第28話 初めての出会い

 日曜日の夕方、18時。

 無地白のタンクトップにフード付きの短いベストを合わせ、短めのパンツにスニーカーを履いた七海は、入り組んだ路地裏でとある高身長の男と言い争っていた。

 これは人目のないところでしか話せない内容であったのだ。


「だから言ってるでしょ。ワタルとは別れるって。何度も言わせないでよ」

「ん、んなもん嫌に決まってんだろ。今日はアソコに行く予定だっただろうが。付き合って一ヶ月記念だろ!」

「へぇ、だから着替えの入ったバックとか持ってきてるんだ。気合い十分だったのにごめんねー。そもそもうちはホテルに行く約束なんてしてないし、ワタルが勝手に誘ってきただけのことじゃん」


 七海は堂々とした態度で彼氏のワタルに向かい合う。今までにないほどの警戒心をむき出しにしながら……。


「じ、じゃあなんでオレをこんなところに呼び出したんだよ」

「まだ分からないの? 別れの挨拶を済ませようと思っただけなんだけど」

 メールでも『別れる』という内容は伝える事が出来ただろう。しかし、七海は自身が持つ筋を通したかったのだ。こういった大事な話は直接言うべきだと。


「り、理由を教えてくれよ! こんなんいきなりだろ!」

「うちのことを好きじゃない誰かさんには到底分からないことでしょうね」

「はぁ!?」

「ヤリ目的のクソ野郎が」

「ーーッ!」

 七海の声音が冷淡になった瞬間、ワタルが息を呑む。瞳孔が揺れるほどに驚いている。


「……うち、聞いたんだよ。一昨日の放課後デートでワタルがそんな内容の電話を誰かとしているの」

「き、聞き間違いだろ……んなことあるわけねぇよ」

「じゃあ行かなくてもいいよね。ホテルに」


 別れる覚悟をしてきた七海だが、少しばかりは信じたかった。一ヶ月付き合ってきた彼氏、ワタルが気の迷いで動いていたんじゃないかと……。ヤリ目的なのは、友達に指示されたかなんかだと……。

 本当は悪口を言うだけで胸が締め付けられる思いなのだ。この空間でさえも……。


「な、なんでそうなんだよ……。別にいいだろ。今日一回くらい、、、、、、、

「ッ!」

 だが、この途端に信じようとした気持ちは一瞬にして霧散した。そして、思いのままに七海は声を荒げた。


「最っ低! 一回くらいってなに? 一回くらいって。うちのことをそこまで軽い女に見てるだなんて心外だよ!」

「……」

「どーせ友達と賭け事みたいなのしてるんでしょ、一ヶ月までにヤれるかって。ってか、電話でそんなこと話してたのうちは聞いてるし」

「……チッ」

『そこまで聞いていたのか』と、ワタルはしかめっ面になり舌打ちを響かせる。この反応、自白したようなものである。


「早くから認めていればまだ救いようがあったのにね。最後まで誤魔化そうとするとか、完全に幻滅」

 その言葉通り、七海の瞳には光がこもっていなかった。完全な拒絶のオーラを発していた。


「じゃ、言いたいことは全部言ったから。もううちに関わらないでね。連絡先も消してるから」

 最後のセリフを言い、ワタルから背を向けようとした瞬間だった。


「ちょっと待てよッ!」

「っ!」

 激憤したワタルが七海の左手首を力強く掴んだのだ。握り潰されそうなほどに、全力で。


「痛っ……! 離してよ!」

「散々オレに暴言吐きやがって……。許さねぇぞ、お前……」

「ばっかじゃないの!? アンタのせいでしょ!」

 その怒声の後、

『パァン!』

 ーー甲高い音が空気を震わせた。

 七海はワタルの頰に右手が当たるようにして完全に振り切っていた。


「もう知らないっ!」

 不意のビンタでワタルの動きは完全に止まっている。掴まれていた左手をどうにか振りほどき、七海はダッシュでこの場を離れた。


「はぁ……はぁ……」

「オイ、待てやッッ!!」

 だが、石のように固まっていたのはほんの数秒。ワタルは荷物が入ったバッグを投げ捨てて、逃げる七海を追いかけてきたのだ。


(逃げないと……逃げないと逃げないと逃げないと……)

 捕まればどうなってしまうのか……。いや、きっと酷いことをされる。そう理解していたからこそ、七海は後ろを振り返ることなく必死になって走る。


「オラァッ!!」

「っっ、はぁ……はぁ……」

 背後から聞こえるワタルの声。距離はまだ開いている。


 幸運だったことは、それは七海がスニーカーを履いており、尚且つ動きやすい服装だった。その一方でワタルは革靴を履いていたこと。

 これが確かなアドバンテージとなり、男女の走力の差を相殺していた。


 差が広まることはないが、縮まることもない。このままならーーなんて思うかもしれないが、七海にはその気持ちすら、その余裕すら生まれることはなかった。


「はぁ、はぁ、はぁ……」

「クソ女が……ッ!!」

 その差がどんどんと縮まってきていたのだ。そう、七海のスタミナ切れで……。


「逃げてんじゃねぇぞ!」

「ひっ……」


 脅し言葉が後ろから近付いてくる……。七海は残り少ない力を振り絞って路地裏の角を曲がったその時。

「はっ……!」

 偶然、七海の視界に一つのこじんまりとした店が映った。隠れ家のような、ひっそりとしているお店が……。


(こ、ここだ……)

 余力があるわけでもなく追い詰められ、手段など選んでいられなかった七海。一直線にその店に向かい、扉を打ち破るようにして勢いよく店内に入った。


「た、助けてくださいっ! 追われてるんですっ!」

「は、はい……?」

 七海は扉を開けながら助けを求めた。その店中にいた人物は一人だけ。紳士服を纏った好青年だった。


「追われているって……?」

 その好青年は七海の言葉に疑問符を浮かべながら数秒の間を開けるも……すぐに状況を理解したのか、キリッと顔を変化させる。


「分かりました。こちらのカウンター下に隠れていてください。もし、その方が来られた場合、自分が対処いたしますので」

「はぁ、はぁ……、ありがとうございます……」


 息を切らしている七海は、好青年に指示された通りにカウンターの下に隠れる。


「安心してください。もう大丈夫ですから」

「どうも……です。はぁ、はぁ……」

 七海はこの好青年を写真で見たことがある。今もスマホのアルバムの中にあることだろう。しかし、この仕事着と髪をセットしていることによって全然気が付かなかった。


 彼こそが、看護科の天使が好いている『斗真くん』であることに。

 そして、これが二人の最初の出会いである……。

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