第十五話:激突(1)

 聖王国クオリアより出立した聖騎士ローニアスとヴェルデル。

 二人は首尾よく契約することが出来た五十名ほどの傭兵団を率いて大呪界へと向かっていた。

 この世界には傭兵や冒険者という存在がいる。

 未だ大陸の全てが調査されておらず、魔獣や野獣などの危険生物が数多く跋扈するイドラギィア大陸。

 必然的に戦いを生業とする者たちの需要は増え、官民問わず様々な場面で重宝されている。

 今回彼らに同行したのもそのような傭兵の一団だ。

 戦時よりもむしろ魔獣退治や国土拡張時の先行調査などで生計を立ててきた彼らは、今回の調査にうってつけだった。

 こうして順調にその行程を消化していく一同。だが問題は当然のように発生する。

 聖騎士ローニアスの人脈と調整能力の高さに当初は満足していた上級聖騎士ヴェルデルだったが、森への行軍が進むに連れてその機嫌が斜めになってゆくのだ。


「あ~。ダルい。なんで俺がこんな任につかないとだめなんだ? ったく、帰りてぇ。これなら中央でお偉方の糞つまらん説法聞いていたほうが何百倍もマシだったわ」


「北方州騒乱のせいでしょう。本来ならばもう少し大規模な調査団が編成されてもおかしくはないはず。にもかかわらずこの規模ということは、それだけクオリアに余裕がないということの証でもあります」


「あー、まぁそういうことにしておくわ」


 ふらふらと手を振りながら心底気だるそうに歩くヴェルデル。

 重厚な騎士鎧を身に着けながらもその足取りが未だ確かなのはやはり聖騎士といったところか。

 たゆまぬ鍛錬とその才能が生み出す常人を逸した力。

 一人で兵士百人と同じ働きをすると言われる騎士の力をまざまざと眼にしながら、彼らに同行していた傭兵団の団長が話題に加わってきた。


「北方州騒乱ですか、あっしらとは関係ない話ですが、向こうは大変みたいですねぇ……」


「ん? お前たちは行かないのか? かなりの給金が出るらしいぞ……?」


「金払いが良くても命あっての物種、まぁ相当ヤバいって話ですし、俺たちみたいな半端もんじゃあ流石に厳しいですわ」


「まぁそうだよな。傭兵はただでさえこき使われる立場なんだ、その位危機意識は高くねぇとやってらんねぇわな」


「それに……北方州では魔女が出るらしいですからねぇ」


 言葉遣いは互いに粗雑。気は合うようだがもはやどちらが騎士でどちらが傭兵かわからない台詞の応酬にため息を吐くローニアス。だがその言葉の中にふと聞き慣れない単語を見つけ首をかしげる。

 ――魔女。

 確かに傭兵団長の男がそう言った。彼が初めて聞く言葉である。

 何か自分の知らないことが北方州で起こっているのだろうか? 興味が湧いた彼は会話の腰を折ることを承知で話に割って入る


「魔女? 団長、それはどういう話なのだ? 私は聞いたことないんだが……」


「あくまでも噂なんですがぁ……」


「おいやめろ! ただでさえダルいのにそんな辛気臭い話をするんじゃねぇ!」


「す、すいやせん……」


「さっさと調査を終わらせてこんなところからはおさらばしたいんだよ」


 突然、ヴェルデルが激高した。

 この気分屋の男がその時々によってあれこれまわりを振り回すことは常だったが、それにしてもあからさま過ぎる。

 ローニアスはヴェルデルがあえて遮った魔女という言葉に不審なものを感じるが、無理に聞いても答えが返ってこないことは分かりきっていたので口を閉ざす。


「ま、まぁまぁ聖騎士の旦那。幸い大呪界の近くには街がありますから、そこで毎晩酒飲めるってことで良しとしましょうや。野宿にならないだけマシって話でさぁ」


「ふんっ!」


「ささ、こんな辛気臭い依頼はさっさと終えて、あとは適当にやりやしょう!」


 どうやら団長のおべっかによってヴェルデルの癇癪も収まるらしい。

 だが肝心の魔女については分からずじまいだ。この場で団長に問い直すことも不可能。

 もやもやとしたものを感じながら、ローニアスは場の雰囲気に流され続ける。


「ローニアスの旦那もそれでよろしいですね?」


「あ、ああ……そうだな」


 魔女とはどういう存在なのだろうか?

 もしかしたら聖騎士ヴェルデルは何か知っているのであろうか?

 聖騎士はその序列によって開示される情報に大きな隔たりがある。

 下級とは違って上級であるヴェルデルなら中央から極秘の話を聞かされていてもおかしくはないが……。


「おっと! そうこうしている内に大呪界が見えてきやしたよ。クオリアから一番近い場所ですが、とりあえずこの辺りから調査してみやしょうか!」


「あれが大呪界……か」


 団長の言うとおり、目の前に暗く陰鬱いんうつとした森が見えてきた。

 事前に確認した地図によるとこの大呪界は広大な森であり、その全てを調査することは時間的にも人員的にも到底叶わない。

 だが簡易の調査なら十分行える。そして何らかの異変があれば改めて大規模な調査団を送るのだ。

 その為の聖騎士派兵であったし、ローニアスもそう認識している。

 簡単に終わる任務だ。だがどうしたことか……見た目はただの巨大な森であったが、それが何か不気味な化物たちの巣窟であるかのような錯覚に陥る。

 不気味な感覚を抱きながら、ローニアスは目の前の森をじぃっと見つめ続けた。


 ………

 ……

 …


「全員止まれ!」


 聖騎士ヴェルデルの号令によって全員歩みを止める。

 大呪界が眼前に広がり、まさに今から調査を開始しようと相談していた矢先だった。

 あれやこれやと打ち合わせをしながら進入に良さそうな森の入り口を探していた一同は、ヴェルデルの言葉で一斉にその歩みを止めた。

 何があるのだろうか?

 ヴェルデルの視線が森の中へ向かっていることに気づいた全員が彼の視線の先を追うように目を向ける。

 すると、そこから人影が一つ静かに向かってくるのが見えた。


「あれは……?」


 それは一人の少女であった。

 不気味ささえ感じる白い肌、ウェーブのかかったくすんだ灰の髪。

 身なりは麻でできたボロボロの服。

 紅い瞳は異質さを感じさせるもので、その状況あいまって非常に奇異な印象を受ける。


「なんだこんなところで、珍しいな。どう思うローニアス」


「以前エル=ナー精霊契約連合からダークエルフが放逐されたとの話を聞きました。南大陸に向かったとの情報がありましたので、その生き残りでは?」


「ふんっ、生き残り……ねぇ」


 あからさまに不審げな瞳を向けながら吐き捨てるヴェルデル。

 この任における責任者はヴェルデルだ。ローニアスも傭兵団もどうするべきか戸惑いつつも彼に全てを任せることにする。

 腕を組んでじぃっと少女を睨みつけていたヴェルデル。

 やがて彼は少女がある程度の距離まで近づいてきたところで大声で誰何すいかを始める。


「おい! 娘! 貴様何者だ? 俺たちはこの森に用があるんだが、どうしてこの大呪界から出てきた!?」


「……ああ、クオリアの聖騎士さまとお見受けします。私はこの森に逃げ延びたダークエルフの一人。此度はどのような御用向きでこちらへとおいでになったのでしょうか」


 一言目は至って普通。

 凛とした声音は見た目から感じる印象とは裏腹に愛らしいもので、その違和感が彼に不信感を抱かせる。

 ヴェルデルは静かに問いを重ねる。言葉だけを聞けば相変わらずであったが、その粗暴な雰囲気はなりを潜め、今は刺すような鋭い雰囲気を放っていた。


「ここに来た理由は答えられん。重要機密だ。まずは俺の質問に答えろ小娘。なんで森から出てきた?」


「…………故郷を追われし私たちに帰る場所はありません。呪われた土地といえど、人が寄りつかないこの場所にあっては唯一の安寧の地となるのです」


「呪われた土地にわざわざ住むとは、不気味なことだな。……まぁいい、俺たちはお前が言うとおりクオリアの聖騎士だ。森の中へ用事がある。入るが構わんな?」


「なりません。どうか森へ立ち入ることはお止めくださいませ聖騎士さま」


「君、これは神に認められし正当なる行為でもある。拒否の言葉を唱えることは感心しないな……」


「おい、俺が喋ってんだよ、静かにしてろローニアス!」


「……っ! 失礼しました聖騎士ヴェルデルさま」


 ヴェルデルの苛烈な叱咤に思わずビクリと身を震わせたローニアス。

 確かに横から口を挟んだ自分に責はあるのだが、はたしてこれほどの叱責を受ける必要はあるのだろうか?

 ともあれこの場は彼と彼女が話している。

 かの男の聖職者らしからぬ態度は後ほど中央にしっかりと報告することを決意したローニアスは次は余計な口を挟まぬようにと静かにことの成り行きを見守る。


 ちらりと少女がローニアスに視線を向けた。次いで傭兵団に。

 赤い瞳が不気味に彼らを見渡す。

 果たして本当にダークエルフなのだろうか?

 視線を受けた彼ら誰しもが疑問を持つ中、少女は暫し沈黙を守る。

 やがてローニアスがこれ以上話題に入ってこないことを確認したのか、少女は再度ヴェルデルに視線を向けると感情の篭もっていない声音でその疑問に答える。


「同じく逃れてきたダークエルフたちが怯えるのです。皆辛く苦しい旅路を乗り越え、ようやく安住の地を得たばかりです。どうか、どうかお慈悲を頂けますよう願います……」


「俺たちも仕事なんだよ。出来ればこのまま帰りたいが、上からの命令とあればそうもいかねぇ……」


「そこをなんとかご理解頂き、森への立ち入りを諦めて頂きたいのです」


 少女の言葉は丁寧で、礼を尽くしたものである。

 その違和感ある様相を除けば、至って普通の嘆願とも言えた。

 だがこの森は全てが呪われし大呪界であり、目の前の少女は明らかにこの場に似つかわしくない異質な存在だ。

 彼女が拒むこの先に何かが存在していると言っても過言ではない。

 例えばそう――聖女が神託を下した災厄が。


「森には何がある?」


「ただ静かな平和だけがあります。何も、あなた方を脅かすものはございません。なぜこのようなちっぽけで薄暗い森にそこまでご執心されるのでしょうか?」


「ちっ! 俺たちはこの地に災厄ありとの神託を得てやってきたんだよ。はい分かりましたって言って帰ることはできねぇ……」


「ヴェ、ヴェルデルさま! 今回の命は極秘! 何故神託をそのダークエルフに伝えたのですか!?」


「うっせぇな! 黙ってろって言っただろローニアス! 言わなきゃならん時もあんだよ!」


 思わず言葉を発したローニアスは再度の激高によって口を閉ざす。

 国の極秘事項を許可されない者に開示する。本来であれば背任の咎で審議にかけられるほどの罪ではあったが、ヴェルデルはそれを承知でなお交渉の打開をはかったのかも知れない。

 事実少女はこの時初めてその無機質な表情に驚きの色を浮かべ、口元に手を当てて困惑する仕草を見せたのだ。


「聖女さまによる神託……でございますか。聖騎士さまはその災厄を恐れていると……。ですがこの地にはあなた方に危害を加えようと考えるものはおりません」


「何をもってその証明とする?」


「だた言葉をもって証明する他ありません」


「森への立ち入りは? ほんの少しでいい。それで俺たちも納得する」


「ご遠慮願います」


「災厄が俺たちの国とその民へ降りかかる可能性は?」


「ございません。むしろ恐れるのは我々でございます」


「お前、ガキのくせに雄弁だな。交渉慣れしているし、度胸がありすぎる」


「重ねて、我々は決してあなた方に危害を加える者ではありません」


 堂々巡りである。

 自分の正体は明かさず、ただ平穏を望むために去ってくれと懇願する。

 この場にいる全ての人間が、すでに少女がただのダークエルフでないことを察していた。

 否、ダークエルフなどという存在ではないことを。

 会話を重ねれば重ねる程に増していく違和感。そして不気味なほど漂ってくる邪悪な気配。

 純粋な魔の香りをこれでもかと漂わせる少女が何を考えこの森への立ち入りを拒んでいるのか、それを知る術はヴェルデルたちにはない。

 少女も決してそれを言うつもりはないだろう。

 だからヴェルデルは決断し、この邂逅を終わらせる為の最後の質問をした。


「それは神に誓えるものか?」


「……我が神に誓いましょう」


 人ではない少女が神に誓った。

 それが果たして自分たちの信仰する神であるのか、それともまた別の何かであるのか、ヴェルデルは分からない。

 だが彼はしばらくの黙想をし、やがて瞳を開いて自らの同行者に告げる。


「帰るぞ」


「なっ!!」


 思ってもいなかった言葉にローニアスは驚愕の表情でヴェルデルを見返した。

 相手は明らかに邪悪な存在だ。

 神に仇なす者を前にして聖騎士――それも上級に列席される聖騎士ヴェルデルがそのような言葉を言うなどとは思いもよらなかったのだ。

 これではまるで邪悪に屈し、臆したようではないか。

 信心深く冷静沈着と評判高いローニアスもこれには流石に声を荒らげる。


「何をお考えですか聖騎士ヴェルデルさま! その者は明らかに異質な雰囲気を纏っております! 聖騎士たる貴方が、かの者の邪気を察せられぬとは何事か!?」


「邪気とか知らねぇよ。俺は帰るんだよ。アイツは平和に暮らしたいって言って、俺は納得した。それで終わりだろうが。くっそダルい、腹が減った」


 ヴェルデルはすでに決意を固めてしまったようで、だらりとまたここに来る前と同じ態度で背を伸ばし体のこりをほぐしている。

 無論傭兵団とともに困惑の最中にいるローニアスは到底納得行かない様子で、ヴェルデルに詰め寄った。


「邪悪なる存在を見逃せと言うのですか!?」


「見逃すとかそういう話じゃねぇんだよ。何も問題がない、それが調査結果だ」


「あの者が我らを欺いていたとしたら! 我が聖王国に災禍をもたらすとしたら、どう責任を取るというのです!」


「恐れに視線を合わせるんじゃねぇよローニアス。俺たちの教義は信じる事から始まるんだろうが。聖書を読み返せ不信心者が」


 ローニアスの言葉にも梨の礫であった。

 ヴェルデルは既に決意を固めたようで、テコでも動かない。

 ローニアスも彼の性格をこの旅で嫌と言うほど思い知っていたので、言葉での説得は不可能であると諦める。

 よって彼は万が一の為にと隠しておいた手札を切った。


「――貴方には無辜の少女を拐かし、淫行を及ぼした嫌疑があります。まさかあの邪悪なる少女に誑かされたのでは?」


 ヴェルデルの眉間に皺がより、途端に不機嫌が顕わになった。


「馬鹿かお前? 嫌疑だぞ? そもそもその話は今回関係ねぇ。自分に都合のいい形で憶測から話を作り上げるな。ぶん殴るぞ」


 この男には犯罪行為の疑いがある。今までの騎士らしからぬ行動とその発言、なにより邪悪を前にして臆すその態度から確信に至ったローニアスは、自らのうちにある正義の導くまま彼に引導を渡す。


「上級聖騎士ヴェルデル。残念ですが貴方を任務放棄の咎でこの任より外します。以後、調査はこの私聖騎士ローニアスが取りしきらせて頂きます」


「は? おいふざけんのも大概にしろよ! どんだけ上から目線なんだよお前はよ。そんなんだから下級なんだぞ? 分かってんのか?」


「聖騎士ローニアスさま。どうか短慮はおやめください。争いは何も生み出しません。我々は言葉を持っております」


 ヴェルデルはおろか、じっと推移を見守っていた少女まで諌めるような物言いをする。

 それが良くなかった。

 ローニアスの怒りと正義に火をつけるには、十分すぎる行いであった。


「黙れ邪悪なる者よ!」


 ローニアスが抜剣し、剣を少女に突きつける。

 場の雰囲気が明らかに変わった。

 ヴェルデルとローニアスの決裂は確かなものとなり、先程まで終わろうとしていた問題が膨れあがってくる。


「おい! 傭兵! お前らもこいつを止めろ!」


「申し訳ねぇヴェルデルさま。俺たちぁ聖騎士ローニアスさまに雇われていますので、いくら上司とは言え貴方の命令は聞けねぇんですよ」


「くそっ!」


 傭兵団との交渉や事務処理を嫌ったヴェルデルがローニアスに全てを任せたツケが来た。

 もはや彼の意見に同意する者はいない。唯一少女がそうであったが、いままさに疑念を向けられている彼女にできる事はないだろう。


「聖騎士ヴェルデルさまの件は後でいい。まずはお前だ。その邪悪なる気配。そして呪われし森にいた理由、包み隠さず明らかにしてもらうぞ! 神の前で懺悔させるため捉えて王都にて尋問を行う。おい傭兵! この者を縛り上げてくれ!」


 ピクリと少女が反応する。

 困った表情で静かに首を振り、拒否の態度を表す。

 もっともその願いはローニアスには届かない。いや、はじめから彼は少女の言葉を聞くつもりなどなかったのかもしれない。


 傭兵団の団長が視線でローニアスに確認する。

 すでに彼らは抜剣し、各々が戦闘態勢に入っていた。

 見た目ただの少女とは言え、その雰囲気からすでに相手が人間でないことは明らかだ。

 抵抗された場合は間違いなく戦闘になるだろう。

 約五十の傭兵団と一人の少女。戦力としては圧倒的。

 だが相手は魔の者、何が起こるか分からない。


「かまわん、やってくれ! 抵抗するなら多少乱暴になってもしかたない。気をつけるんだぞ!」


「おい! やめろ! 無抵抗の者に手を出すな!」


 ヴェルデルが叫ぶ。

 だがすでにローニアスによりその権限を剥奪されたこの男に付き従うものはなく、その言葉は虚しく虚空に響く。

 傭兵たちが少女の周りをぐるりと囲み、その包囲を狭めていく。

 そして……、


「はぁ、失敗ですか」


 少女は小さな溜め息をついた。


「ちぃっ! くそがっ!!」


「えっ!?」


 ローニアスは己の身に起こったことが理解できなかった。

 ドンという衝撃、そして反転する視界。

 目に映る一面の青空をもって初めて、彼は自らが転倒したのだと気づいた。


「ローニアス! 大丈夫か!?」


「え、ええ……しかし、何が?」


「何がじゃねぇよ! てめぇが言ったんだろうが! 『邪悪なる者』ってよ! なもん見たら分かるだろうがこの馬鹿がっ! 早く立て!」


 ビュンビュンと、彼の頭上を不気味な触手が蠢いているのが視界に入った。

 ツルリとした表皮を持ち、ヤリのような先端を持つ奇妙な物体。

 ビチビチと動くそれの表面には一筋の切り傷。

 いつの間にか抜剣したヴェルデルの剣先が紫に濡れている。

 ローニアスは自らが認識できぬほどの攻防でヴェルデルによって突き飛ばされ、その命を救われたことを理解し慌てて身体を起こす。


「折角何事も上手くいっていたのに、人生とはままならぬものですね」


 はぁと少女が地面に目を向け再度大きなため息を吐き、ぐるりとその首を持ち上げこちらを睨んだ。


「おい! 傭兵! 誰でもいい! この事を本国に知らせろ! ――魔女だ! 魔女が出た!」


「す、すまねぇ聖騎士さま……伝令役を狙われた」


 背後から情けない団長の声が響き、振り返ると同時に事態を察する。

 そこにあった光景は、地面から突き出た触手によって馬ごと貫かれている伝令役だ。

 ビクリビクリと痙攣しながら口から大量の血を吐いた名も知らぬ傭兵の男は、やがて触手が地面へと戻ったと同時に鈍い音を立てながら地面に倒れ伏した。

 よくよく見れば伝令役はおろか、荷馬車に用いていた馬も同じ有様だった。

 今回の行程では大量に必要となる水や飼い葉の用意を嫌って最低限しか馬を調達していない。

 既に用意した馬は全滅している様子で、この事変を伝えるには自らの足で行わなければならないだろう。

 そして逃走や撤退をかの少女が許してくれるとも思えなかった。

 事実役目を終えた触手が新たな獲物を探すかのように彼女の背後でゆらゆらと揺れている。


「ちぃっ! 狙いが正確だなおい!」


「ほら、お目当ての化け物ですよ? 邪悪の顕現ですよ? あなた方が望んだ、神にあだなす闇の存在が現れましたよ」


「ヴェ、ヴェルデルさま……」


「狼狽えるんじゃねぇローニアス。やるしかねぇんだよ……戦闘態勢! 一切気を抜くんじゃねぇぞ! 命をかけろ!」


 ヴェルデルの鼓舞で全員の瞳に闘志の火が灯る。

 皆が皆この場を切り抜けぬことには明日がないことを理解し、覚悟を決めたのだ。


「ああ、立ち向かうのですね聖職者。いらぬ詮索と正義感で取り返しのつかない選択をしてしまった愚か者は、この災厄にどう立ち向かわれるのでしょうか?」


 どろりと麻でできた彼女の衣装が溶け始める。

 まるで汚泥があふれるかのような、澱みきった悪意がその身体からこぼれ落ちるかのような現象が少女を中心に発生し、やがてその衣装を形作っていく。

 闇を内包した黒のローブ。ねじれを含んだ歪な装飾品。

 くすんだ灰の髪に、地獄そのものかと思われるような吐き気を催す瞳。

 彼女の背から幾つもの触手が生え、獲物を狙うかのようにゆらゆらと揺れる。

 紅い瞳が彼らを捉え、ソレは嗤った。



「――さぁ、祈れ」


「「神よ! 我に邪悪を打ち倒す力を!」」



 ヴェルデルとローニアスが同時に神の奇跡を身に降ろす。

 傭兵団が弓に矢をつがえ、少女に狙いを定める。

 少女はニィと凄惨な笑みを浮かべ、そして一歩を踏み出す。


 マイノグーラの英雄たる汚泥のアトゥ。

 破滅の王が全幅の信頼を寄せる彼女は、初めてこの世界でその猛威を振るおうとしていた。

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