第4話 鈍感なヤツ?
太陽はもう柿のような色合いになり、一日の役目を終えようとしている。
現在の時刻は17時50分。斗真のバイト先である、Bar【
都会の喧騒に紛れた【
カウンターには美しいシェイカーが置かれ、奥のバックバーにはウィスキー、ブランデー、リキュールなどの多種多様の酒が取り揃えらている。
希少価値があるボトルは大型ディスプレイ式の棚に置かれ、見せる収納にもなっており、綺麗なまとまり感が出ている。
店内は基本的にキャンドルの光のみで適度に暗く、何十年か前に流行ったようなジャズ・ピアノの音楽が天井のスピーカーから小さく流れ続けていた。
「おはようございます。美希さん」
「おはよう。今日のシフトは
ここは
品のある黒革で作られた背もたれ椅子を回転させ、斗真に優しげな笑顔を見せている美希はこのBarのマスターである。
スタイルが良く、スーツを着こなしている美希は20代後半。
毛先まで揃えられたロングの黒髪を束ね、薄化粧をしている。ぱっちりとした瞳には一番星のような光が宿り、いかにも仕事が出来る雰囲気を持ち合わせている。
「はい。それでは着替えて来ます」
「はーい」
ロッカーから仕事服を取り出した斗真は更衣室を使ってすぐさま着替える。
黒のパンツに白のシャツ、濃紺のベストに黒の蝶ネクタイと、バーテンダーそのものの服装だ。
着替え終わった斗真は私服をロッカーに入れ、隅に設置されている姿見を見ながら蝶ネクタイを整える。
そしてようやく表に出る準備が整った斗真は、再び美希に挨拶を交わす。
「今日もよろしくお願いします、美希さん」
「それはこちらのセリフよ、斗真ちゃん。今日もよく似合ってるわね、その制服」
「ありがとうございます」
もう何度も言われたかも分からない挨拶。斗真はすっかりと慣れた様子だ。
「……あ、言い忘れてた。今日は常連の佐々木さんが21時に予約されているから、顔が見え次第お相手をお願いね?」
両手を片頰の前に持ってきてあざとげにウインクを見せる美希。これがまたとても似合っている。素直に可愛いと思えるほどだ。
「あの……毎回思っていることなんですけど、佐々木さんの接客にあれだけの時間を使って良いんですか? 自分が動けなくなる分、美希さんに負担をかけるようで……」
「アタシに問題が起きてるわけじゃないから気にしなくて大丈夫よ? 佐々木さんもお店の状況を見て斗真ちゃんに話しかけているしね」
バーの過ごし方として注意することは、バーテンダーを独り占めしないことだ。
バーテンダーと会話したいという他の客がいるのかもしれない。店が混雑してバタバタしているのかもしれない。
そうなった場合、バーテンダーを独り占めすればその客に対して嫌悪感を抱くことになる。
周りの客に配慮するということもBarでは大切なことなのだ。
「斗真ちゃんも知っていると思うけど、アタシと佐々木さんのお母さんとは親しい間柄でね。その娘さんに良い接客をしてくれている斗真ちゃんには感謝しているの」
「そ、それなら良いんですけど……」
斗真が常連の佐々木の接客に使っている時間は一時間をゆうに超える時もある。本来なら別の客がいる場合にはそのような時間の使い方はあまり出来ることではない。
マスターの美希と、佐々木の母が知り合いだからこその待遇なのだ。
「でも、斗真ちゃんに一つ聞くけど……佐々木さんの接客はかなり役得でしょう? だって佐々木さんはこの店に来るお客様の中で一番の美人さんだと思うから」
「……ひ、否定はしないですけど」
「ふふっ。あの子、毎度のこと斗真ちゃんに絡んでいるものね。
「大変ですよ。本当」
この『大変』には、酔った相手の世話をする以外に……自制を保つことも含まれていた。
酔った相手がする行動には個人差がある。熟睡する者や、いきなり怒鳴り散らす者、身体を触れ合わせてくる者。佐々木はこの後者に当てはまる時もある……。
「もし良かったら、勤務終わりにでも佐々木さんをお持ち帰りしていいのよ? 斗真ちゃんも大学生だし、三大欲求の一つがもうビンビンに覚醒していると思うから」
「何が良かったらですか……美希さん。その発言が佐々木さんのお母さんにバレたのなら怒られますよ?」
真剣な顔を見せながらそんな念押しする斗真だが、美希だって軽々しくいっているわけではなかった。
「大丈夫よ、絶対に怒られないから。アタシの命とも呼べるこの店を賭けてもいいくらいだし」
フェイクや強がりなどではなく、本心からそう言っているのだと斗真は悟る。何故、お店を掛けられるほどの確信的理由があるのか……ソレを知るのはもっと先の話になる。
「……ど、どうして断言出来るんですか?」
「もー。ソレを教えたら面白くないでしょう? …………佐々木さんの気持ちを尊重しないとだしね」
呼吸をするような自然さで、斗真の耳に届かせることのない独り言を吐く美希。
「ただ、斗真ちゃんはもう少し……んー、違う。かなり鋭くならないとダメね。気遣いは完璧に出来ているけど、その辺はスカスカだもの」
「え、え……?」
「まぁー、それが斗真ちゃんらしいところでもあるけど……。とりあえずはいつも通りのコミュニケーション力を発揮して頑張ってちょうだいね?」
「……あ、はい。それはもちろんです。たくさんのお金をいただいているので」
全然と言って良いほどに美希の言いたいことを理解出来なかった斗真だが、本人はあまり気にしてはいなかった。
「真面目よねぇー、斗真ちゃんは。もっと気を抜いても良いのに……って、こんなこと言っちゃったら旦那に怒られるわね」
「仕事中にミスをするわけにはいきませんから。今まで何度も美希さんに助けてもらっていますし」
「頑張りはちゃんと見てるから、怒ったりはしないし経営者として当然のことよ」
このBar、【
それに見合った働きを見せなければならない……なんて素直に思えるのは、美希の人柄の良さ。そして従業員一人一人を大切にしているからこそだ。
「さて……小話はこれくらいにして、そろそろ表に出ましょうか。アタシもすぐにカウンターに出るつもりだから、アタシの旦那には裏に下がるように伝えてくれる?」
「分かりました」
この瞬間に仕事のスイッチを入れる斗真は、声色を変えて返事をする。そして……美希より先に表に出て行くのであった。
****
「
斗真が閉めた扉を見ながら、なんとも言えない表情を見せる美希であった……。
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