第8話 朝
目覚めると、黒髪を乱した真っ白な美女が寝息を立てていた。寝ぼけた頭は、まだ現実感を取り戻せていない。恐る恐るその頬に指を触れると、ひんやりとした冷たさと、きめ細かな肌の感覚が伝わって来た。
「……ん…」
薄っすらと目を開けたエマは幸せそうな表情を作ると、ぴったりとアキラに、その豊満な身体を密着させた。身体全体がひんやりとして、次第に頭が冴えてくる。アキラは昨晩の情事を思い出し、それとなく視線を外した。エマはお構い無しに身体を被せ、髪が乱れるままに唇を重ねた。頬に揺れる髪がくすぐったい。
「おはようございます、アキラ様。」
「おはよう。」
昨日、魔王になったという事実よりも、男になった現在の状況の方がどこか現実感が無い気がして、可笑しくなった。
しばらくの間、エマは顔をアキラの胸に預け、アキラはエマの頭を撫でたり、指に髪を絡ませたりしながら、うっとりとした時間を過ごしていたが、エマは「お先に身支度を整えさせて頂きますね。」と、浴室へ向かった。アキラも身を起こすと、大きな姿見の前に立つ。
アキラの風貌はこれまでと変わらないが、男になったからだろうか、少し余裕の様なものを感じた。
しかし、こういう事は魔王国、もしくはこの世界に於いて普通な事なのだろうか。日本でも昔はそういう事があったと聞いた事があるが…。
もしかすると、アキラを魔王としてここに縛る為の事かもしれない。しかし、他の面々も夜伽の相手を望んでいた様に見えたし…。
まてよ、そもそも200年も前の魔王に仕えていたという事は、やはりそういう事も200年間あったのだろうか…。
そんな事を考えながら鏡を覗いていると、浴室からエマが姿を見せた。髪を結い上げ、黒のドレスを纏い、キリッとメガネを掛けた姿は、完璧な宰相となっていた。
「魔王様、昨晩はありがとうございました。御身の御支度はメイドに申し付けますので、しばしお待ち下さい。」
そう言って部屋を出ようとするエマ。アキラは慌ててエマを呼び止める。
「あ、あー、なあエマよ。その…なんだ。昨晩の様な事は、その、普通、というか、この世界の風習なのか?」
「どうなのでしょうか。他国の事は存じませんが、王であられるアキラ様には当然の事かと。」
「そうか。…300年前から先代に仕えていたのだろう?」
そこでエマは理解した。エマの中に暖かな気持ちが込み上げる。
「左様で御座いますね。先代魔王様にも精一杯お仕え致しましたよ。」
「そ、そうか…。」
アキラの声が少し沈む。少し意地悪が過ぎただろうか、とエマはクスリと笑って言葉を続ける。
「魔王様、我々臣下の者共と親交を深める事も、お務めの一つだとお考え下さい。皆とも分け隔てなくご寵愛頂けますよう、お願い致します。」
「う、うむ…。」
エマは深く頭を下げ、部屋を出ようとする。ドアノブを捻り、ドアを少し開けた所で、わざとらしく何かを思い出した。
「ああ、そう言えば言い忘れておりました。先代魔王、ナーサ様は大変お優しい………女性の方でした。」
チロリと舌を出し、悪戯っぽい笑顔を浮かべながらエマは退室した。
やられた。
アキラは自分の嫉妬心や羞恥心を見透かされ、はぁーとため息をついた。やはりエマはアキラよりも何枚も上手なようだ。昨日まで童貞だった22歳と、何百年と生きてきたヴァンパイアを比べるのが間違いなのだが。しかし、不思議と嫌な感じはしなかった。それどころか、何処か心の奥が暖かくなる気がして、心地よかった。
「しかし、分け隔てなく、ねぇ…。」
頭に浮かぶのは空っぽの鎧と、子供と、腐敗したようなアンデッドに筋肉の塊。
「いや、無理だろ…。」
苦笑いを浮かべているところへ、コンコンとドアがノックされる。
「どうz…入れ。」
「失礼致します。」
恭しく礼をして入室したのは犬耳のメイドだった。新調したかのような、皺一つないメイド服、ふんだんにレースをあしらったエプロンを着けている。手にはアキラの物と思われる衣装を、籠に入れて持っていた。
「本日のお召し物をお持ちしました。」
「うむ。そこに置いておいてくれ。」
「いえ、お手伝い致します。」
「え」
案の定、着せ替え人形の様に服を着せられた。しかし、流石にプロとも言うべき手際、アキラには最小限の動きしかさせず、それでもテキパキと作業は進められて行く。
巨大な姿見に、みるみる内に服が重ねられていく自分の姿を映しつつ、昨夜、エマから聞いた情報を思い出す。
先ずは世界地図で、魔王国の位置とおおよその大きさを確認した。
上を北に取った地図、西方の海にポツンと浮かんだ、北西から南東に向けて楕円の形に伸びた島、それが魔王国だ。他の大陸に比べると小さな島に見えたが、島の北に位置する魔王国の王都(名称は昨日から「アキラ」となったそうだが)から、南方の港湾都市ウェパルまで、馬車で約1ヶ月の距離。馬車の速度が前世の物と同じくらいだとすると、魔王国の全長は約2500キロ。北海道から沖縄までとほぼ同じ長さだ。
魔王国の南東、海を越えたところには世界最大の大陸、中央大陸がある。
中央大陸の北西部分と、魔王国の南東部分が最も隣接しているのだが、この大陸北西部分には人間が治めるレオニス王国がある。大陸にはレオニス王国の他に三つの大国があり、それらはいずれも人間の国だ。かつてエマも知らない程の大昔には、中央大陸の大半を魔族が治めていた時代があったそうだ。未だ、大陸内に身を潜め、かつての故郷を密かに守り続けている魔族も居るという。
現在では大陸の全てを人間が治めているが、その大逆転とも言える反攻は、勇者に因るものらしい。勇者が出現した当初の事は分からない事が多いが、現在は大陸四国が其々に三名の勇者を召喚し、抱えているのだとか。
100年前の戦いでは、各国12名の勇者たちとレオニス軍20万VS魔王を筆頭とした魔族10万の決戦となった。結果、魔王は倒れ、港湾都市ウェパルと、その北に位置する都市フォルネウスはレオニス王国に占領、接収された。
現在は、ウェパルとフォルネウスの北50キロ辺りに国境線が設定されているらしい。この島の南東部はレオニス王国の物になっているという事だ。
そして各都市には、レオニス王国からの憲兵が派遣され、魔族の管理という名目で、弾圧とも言える横暴がまかり通っている。
その他、魔術使用禁止、賠償金の支払い、武器所持の制限といった事も、魔族を苦しめている原因だ。
他にも魔術について、軍団について等、色々とエマを質問責めにしたのだが、ビビに聞け、シルフィに聞け、と新米魔王と家臣を想うエマのガードに阻まれた。
「アキラ様、よくお似合いで御座います。」
犬耳メイドに声を掛けられて、ふと思考の世界から戻って来る。
鏡の中の自分に目を向けると、想像していた魔王の衣装との違いに驚いた。白い木綿のシャツの上に黒とも紺とも取れる深い色のベスト。ベストには金色の糸で非常に細やかな刺繍が施されている。下半身には、デニムの様な丈夫そうな白いパンツに、明らかに上質であると思われる、茶色のロングブーツ。若干、シャツの袖に貴族を思わせるレースがあしらってあるが、おおよそ「王」が身に付ける物とは思えない。動き易さ、気軽さを目的とした服装だった。
ここでもまた、エマに驚かせられる。恐らくは昨夜のやり取りの内にアキラのタイプや体型等を把握し、好みに合うよう手配したのであろう。
宝飾等については、魔術顧問であるビビに聞いてくれ、とメイドは言った。恐らくは服装をカジュアルにした分、マジックアイテムなどによる補強をさせるつもりなのだろう。ここにも、彼女の影を感じる。
昨日、エマから聞いた様々な種族のうち、このメイドは魔獣族だと思われる。魔獣族のルーツは、中央大陸の中部に広がる広大なジャングルだ。人間の進出により住処を追われた魔獣族の末裔だろう。
「ありがとう。名は何という。」
「はい、アンジェルと申します。」
「ほう、エンジェルと書いてアンジェルか。いい名だな。時にアンジェル。遥か昔、魔獣族は大陸を追われ、この地へと逃げ延びたと聞く。そなたは故郷へと帰りたいと思うか?」
アンジェルは突然の質問に驚いた様で、一瞬、表情を固めた。そして目を閉じて少しの間考え、アキラの目を真っ直ぐに見た。
「いいえ、魔王様。私の故郷はここ、魔王国で御座います。」
アキラはグッと、胸の奥に痛みを感じた。アキラは即位したばかりではあるが、彼女にそう言わせたのは国の責任なのだ。
「そうか。」
アキラには唯それだけしか言えなかった。それ以外には行動を以って示すしかない。
「アンジェル、お前のその言葉が嘘で無くなる様、私は努力しよう。」
アンジェルは鏡越しに、深く腰を折った。
リアルワールド こぶ @AtelierKOB
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