いたしますエラキノ殿」
その言葉に一瞬で思考を切り替えるフィヨルド。
今までの裏帳簿で判明した隠し財産の数は膨大だ。
隠し場所が不明ゆえに調査に難航すると考えていたこれが早期に回収できるとなると、最悪資金にものを言わせて南方州の混乱を立て直すことも可能だ。
混乱収束に希望を見いだせたフィヨルドは、先ほどより幾分顔色を良くし書類を懐へとしまう。
「ではソアリーナ様。エラキノ殿。私は早速この書類を精査してまいります。いまは時間がどれほどあっても足りぬ状況ですからな」
「はい、どうぞよろしくお願いします」
「がんばー!」
入室してきた時と同じく、深々とした礼節に富んだお辞儀をするフィヨルド。
踵を返しそのまま退室しようとしたその足がふと止まる。
「私は……お二人がこの国の為に立ち上がってくださったことに心から感謝しております。これも神のお導き、この国にはびこる病巣を決して見逃しはしておられなかったのですな」
その言葉が本心であることを、《洗脳》によって相手の思考を奪い去ったエラキノはよく理解していた。
そして《啜り》によって完全にエラキノの陣営となったソアリーナも、その事をよく理解していた。
「良い国にしていきましょう。ではこれにて」
エラキノはニコニコと屈託の無い笑顔で、ソアリーナは何とも言えない張り付いた笑みで。
聖騎士フィヨルドの言葉に頷いた。
………
……
…
「いやぁ、いいことすればなんだか気持ちいいね! 新感覚っ!」
くるくると、執務室を踊りながらエラキノが笑う。
その笑みは童女のもので、屈託の無い笑顔は彼女が多くの人の命を奪った魔女だとは到底感じさせない。
ソアリーナはただひたすら書類を処理する。
見たくも無い現実に蓋をするように、自らの心を嘘で塗布するように。
「このまま順調にいけば、この地域一帯の悪い人は、ぜーんぶいなくなっちゃいそうだねっ、ソアリーナちゃん!」
「このまま行けば、このまま行けば……」
そう、このまま行けば良いのだ。
不思議なことに、エラキノは本気でこの国をよくしたいと思っている様子だった。
少なくともこの国や先ほどの騎士団長の様な知り合いに愛着が湧き始めている事は確かだ。
人の命をなんとも思わない魔女が何故そのような感情を抱くのかソアリーナには分からない。
だが万が一にでもエラキノがこの国と国民に対して真なる愛着心を抱くことができれば、全て変わるのではないか?
きっと自分の様な不幸な人間が生まれることはなくなるのではないか?
そんな哀れな未来予想図が浮かんでくる。
このまま行けば。このまま行けば……。
ソアリーナはそれだけを小さく呟く。
「このまま上手く行けば……ですがね」
その言葉は、また別の来客者の言葉によって否定された。
「フェンネ様……」
そこに居たのは一人の女だった。
身長はいくつだろうか? ソアリーナよりも高い事は確かだが、まるで怯えるように身体を縮こまらせておりむしろ小さく見える。
またその肌を隠すよう聖衣に身を包みこんでおり、純白のヴェールで顔を隠している様もあいまって一種の不気味ささえある。
反対にその声は女神の歌の如し。
まるで声音だけで室内が浄化されたと感じさせる程のそれは、同じ存在であるソアリーナですら思わず頬を赤らめてしまうほどだ。
女の名はフェンネ――。
イドラギィア大陸救世七大聖女が一人。
《顔伏せの聖女》フェンネ=カームエール。
「おや! 顔伏せちゃんじゃないか! 初めましてごきげんよう! もう傷の方はいいのかな?」
どのような技法を用いたのか、いつの間にか部屋に居たフェンネにエラキノはのんきに語りかける。
フェンネはその言葉に無言で顔を向けると、ソアリーナに見えぬような角度でヴェールに手をかけ、片目で直接エラキノを確認した。
「初めましてエラキノ。ソアリーナを下すとは。……上手にやったのね」
「まっねー! かなり時間がかかったけどね。けどおかげでエラキノちゃんの野望の達成にまた一歩近づいたのだ! 凄いでしょ?」
「そう、興味ないわね」
――恐ろしいほどの違和感が、ソアリーナを襲った。
彼女はエラキノとフェンネの関係を知らない。
クオリアは州ごとの裁量が大きいがゆえに他州の介入を酷く嫌う文化がある。
故に北方州とは別の州の担当である《顔伏せの聖女》がエラキノとどのような戦闘を繰り広げたのか一切の情報が入ってきていないのだ。
情報が入ってきていないが故に、そこで何が起こったのかも一切不明だ。
「どうしたの? ソアリーナ」
ソアリーナの異変に気づいたのか、静かにフェンネが問いかける。
その声は相変わらず美しく、まるで宮廷音楽のような荘厳ささえ感じさせる。
脳裏に響くどこか非人間的なその声音を振り払い、ソアリーナは迂遠に尋ねた。
「その、失礼を承知でお聞きしますが、フェンネさまはエラキノから何かをされましたか?」
「「何も」」
エラキノと、フェンネが同時に全く同じ返答をした。
その不気味な一致にソアリーナは思わず身震いする。
「変な事を言うのね、ソアリーナ。私が彼女から何らかの洗脳を受けていると考えたの? ああ、それとも私が何かを企んでいると思った? だとしたら誤解よ。私はいつだって人々の事を第一に考えている。この状況も仕方なく、よ。一度敗北した身では到底エラキノと貴方には敵わないもの」
ヴェールの下から瞳がソアリーナを射貫く。
言葉にしていないのに全てを見透かされたようで、思わず言葉に詰まる。
「ああ、こう思っているのねソアリーナ。『《顔伏せの聖女》は何らかの密約を《啜りの魔女》と行い、深手を装って潜伏していた』と。それはとてもとても悪い考えだわ。神もそのような恐ろしい考え、けして肯定なさらない。その考えは今すぐ捨てるべきよソアリーナ」
あらかじめ用意されていたかのように、今思いついた事を適当に並べ立てているかのように。フェンネは饒舌にソアリーナの言葉を否定した。
聖女の能力はその全てが原則として秘匿され、たとえ何らかの形で知ったとしても口外が厳禁とされる。
それは同じ聖女間であっても同じで、ソアリーナも自分以外の聖女がどのような能力を有しているか朧気にしか知らない。
……ふと、《顔伏せの聖女》が持つ奇跡が真実を見抜くものであると噂されていることを思い出した。
「さぁソアリーナ、人々を救いましょう。その為に聖女という存在は神に生み出されたのですもの」
美しい声音でフェンネが語りかける。
そのまま吸い込まれ、溺れてしまいそうになる声音だ。
なぜか縋るようにエラキノへ視線を向けるソアリーナ。
《啜りの魔女》はただコロコロと嬉しそうに笑うだけだ。
「全ての人は救われるべきだわ。そう、全ての人はね」
この場にいる者の意見は完全に一致している。
だがその言葉が真実であるかの答えは、それぞれの心の中にしか存在していなかった。
=Message=============
南方州が聖王国クオリアから離脱しました。
以後は【国家宣言】イベントが発生するまで独立都市として扱います。
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