第2話 看護科の天使

 煉瓦造りの立派な正門。空を向いている芝が校庭を緑に染め、欠け一つない平らに整備されたアスファルトが一道を作っている。そんな場にそびえ立つ中世ヨーロッパを思わせる堂々とした三つの校舎。

 朝日が校舎を照らすその景色はなんとも幻想的であり、大学ということを忘れさせるほど。


 ココは偏差値63のみなみ国公立大学。その教育学部、教育学科のとある教室で興奮を露わにさせている者が居た。


「なぁなぁ、聞いてくれよ斗真とうま! オレ、今日登校中に偶然会ったんだぜ!!」

「朝からよくそのテンションでこれるよな……ハル。で、一体誰と会ったんだ?」

 柔らかく粉のように白っぽい朝の日差しが差しこんでいる中……甲斐 斗真とうまが座る机をなんの前触れもなく叩き、『構ってください』オーラを醸し出すハルこと、海堂 ハル


「オレだって朝からこんなハイになれねぇよ! でもな、あの先輩に会ったなら誰でもこんな風になるもんだって」

 明るい茶の短髪をハードワックスで固めているハルは、曇りのない黒眼くろめをキラキラ輝かせながら斗真に熱弁していた。


「分かった分かったから。それで誰に会ったんだ?」

「天使」

「ん?」

「だから天使だって!」

「お、おい……ハル。お前、頭でも打ったのか……?」

 主語無しに要点だけを伝えようとするハル。当然、何が何だか分からない斗真は細く整った眉を寄せて小さく首を傾ける。

 登校してそうそう、このハイテンションで『天使に会った』なんて言われたものなら斗真の反応は全くおかしくない。


「違ぇよ! 二次元じゃなくて三次元の天使のことを言ってんだ!!」

「20歳にもなって何言ってんだよ……。ますます意味が分からない」

「いやいや、これはオレだけじゃなくて男子学生みんなが言ってることなんだからな。天使級の可愛さ……いや、美人さ? とにかく斗真も一度見たら分かるはずだって」

「……ふぅん」

「ふぅん、じゃねぇよ! 少しでいいから興味持ってくれや……。なんで斗真とうまはそんなにも興味ねぇんだか……」

 片手で頭を押さえながら『はぁ……』なんて大きなため息を吐いている春。なぜか落胆している。


「いや、興味がないことはないんだけど……。結局、天使ってのは誰なんだ?」

「佐々木 澪だよ! 麗常れいじょう看護大で『看護科の天使』って呼ばれてる人! オレらの一つ先輩。斗真も一度は聞いたことがあるだろ?」

「佐々木……澪……さん? 聞いたことがあるような聞いたことがないような……。佐々木って知り合いならいるけど……」


 ハルの話を聞き、癖のある黒髪を触りながらどうにか思い出そうとする斗真とうまだが、ピンとくるような相手はいない。

 『看護科の天使』と呼ばれる佐々木は、この大学でも超がつくほどの有名人である。斗真のように『知らない』と言う人物は本当に少数派である。


「まぁ、斗真がそこまで食いつかねぇのも分かるけどなー。お前は【Shineシャイン】ってBarバーで働いているわけで、女から言い寄られたりするだろうし? 背、高ェし筋肉あるし、女には困ってなさそうだしなぁー」

「いや、そんなことはないよ……。言い寄られたりするのも酔っ払った男性がほとんどだし……」


 酔っ払いの相手は男女関わらず大変だ。初対面の相手となれば特に。過去ーーバイト先で苦い思い出が蘇った斗真とうまは、端正な顔を歪ませた。


「『ほとんど』ってことは女からも言い寄られることがあるんだろー? はー、なんて羨ましいこと。オレもBarで働こうかなぁー。時給も良いし」

「一応言うけど、Barの仕事も大変だからな? 数百とある酒の名前を覚えないとだし、昼夜は逆転するときもあるし、酔いつぶれるお客さんの世話とか。……あと、トイレに嘔吐物があった時の掃除なんかは大変だ」


 Barは酒場、飲酒店だ。

 酒の加減をしない客、やけ酒、一気飲みをされたものなら、嘔吐の処理に追われる場合がある。

 処理をしなければ当然のようにクレームが飛んでくる。斗真とうまがバイト中に嘔吐処理をした最高回数は1日4回。この回数を聞くだけでも大変な仕事だということが分かるだろう。


「冗談だよ。冗談。短気で要領の悪いオレがBarで働こうもんならすぐクビになるだろうしな。んで、斗真とうまは今日バイトだっけ?」

「ああ、18時から0時まで」

「ん? Barなのにそんなに早く店を閉めるのか? なんか夜中までやってるイメージあるんが」

「月曜日だけは0時に閉店なんだ。店主マスターに用事があるんだって」

「なるほどね。って、大学終わってからの6時間勤務とか……タフかよ」

「もう働いて一年くらいだし、慣れてきたよ」


「無理だけはすんなよ。Barの店員は客からもらう酒を飲んだりするんだから、休肝日も必要だろ?」

「大丈夫、そこはちゃんと考えてるから」

 肝臓は、病気が進行しないと症状が表れにくいことから沈黙の臓器と呼ばている。気づけば手遅れ状態なんてこともザラだ。


 そして、『この製品のキモはこれだ』などの言葉があるように、肝臓はとても大事な臓器である。

 

「だがしかーし、美人からお酒の誘いなんて来たらオレはもうガンガン行くけどなぁ! 例えば看護科の天使とかな!?」

「ハルの頭の中にはソレしかないのかよ……。あ、でも俺が働いてる店の常連に美人さんがいるぞ? そのお客さん、男性客に絡まれたりするぐらいだから」

「はぁ、それマジかよ!? こうなったら行くしかねぇじゃん!」

「今日は月曜日だから来店してくれると思う」

「おっしゃ! 今日絶対にーー」


 この情報を聞いたことで、両手を高らかに上げ嬉々としているハル。誰がどう見ても喜びあふれている様子だったが、「あ」と一言声を漏らした後に表情を沈ませた。


「ど、どうした?」

「オレ、今日友達と遊ぶ予定入ってたんだった……。くぅ、行きたかったけどこればっかりはしゃあねぇよなぁ……。いや、でもーー」

「ーーおいおい。先に予定が入ってるならそっちを優先させないとダメだろ」

「だ、だよな……ははっ」


 一瞬だけ本気の目をしたハルを制し、呆れた表情を浮かべる斗真。

 ーー斗真はまだ知る由もない。

 自身の口から出した“美人の常連客”が、ハルを興奮させた人物だということに……。

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