第4話

 柳崎祀莉りゅうざきまつりは自室で目を覚ました。ARフォンを左耳に付けてから、鳴りっぱなしになっている目覚ましのアラームを止める。事態は何も好転していないが、今日は月曜。学校にログインする日だ。


 リビングに出てトーストとミルクで簡単な朝食を済ます。両親はもう働きに出ているため、祀莉まつりはARで目の前にチャット画面や動画投稿サイトを表示しながらトーストをかじった。


 歯を磨いて顔を洗い、自室に戻って私服に着替える。友人の中にはVRなのだから身だしなみを整える必要はないだろうと言う人もいるが、祀莉はこうしてしっかり着替えないと授業に身が入らなかった。


 学校に行く前に一度部屋の中を見回す。ベッドに勉強机とクローゼット。それから、いくつかの小物類。


 勉強机の上には学校から貸与たいよされたVRのコンソールとバイザー、データグローブが置かれている。あとは、寝る時以外はほとんど左耳に付けたままにしているARフォン。これらは、祀莉の持ち物の中でも最も高価なものだ。


 その気になれば平日を家から出ずに過ごすこともできるから、現代の女子高生の持ち物といえばこの程度だった。


 あとはいくらかの私服やアクセサリー。全てデータ化してしまってほとんど服を持っていないという友人もいるが、祀莉は少しくらい実物を手元に置いておかないと落ち着かなかった。


 視界の端に表示されている時計を確認する。8時20分。授業が始まるまであと10分。ギリギリだが、ロッカーに寄って教室に向かうだけなら十分に間に合うだろう。


 勉強机の前に立って、ARフォンを外すと、先ほどまで常に視界の端にあった時計が消える。ARフォンとVRのバイザーは同期されているから、VRを使っている間でもかかってきた電話や届いたメールを見逃すことはない。


 だが、ARにもVRにも繋がっていないこの瞬間はいつも不安になる。ほんの数十秒の間なのだが。


 なめらかで伸縮性のある素材でできたデータグローブを両手にはめ、指を開閉して動きを確かめる。ゴーグル型のVRバイザーをかぶると、外からの光が遮断しゃだんされて真っ暗闇に包まれた。両耳も内蔵ヘッドホンによって覆われる。


 光と音をさえぎられた中、手さぐりでVRバイザーの左側にある電源スイッチを押す。勉強机の上に置かれたままになっている薄く平べったいVRのコンソールが小さな音を立てて起動する。


 VRバイザーが網膜と声紋を、データグローブが指紋を読み取り、IDの認証が完了するとログインシークエンスが始まる。最初の起動時に一度パスワードを入力しているから、あとはこの自動認証で本人確認を済ませてくれる。


 目の前にはすぐに青い画面が広がり、バーチャルディスプレイにテキストが表示された。


『柳崎祀莉さん VR WORLDへようこそ!』


 三十万のワールドが用意されているVR WORLDの中でも学校があるワールドに行く時だけはユーザー名を本名にすることが義務付けられていた。


 それ以外にウェブ上で本名を公開する機会など皆無かいむだから妙に窮屈きゅうくつに感じる。青いログイン画面が消えると、祀莉は高校の三階の廊下にあるロッカーの前に立っていた。先週の金曜日にログアウトしたのと同じ場所だ。


 祀莉の通う第1331バーチャルスクールは三階建ての校舎で、一年生の教室は三階、二年生は二階、三年生は一階になっている。


 もし現実の世界だったら階段の上り下りが面倒だから早く進級したいな、などと感じたかもしれない。もっとも、VRの世界ではさして重要な問題ではなかった。


 いつも自分の階の自分のロッカーの前でログアウトし、ログインしてこの場所に戻って来る。ここ数カ月、校門をくぐって玄関から登校したことなど数えるほどしかない。


 ロッカーに触れると、カチリと小さな音がして扉が開く。指先にひんやりとした鉄の感触が伝わる。温度の変化が分かるのもデータグローブの効果だ。


 ロッカーの中には鏡が貼られている以外にはたいした飾りもなく、教科書や辞書が綺麗に並べられている。教科書を取ろうと手を伸ばすと、鏡に祀莉のアバターが映る。服装は私服からブレザーの制服に変わり、髪もセットされている。あー、と口を開くと八重歯が覗く。


 学校のあるワールドではユーザー名の表示以外にもいくつかのルールがあり、人間の姿で現実世界と同じ性別、同じ年齢のアバターしか使用できないと規定されている。


 他のワールドのように女神やヴァンパイア、ドラゴンなどの姿になることはできないのだ。ただ、容姿の制限はないため、中には現実の自分とはかけ離れた姿のアバターを使っている生徒もいる。


 しかし、祀莉のアバターは現実世界とほぼ変わらなかった。


 違いといえば、現実世界よりも5センチほど背が高いくらいだが、これは大した違いではない。


 体型も現実より少しほっそりとしているが、これも大した違いではない。


 鼻もわずかに高くなっているが、これも大した違いではないだろう。


 そういえばこの間、頬にニキビができたことに気付いてバーチャル世界からは完全に抹消したが、些細なことだ。


 VRでは中年男性が幼い少女のアバターを使っていることもあるし、このぐらいのアバターの変化なら可愛いものだろうと祀莉は思っていた。謙虚さの固まりだ。


 祀莉は謙虚さに満ち満ちた気持ちで授業の準備をする。ロッカーの中の教科書に触れると、消失してアイテム欄へと移動する。


 視界の端にあと五分で一時間目の授業が始まるという警告が表示され、自分にしか聞こえないアラームが鳴った。謙虚すぎるあまりに時間を使いすぎた。少し急いだ方が良さそうだ。


 祀莉は生身の手を軽く動かすことでアバターの身ぶりや動作をコントロールし、廊下を歩き出した。


 日本史の教室に向かって速足で歩く。顔見知りを見つけると手を振って朝の挨拶を交わした。


 バーチャルスクールでは現実の学校と違って、始業ギリギリに登校しても遅刻の心配がないことから祀莉のように授業が始まる間際にログインする生徒も多い。統計を取ったことはないが、そのはずだ。


 それにしては、教室に入るといつもほとんどの生徒が着席しているのが不思議だったが、深く考えたことはなかった。


 教室に入ろうとしたところで、嫌な相手と出くわす。モデルのようにスタイルが良く肌の白いアバターのクラスメイト。風見優かざみゆう。クラスのグループで中心になっている女子だ。


 友人の三國弥紗夜みくにみさやを目の敵にしていた中心人物でもある。


 彼女の斜め後ろにはこれまた均整きんせいの取れたプロポーションのアバターの少女たちが控えている。風見の取り巻きとか信者とかそういった類のものだ。


 風見はわざとらしく微笑む。


「三國さん、今日もログインしていないみたいですね」


 友人として登録された弥紗夜のアイコンは画面の端のフレンド欄に表示されており、祀莉がバーチャルワールドに入った時からずっとログオフ状態だ。わざわざ彼女に言われなくても分かることである。


 あなたには関係ないでしょう、と言いたくなったがぐっとこらえる。


「一週間以上も学校を休んで心配だよね。早く病気が良くなるといいんだけど」


「あら、ご存知ないんですか」


 風見はそこでもったいぶるように間を置いた。


「――呪いの噂」


 殴りたい。ブン殴ってやりたい。だが、VRでそんなことをしたところで何の意味もない。学校があるワールドはPVP禁止エリアに指定されているから、殴ろうとした段階で警告が出てパンチのモーションが勝手に止まって終わりだ。


 自分にそう言い聞かせ、データグローブの中で拳を握る。


「呪いだなんて、今時そんなことあり得ないでしょ」


「本当よ。だって――」


 風見は祀莉の肩に手を乗せてささやいた。


「私が呪ったんですもの」


 肩に置かれた手に視線を送る。白くしなやかな指だ。もし祀莉がデータスーツを着ていれば、スーツ越しに華奢な手を置かれた感触があっただろう。


 高価な機材を持ち合わせていない祀莉には視覚的な変化しか起こっていない。それでも、なんだか嫌な感じがした。


「ねえ、柳崎さん。明日の登校日とうこうびの放課後は空いています?」


 登校日というのは、月に一日だけ現実世界にある校舎に通って生身で授業を受ける日のことだ。VRだけでは、人間関係が希薄になってしまうとかそんな理由で制度が設けられたと聞く。


 わざわざ現実世界で家を出なければいけないため面倒臭がる生徒も多く、祀莉もそんな一人だった。わざわざ外に出るのなら、もっとその時にしかできないことをすればいいのにと思う。


 しかも、そんな日にまでこんな奴らの相手をしなければならないのかと思うとますます気が滅入めいる。本当に憂鬱だったので、祀莉は鈍感に答えた。


「明日の放課後か。どうかな。要件によるけど」


 風見は苛立ったように切れ長の大きな目を釣り上げたが、すぐに笑顔を作った。


「三國さんにかけた呪い、どんなものか見てみたくありませんか?」


 少し混乱する。この女は何をしようとしているのだろうか。


「待って。待って。それってどういう意味?」


 風見は祀莉の肩から手を離そうとしない。それどころか、肩にかけた手に力をこめているようにも見える。


「授業が終わった後、教室で待っていますね」


「ねえ、だから何を――」


 風見は手に力をこめる。ここはPVP禁止エリアだ。この行為に意味はない。意味はないはずなのだ。


 アラームが鳴り響き、視界には鏡写しになった真っ赤な文字が表示された。


『警告二回目:PVP禁止エリアです。他のプレイヤーへの攻撃は許可されていません』


 風見の手がシステムによって制御され、スッと離れる。二回って、一回目はいつだよ。風見は振り返って祀莉に微笑んだ。


「明日の放課後、教室で待っていますね」


 取り巻きガールズ――祀莉が今名付けた――はあざけるように笑っていた。教室に入っていく彼女たちはご丁寧に入り口のドアを強く閉めた。


「うわー、嫌われてる。何かしたかなぁ、私」


 祀莉は教室のドアに手をかける。


 ――明日の放課後。誰かに知らせた方がいいのだろうか。

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