第5話
空がひび割れ、視界はぐにゃぐにゃと歪んでいた。
目の前に並んでいるのは切断された人の首や、その生き血、牛や犬のような動物の生首だ。嗅覚が効いていればきっと
黒くてどろどろとしたモヤのようなものが体――そう呼んでいいのなら、だが――をねじる。モヤの中に浮かんでいるのは獣のような目と鼻と口だ。
血塗れだった弥沙夜はすぐに逃げ出した。逃げ出して――。
あれは、きっと夢だったはずだ。三國弥沙夜は布団の中でうなだれながらそう考えていた。
何かのバグか、そうでなければ全てを失って自暴自棄になったせいで見た幻覚だ。
いつまで考え続けていても埒があかない。布団に潜ったまま左耳のARフォンに触れて時刻を表示させる。空腹を感じると思っていたが、それもそのはずだ。既に夕刻に差し掛かっていた。
学校に行っていないから何時に起きようと構いはしないが、それでも腹は空く。食べねばいずれ死んでしまうだろう。
死んでも、いいのだが。しかし、まだそこまでの気力も無かった。起きよう。そう思って、布団を跳ね除けた。
「ようやくお目覚めか」
頭上から声がした。顔を上げると、灰色のコート姿の白髪の男が立っていた。
「誰!?」
弥沙夜はベッドに座り込んだまま後退する。背後は壁だからそう大きくは下がれない。現実世界は不便だ。
「警察を呼ぶぞ!」
ARフォンの通話アプリを起動して警察にかけようとするが、操作がおぼつかない。そもそも警察は110番で合っていただろうか。それとも119番だったろうか。
「アマテラスオンラインのワールド内でランク19位の三國弥沙夜だな」
灰色のコートの男は懐に手を忍ばせる。刃物か、それとも拳銃でも取り出すつもりか。バーチャル世界でも変に名前が知られるとこんなことがあるのか。弥沙夜は固唾を飲み、怯えた顔で男を見上げた。
「サインを――」
「サイン……?」
「サインをもらってもいいですか」
男がおずおずと取り出したのは四角いサイン色紙だった。
「貴様のファンなんだが」
「はい?」
「サインペンもある」
黒いコートの男はペンを差し出す。
なんとなく毒気を抜かれた弥沙夜は渋々そのペンを受け取った。キャップを取ると、きゅぽんと間の抜けた音がした。
「サインなんて作ってないし、リアルで字を書くの久しぶりだから超汚いと思うけど……」
「構わん」
「そう。じゃあ、いいけど……」
弥沙夜は眉間に皺を寄せながら慎重にペンを走らせる。
「君のアマテラスオンラインの腕前は素晴らしい。僕もプレイしているが、あんなに見事な
「褒めてもらえるのはありがたいけど、こういうのは二度とやめてよ」
探偵は少女の手元を見つめながら口を開いた。
「三國弥沙夜。君、学校に行っていないだけでなく、しばらくアマテラスオンラインのワールドにもログインしていないだろう。なぜだ?」
サインを書く手が止まった。
「あれほど熱心にやっていたゲームだ。飽きたというわけでもあるまい」
少女がポツリと呟いた。
「あんな
探偵が眉根を寄せる。
「これが呪いだって言うなら、そうなんだと思う」
「何だと?」
少女は書きかけのサイン色紙を探偵の胸に押し付けた。
「というか、あなた誰? どこから入ったわけ!?」
探偵は二、三歩後ずさりながら答える。
「僕か。僕は探偵の幽霊だ。入ったのは堂々と窓から」
探偵が窓を指差す。無惨だった。鍵が物の見事に破壊し尽くされている。
「犯罪じゃん! 修理代、弁償しろよな!!」
「心配するな。無事に事件が解決したら依頼料から出すとも」
「事件なんか知るか! さっさと帰れ!」
弥沙夜は男の体を窓枠に押し付ける。
「やめろ。落ちる」
男は自分から窓枠に身を乗り出す。
「最後に一つだけ質問だ。
少女は何も答えず、驚いたような顔で男を見ていた。
「話したのだな。サインありがとう。部屋に飾ることにするよ」
探偵は窓から家の外へと飛び出した。少女は窓際からその後ろ姿をじっと見つめていた。
「……あれは狐なんかじゃないよ」
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