第1話

 少女は古びた雑居ビルの前に立っていた。黄ばんだ白壁には「鋼探偵事務所はがねたんていじむしょ」という看板が付けられている。雑居ビルの四階だ。


 あそこが、少女の目的地に違いないようだった。むしろ、一階の喫茶店と四階の探偵事務所しか営業はしていないようだから、間違いようがない。


 一階の喫茶店の窓ガラスの前に立った少女は自分の姿を確かめた。そこには、いつもと変わらぬ柳崎祀莉りゅうざきまつりの学生服姿が映っていた。


 私服よりは場にそぐうだろうと考え、学校に行く時と同じようにブレザーの学生服を着ている。中途半端に伸びた髪を一つにまとめ、女子高生としては標準程度の身長に、勝気な顔立ち。笑うと口元から八重歯が覗く。


 身だしなみは問題ない。問題なのはここの探偵が信頼できるのかどうかだ。少女は扉を開けるのを少し躊躇ためらった。理由はこのビルの怪しげな雰囲気だけではない。


 西暦も2049年になり、探偵というのはすっかり流行らない商売になってしまった。理由は大きく二つ。ここ三十年で日本の犯罪率が著しく下がったこと。それから、エムズコープが現れたことだ。


 三十年前の東京では一時間に十七件の犯罪が起きていた。それが、今では四分の一以下だ。街中にある五十万台の監視カメラ網と犯罪予測システム、それに警察のドローン配備が犯罪率の低下を実現した。


 先日のニュースでも、銀行強盗を企てた犯人が銀行にたどり着く前にドローンによって鎮圧されたと報道されていた。監視カメラ網も警察のドローンも導入当初は国民から猛反発を受けたが、今ではすっかり生活に馴染んでいる。


 それに、もし犯罪が起きたとしてもその検挙率はほぼ100パーセントを誇っている。日本の警察が優秀だから、というだけではない。MMMコーポレーションの捜査協力があるからだ。


 今、日本で探偵といえばMMMコーポレーションのことを指す。MMMコーポレーション――通称エムズコープは通信、放送、電子出版、電子広告業などを一手に担う大企業グループだ。


 元々はメディア系企業のはずなのだが、エムズコープは監視カメラ網と犯罪予測システムの導入時に自社のITインフラを無償で警察に提供した。


 それをきっかけに、同社は徐々に警察の信頼を獲得し、政府のサイバー部門にも喰い込んでいった。日本人の生活の基盤になっているARフォンも運営元はエムズコープだ。


 エムズコープが自社の探偵部門を警察の捜査に役立ててほしいと申し出、政府がそれを快諾してからはあっという間だった。

 

 警察が初動捜査を行い、捜査が難航した場合はすぐにエムズコープに連絡がいく。あとは監視カメラ網のデータベースとインターネット上に残されたログを分析して瞬時に犯人を割り出し、警察へと引き渡す。


 それでも犯人が分からない時は――CEOの出番だ。エムズコープの二代目である白澤映室しらさわえむは明晰な頭脳で知られる。どんな難事件であっても彼の手にかかれば解決の一途をたどる。


 故に、白澤映室は世間から“最後の探偵”と呼ばれていた。反対に、エムズコープに所属しない探偵は廃業を余儀なくされた。


 フィクションに出てくる探偵というのも荒唐無稽こうとうむけいなものになった。推理小説なんてもう流行らない。探偵は、すたれた。


 だが、少女はどうしても探偵を必要としていた。警察やエムズコープには相談できない。いや、探偵でなければ駄目なのだ。


 ただ、少女も最初はそこまで真剣に考えていたわけではない。思い詰めて自室のベッドに横たわりながらインターネットで検索をかけていたらたまたま見つかってしまったのである。


 鋼探偵事務所はがねたんていじむしょ。事務所の名称と所在地、何件かの口コミだけがあった。


 口コミも「本当に助かりました」という好意的なものと「二度と行きません」という批判的なもので両極端だ。ネットの情報だけでも怪しさしか感じない。だが、少女は見つけてしまったからには行動せざるを得なかった。


 ネットで引っかかった住所を参考にして地図通りに道をたどり、どうにかこの古びた雑居ビルまでやってきた。目の前の扉をくぐって、四階まで上がる。絶滅危惧種とされている探偵事務所まではもうすぐだ。


 躊躇ためらいはあるが、わざわざこんなところまで来て引き返すのも非経済的だ。そう自分に言い聞かせる。意を決してビルの中に踏み入ると、すぐにエレベーターが見つかった。


 二、三人も乗ればいっぱいになってしまいそうな小さいエレベーターだ。乗り込んで目的階のボタンを押そうとし、思わず声が出そうになった。


 四階に行けない。ドア横の細長いパネルには一階、二階、三階、五階、六階と階数を示す丸いボタンが並んでおり、四階だけが抜けている。


 ホテルなどでは不吉だからという理由で四の数字が付く部屋を無くしていると聞いたことがあるが、これもその類だろうか。だとすれば、本来の四階に該当するのは五階ということになる。


 少女は恐る恐る五のボタンを押そうとした。乗り込んでから時間がかかりすぎていたためか、扉が閉まろうとした。


 その時、滑り込むようにして灰色のコート姿の男が入ってきた。


「失礼」


 男は帽子を傾けて一礼した。背が高く顔立ちの整った男だ。しかし、顔色は蒼白で、髪も真っ白だ。


 ボタンに手を伸ばそうとした男は、少女がまだ階を選んでいないことに気付いたのか問いかけた。


「どちらへ?」


「……四階です」


「僕も同じ階だ。そこに行くにはコツが要るんです」


 そう言うと男は、パネルのどこでもない階を押した。エレベーターはガタガタと揺れながら上昇していく。


 得体の知れない男だが、この男のことが妙に気にかかった。


「コツが要るってどういうことですか?」


「四階は存在しない階なんですよ。建物の幽霊のようなものだ。普通には行けない」


「縁起が悪いってことですか?」


「それも原因の一つではありますね。このビルの持ち主がげんを担ぎたがったようでね。数字の四は死に繋がるからっていうことで、三階の次の階は五階ということにしたんだ。階の表示やエレベーターのボタンなんかも全てそれに合わせてね」


「迷信深い人だったんですね」


「現実を見ようとしなかったのさ。だから、この世のものではないものまで見るようになってしまった」


「……この世のものではないもの?」


 見知らぬ男とエレベーター内で二人きりの状況だ。本来ならあまり関わらない方がいいのだろうが、好奇心が先行してしまった。


「ある時、ビルのオーナーの前に四階を貸して欲しいという客が現れたんだそうだ」


「四階ってこの建物だと五階のことですか?」


「そう。だから、最初はオーナーも『生憎あいにくと五階は埋まっておりまして』と断ったんだ。だが、客は『そうじゃない。存在しない四階を貸して欲しいんだ』と言う」


「存在しないものは借りられません」


「借りられないよ。オーナーも頭のおかしい客が来たかなと困り果てたが、前金だと言われて目の前に大量の金を積まれた。それで、四階を貸すことを承知したそうだ」


 男はそこまで言うと煙草に火を付けた。エレベーターの狭い室内に紫煙しえんが広がる。葉が焼けるような嗅いだことのない臭いがする。


「それから、四階には存在しないものが棲みつくようになった。達磨だるま、だそうだ」


 男が手の平を差し出すと、その上に小さい玩具がんぐの達磨が現れた。少女はどこからか現れたその達磨の玩具を不審そうに見た。手品だろうか。


「それ、何ですか?」


「これか。これは達磨の幽霊だよ。差し詰めお化け達磨おばけだるまと言ったところかな」


 よりにもよってお化けと来た。ただ、少女は自分がこれから探偵にする依頼のことを考えると頭ごなしに否定することもできなかった。


「……作り話ですよね」


「このビルであったことだよ。化け物を怖がって他の階のテナントがみんな出ていっちまうから退治して欲しいと僕はそのオーナーに頼まれた。で、退治した」


「た、退治したんですか」


「したとも。そうしたら四階の借り手が無くなったから、僕はこれ幸いと空いた四階を借りることにした。それがつい先日のことだ」


「待ってください。存在しない階を借りたんですか?」


「借りたよ。手頃だったからね」


 チン、と呆けたような音がしてエレベーターが止まった。扉がゆっくりと開く。


 正面に少し進んだ先のドアに『鋼探偵事務所』というそこだけ真新しいプレートが貼られていた。


 探偵はエレベーターを出て悠然ゆうぜんと歩くと、その扉を開けた。


「ようこそ、鋼探偵事務所へ。僕が所長のはがね。探偵の幽霊です」

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