第三章:それは始まりの暗き闇

第五十一話:妙策(1)

 マイノグーラの英雄、汚泥のアトゥはかつて無い緊張に包まれていた。

 ブレイブクエスタスの魔王軍によってマイノグーラが急襲され、英雄を失うという重要な損失が発生したのがつい先日であるから当然とも言える。

 だが最も重要な事項は自らの主の変わりようだった。


 この世界に来た当初にあった甘さが抜けた彼は、あの日アトゥですら恐怖を感じさせる程の怒りを見せた。

 無論アトゥとて幾千もの戦いを拓斗とともに切り抜けてきた仲だ。それがゲーム中の出来事であったとはいえ、何度か拓斗の怒りを感じたこともある。

 だがこの世界に来てから初めて見せたその激憤は、伊良拓斗という人間がガラッとまるごと変わってしまったかのような感覚をアトゥに抱かせ、それがこの背筋が凍るような緊張を産んでいた。


(今までとは同じでは、いられないかもしれないですね……)


 あの優しく穏やかな日々が失われてしまう事を考え、少し胸の痛みを感じるアトゥ。

 だがけして振り返ることはできない。

 あれほどの力を持ちながらも撃破されてしまったイスラ。自分という存在が居ながら自らの主を危険に晒してしまった失態。

 そしてこの世界における明確な脅威。

 それらの事実がアトゥの心を引き締め、強い決意とともに力となって身体を駆け巡る。

 危機は過ぎ去り、次に生かすチャンスを得ることができた。

 ならばこそ、二度の失態は絶対にない。

 あり得ない。

 なぜなら自分は英雄汚泥のアトゥだからだ。

 全ての敵を滅ぼし尽くし、やがて自らも滅ぼすとすら言われる最強の英雄。


 拓斗の敵を滅ぼす。必ず。

 今までの甘えを一切捨て、その瞳に狂信のみをやどし……。


「偉大なる我らが王、イラ=タクトさま! 汚泥のアトゥ、ここに!」


 アトゥは王が座する玉座の間へと続く扉を勢いよく開く。

 ……が。


「うう、死にたい……」


「よしよし……」

「元気出して欲しいのです、王様」


 当の主であるイラ=タクトはなぜか悲壮感を漂わせながら床で体育座りになり、双子の姉妹によしよしと慰められていた。


「た、拓斗さまぁぁぁぁぁっ!!」


「……アトゥ。ぼく、死にたい」


 抱え込んだ膝に顔を埋め、アトゥを一切見る事無く拓斗は開口一番そう言い放った。

 先ほどまでの決意はどこへやら、とにかく別の意味でまたとんでもない事態となったとばかりにアトゥは拓斗へと駆け寄る。


「ダメです! 死んではダメですタクト様! 何があったのですか? どうぞこのアトゥめにおっしゃってください!」


 おずおずと顔が上がり、アトゥの方を見つめる拓斗。

 しばらく何かを告げようと口をもごもごさせていた彼だったが、やがてその瞳からふっと意志の光が消えると、また先ほどと同じように顔を埋めてしまう。

 心が折れたのだ。


「拓斗さまぁぁぁぁ!!」


 状況を飲み込めないアトゥはただ悲壮感漂わせ叫ぶことしかできない。

 もはやマイノグーラの誇る最強の英雄はどこにもいない。

 もっとも、最強の『Eternal Nations』プレイヤーがこのざまなので仕方ないのかもしれないが……。


「よしよしいい子いい子。赤ちゃん赤ちゃん」

「お、お姉ちゃんさん。えっと、流石に王様に対して赤ちゃんはどうかと思うのです」


「いいんだよ。今の僕は赤ちゃんだよ。生まれる前からやり直したい」

「よしよし、赤ちゃん赤ちゃん」


 姉のメアリアがご機嫌に拓斗の頭をなで続ける。

 妹のキャリアは流石にどうかと思ったのか姉ほど積極的ではない様子だ。

 そんな妹を目敏く見つけたアトゥは、拓斗に気づかれぬようちょいちょいとキャリアを手招きするとコソコソと小声で相談を始める。


(ちょ、ちょっとキャリア! 拓斗さまに何があったのですか!?)


(そ、それはキャリーの口から言わない方がいいと思うのです……)


(くっ、くぅぅぅ……しかし! 拓斗さまは私にお話ししてくれません! これはゆゆしき事態です!)


(お姉ちゃんさんみたいによしよししてみてはいかがです?)


(……え?)


(そうすれば、きっと王様もアトゥさんにお話ししようって気持ちになると思うのです)


(そ、そんなこと! この英雄であり拓斗さまの腹心の配下であるアトゥが出来るわけありませんでしょう!)


 思わず声を張り上げながら、アトゥはキャリアの提案を拒否する。


(出来るわけないでしょう!)


 再度拒否するアトゥ。

 彼女の忠誠は、決して拓斗への不敬を良しとしなかったのだ。


「……拓斗さま~、よ、よしよ~し! 拓斗さまのアトゥがここにおりますよ~」


 結局アトゥは拓斗をよしよしすることにした。

 正直なところ、興味が非常にあった。

 英雄としての矜持や誇りもあるが、それ以上に拓斗の頭を撫でるという甘い誘惑に抗えなかったのだ。

 加えて今なら免罪符もたんまりと用意されている。

 あくまで拓斗を元気づけるためという誰に向けたか分からぬ言い訳を己の内で繰り返しながら、つり上がる口角を隠そうともせずにアトゥは拓斗の甘やかしを楽しむ。


 だが明らかにアトゥが喜ぶだけの行為に見えるそれが功を奏することもある。

 最も信頼する者に頭を撫でられたことで拓斗の中にある自尊心も少しばかり回復したのだろう。

 再度瞳に意志の光が戻った拓斗は、ようやくその顔を上げる。

 アトゥの願いが通じたのだ。

 なお現在進行形で彼女は拓斗の頭を撫でている。


「うう、アトゥ……」


「な、何があったのですか拓斗さま? どうかこのアトゥにお聞かせください」


 どこか恍惚とした表情で拓斗の頭をなでるアトゥ。

 そんな彼女に向けて、拓斗はここまで落ち込む理由をようやく語り始めるのであった。


 ………

 ……

 …


「つまり拓斗さまは先日の宣言でちょっと張り切りすぎた……と」


「うん。いや、正直状況があんまりで切れたってのもあるんだけど、それにしても調子に乗りすぎたなぁって……」


 拓斗がアトゥに語った内容は先日の宣言に関するものだった。

 全ての配下が恐怖を抱き、イラ=タクトが終末をもたらす破滅の王であると再認識したあの日の出来事。

 その全てをやり過ぎだと表したのだ。

 確かにあの日以降、ダークエルフたちの中にはどこかギクシャクしたものが感じられる。

 英雄であるアトゥですら先ほどまでは緊張に縛られていたのだ。

 いくら国家の要人とは言え、所詮人の範疇に位置するモルタール老らダークエルフには辛いものがあろう。

 目の前の拓斗がアトゥが知るいつもの彼であるのなら、あの日の態度は過ちであったと判断するのは当然とも言えた。


「はぁ……まさかあのタイミングであんなセリフを堂々と言い出すなんて。両手を広げて世界征服を宣言だなんて、あまりも、あまりにもアレだ……」


 その先を言おうとし、またもや膝に顔を埋める拓斗。

 あーっとか、うーっとか叫んでいる辺りどうやら酷い自己嫌悪に陥っているらしい。


「おー、前に王様が言ってた。ちゅ、ちゅ、ちゅーぼー?」


「厨房? ああ、中二病ですよお姉ちゃんさん。その病気になった人は黒歴史という名の嫌な思い出を沢山作る恐ろしい病気なのです」


「王様かわいそう」


「ふぐぅぅっ!!」


「やめなさい二人とも! 拓斗さまの心臓に負担がかかっています!」


 無邪気な双子が拓斗にとどめを刺し、慌ててアトゥが助け船を出す。

 このままではまた拓斗が自分の世界に引きこもってしまいかねない。

 とはいえ、拓斗が落ち込んでいる理由が分かったことでアトゥは大きな安堵感を抱く。


「けれども私は安心しました。その……先日の拓斗さまは少々、その――」


「怖かった?」


 気がつけば、拓斗が顔を上げてじぃっとアトゥの方へと視線を向けていた。

 先ほどとは打って変わった様子に一瞬戸惑ったアトゥだったが、質問の内容に答える必要があると思い控えめに頷く。


「は、はい……」


 どのような反応をされるのだろうか?

 少し不安を抱いた彼女に返ってきたのは、いつも通りの柔らかな微笑みだった。


「うん。そうだよね、怖かったよね。ごめんねアトゥ。それに……さっきも謝ったけど二人もごめんね。怖い王様だと意見とかも言いづらいよね」


 先ほどまでの落ち込みが嘘だったかのようにスラスラと喋り始める拓斗。

 どうやらアトゥがここに来る前に姉妹ともいろいろ話をしていたようだ。

 イスラの件は互いに心のしこりとなっている可能性がある。その点においても姉妹と納得ゆくまで話が出来ていたことは今後のマイノグーラの運営においても重要な意味を持つだろうとアトゥは考えた。

 なぜなら……この二人はもうすでに英雄なのだから。


「はいです。今の王様の方がメアリーは好きなのです。お姉ちゃんさんもそうですよね?」

「うん。中二病じゃない王様の方がすきー」


「ふぐぅぅっ!!」


「おやめなさい!!」


 だが新たな英雄は少々おてんばなようだった。

 無論二人に悪意はない。だが無邪気さが時として人を傷つけるということをこの二人はまだよく理解していなかった。

 今度は三人で拓斗をよしよししないといけないのだろうか? 不安半分、期待半分で主の様子を窺っていたアトゥだったが、拓斗は何かの区切りが付いたかのように立ち上がった。


「ただまぁ。本気を出すことは違いないけどね。世界征服は……嘘じゃない。やると決めたからには、あらゆる手段で達成してみせるさ」


 そう言い放つ拓斗はどこか不思議なカリスマを感じさせ、自然と傅きたくなるような神聖ささえ感じられた。


「二人にも約束したしね。一緒にがんばろうって」


「……もう誰も死なせない」

「キャリーたちは、もう守られるだけの存在じゃないのです」


 姉妹もまた、その内に強い決意を抱いていた。

 あの日、アトゥが見た狂いに狂った双子の少女。その片鱗は決して失われていない。

 まだ彼女たちの心の中で燻り叫び続けているのだ。

 そしてその叫びは、今後明確な方向性を持って世界に向けられる。


 あの日、マイノグーラという国家は確かに生まれ変わったのだ。


「拓斗さま……」


 陶然とした表情でアトゥが呟く。

 自らの主の偉大さを再度確信した配下の表情だ。

 それは恋する乙女のようにも、神を前にした狂信者のようにも見える。


 やがてアトゥは静かに臣下の礼をとると、どこか憑き物が落ちたような表情でいつかのセリフを再度口にする。


「我が名は『汚泥のアトゥ』。世界を滅ぼす泥の落とし子。これより我が身、我が心は貴方様の物。何処までも一緒に堕ちましょう。我が王よ」


「――うん、よろしく。アトゥ」


 拓斗とアトゥ、二人にとって何千回と繰り返され、けれどもとても強い意味を持つそのセリフ。

 二人の絆を再確認するかのように、その視線が交わる。

 やがてどちらともなく互いの手を取り自然と距離が縮まり……。


「拓斗さま……」

「アトゥ……」



「ギギギギェェェェェ!!」


 タイミングを見計らったかのように、闖入者が現れた。

 ガサガサとその四肢を忙しなく動かしながら彼らの前にやってきたその配下に、アトゥはあからさまに不快感を顔に出した。


「なんですか虫。いまとってもいいところでしたのに……貴方は私と拓斗さまの邪魔をしないと死んでしまう病にでもかかっているのですか?」


「というかメアリーたちもいたのに、完全に蚊帳の外だったのです」

「邪魔しちゃだめー」


「ギギェ!」


「ああ、終わったんだ。ご苦労様、足長蟲くん」


 現れたのは足長蟲。

 マイノグーラにおける斥候ユニットで、その移動力の高さと生産コストの安さから斥候という役柄以上に酷使されているある意味で人気な配下である。

 相変わらず表情が分からぬ様子で口からダラダラと涎をこぼす彼or彼女は、アトゥの事など知ったことかとばかりに無視して拓斗の前へと向かう。

 当の拓斗が何か確認するかのように質問を行っていることから、何らかの命令に対する報告のようだ。

 釈然としない気持ちを抱きながらそのやりとりを憮然とした表情で眺めていたアトゥは、ふと足長蟲の背中に大きな籠がくくりつけられていることに気づく。


「拓斗さま? その虫が背負っている籠は何でしょうか? そういえばここ数日、かなり足長蟲を量産されていたと記憶しておりますが……」


 拓斗が貴重な国家の備蓄を使って足長蟲を生産していたことはアトゥも覚えている。

 なけなしの魔力を使って緊急生産までしていたことから急ぎの任務があることも理解出来た。

 だが当初は国家防衛の為の安価な補充要員と考えていたそれは、違う目的で生み出されたものらしかった。


 アトゥが拓斗に質問し、拓斗がその質問に答えようと口を開きかけた時だった。

 姉のメアリアが何かを見つけたのか、足長蟲の頭の辺りでごそごそとやったかと思うと拓斗に向けて金色に輝くコインを差し出した。


「王様。これー」


「……ん? ああ、身体にくっついていたのかな。足長蟲くん、一応大事なお金だから今度から気をつけてね」


「ギギギェ!!」


「うん。よろしい」


 拓斗の手の中で光るソレは、アトゥの知識が確かならブレイブクエスタスの金貨だ。

 かの世界で流通している貨幣は、RPGのシステムとして魔物を倒すと一定量排出される。

 魔王軍との戦いは短期間ながらも膨大なもので、倒した敵の数もさることながらその質に由来した金貨が多数輩出されている。

 今頃戦場となったドラゴンタン周辺やマイノグーラ支配地域の南部ではまさしく金貨の山が連なっていることだろう。

 その一枚がここにある。

 アトゥは拓斗と無数の戦いを共にしその考えをある程度推察出来るとはいえ所詮は主の手足となって動く駒である。

 自分の能力をはるかに超える知恵を発揮されてはどうにもならない。

 いよいよ持って混乱してきたアトゥは縋るような瞳で拓斗を見つめる。


「拓斗さま? 一体何を……そろそろ教えて頂かないと、私も何が何やら分かりません」


「はは、ごめんごめん。そうだね、その点についても説明がまだだったね」


 少し申し訳なさそうに笑うと、ピンと指で金貨をはじいて見せる拓斗。

 空中でくるくると回ったそれは拓斗の頭上で小さく弧を描くと、待ち受ける手のひらにすっぽりと収まることなく……地面に落ちた。


「「「…………」」」


「まぁ……言葉で説明するよりも見るのが早いか。よし、街の中心まで行くよ。二人もおいで」


「分かりましたです」

「はーいっ」


 静かに金貨を拾い、まるで何事も無かったかのように会話を繋げる拓斗。

 流石のアトゥも姉妹も突っ込みを入れることはしない。

 またぞろ落ち込まれても正直面倒だからだ。


「ほら、アトゥも早く。おいてっちゃうよ?」


「あっ! お待ちくださいませ、ただいま!」


 拓斗の声に正気になったアトゥは慌てて小走りでついていく。

 ほっと胸をなで下ろし、今までと変わらぬその関係にほのかな喜びを感じるアトゥ。

 当初抱いていた嫌な緊迫感はどこかへ消えさり、ただ王の為に尽くすという強い決意だけが残っていた。

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