第5話 エマ
宿の部屋では一人、鏡の前に立つアキラの姿があった。何やらニヤニヤとした表情で、前や後ろから自身の姿に見惚れている。夕食を終えて部屋に入ってから、ずっとこと調子だった。
「凄いなぁ…。」
立ったり座ったり、足を組んでみたり。
自由に動く身体を得た喜びで、今にも叫びを上げそうな程だった。まるで新しい人生をスタートした、そんな気分で、鏡の中の姿を見つめていた。
スクワットは何回できるのかとチャレンジするも、300回を超えてもまだまだ疲れないので、数えるのを辞めた。
どれ程高く跳べるかと試してみるも、天井に頭をぶつけそうで、思い切り跳べなかった。
どうやらこの身体はかなりの身体能力を持っている様だ。恐らく、走っても相当な速度で走れそうだ。
「父さんと母さんにも見せてやりたいな。めちゃくちゃ驚くぞ。ふふふ。」
そう独り言を零して、アキラは表情を曇らせた。
アキラはベッドに勢い良く飛び込み、ゴロンと仰向けになって、天井に向かって話しかける。
「今頃どうしてるかな…。」
浮かぶのは、父と母の顔。
今ここにアキラの魂が在るとすれば、あちら、日本にはもうアキラは存在しないだろう。死んだか、消えたか、何れにせよ両親は悲しんでいるに違いない。
こちらで新たな人生をスタートさせたと報告出来れば良いが、そんな都合のいい話では無いだろう。
後悔や感謝が止めどなく溢れてくる。
こんな事なら、もっと親孝行しておけば良かった。出来ることは限られるが、感謝の手紙一枚でも書く事は出来たはずだ。
いつも迷惑ばかり掛けて、それを障害のせいにして甘えていた。更に今は、二二歳という若さで二人の元を去り、悲しい思いをさせているだろう。
ごめんなさいと言いたい。
感謝を伝えたい。
きちんとお別れをしたい。
けれどもう、それは叶わないだろう。
親の幸せは、子供が幸せに生きている姿を見る事だと言うけれど、それはもう無理なのだ。
「お父さん、お母さん。お達者で。今までありがとうございました。」
アキラは決して二人には届かない言葉を口に出して言った。ホロリと涙が頬を伝った。
そして同時に、首をもたげる不安。
家族も友人も居ない世界で、たった一人取り残されてしまった。住む所も、頼る親戚も、お金さえ一銭も持っていない。誰にも必要とされず、目的も何も無い。
この世界には自分の居場所が無い。
アレックス達にこれ以上迷惑を掛けることも出来ない。アキラはこの世界で自立して生きていかなければならないのだ。アレックスに相談すれば、軽い調子で「気にする事なんてないさ。」と言ってのけるだろう。しかし、それではいけないのだ。
アキラはこの世界に産み落とされた赤子と同じ。自分の居場所を自分の力で作っていく必要がある。
…いや、とアキラは自らを問いただす。
それは今までのアキラの考え方だ。
自分の居場所を、自分で自由に作る事が出来るのだ。その資格を得たのだ。
健全な身体と精神。それらがあれば、この世界の中を自由に生きて行けるじゃないか。
「ふふふ。」
そう考えると、自然と声を出して笑ってしまった。
この世界はどれ程の広さなんだろう。アキラの知る前世の世界とは全く違う事は間違いない。きっと、想像もつかない様な景色や、生き物達がいる事だろう。もしかすると、前人未到のダンジョンなんかもあるかもしれない。
「旅をするのも良いかもしれないな。」
アキラのイメージの中には、色とりどりの豊かな自然、広大な大地があった。それらはあたかもアキラを受け入れ、包み込んでくれているようだった。
今すぐにでも世界に飛び出したいという衝動に駆られるアキラだったが、何の準備も無くして旅になど出られる筈もない。
期待を胸に、今日はもう寝よう。
「…ううっ寒っ。」
日中は暖かいが、やはり夜になると冷え込んでくる。急激に室温が下がった様に感じる。足元に蹴った布団を取ろうと、手を伸ばした瞬間。
目が合った。
女が立っていた。
立っているという表現が正しいかどうか分からない。
「天井に立っていた」のだから。
女は黒の着物ともドレスとも思えるような物に身を包み、下ろせばかなりの長髪であろう髪を、何本もの簪のような物で結い上げている。
一見すると真っ黒なドレスは、ロウソクの光が当たると僅かに反射し、それが光沢のある金属のような繊維によって細かな刺繍がなされている事が分かった。
そして大きく開かれたドレスの背中には、全く艶のない、コウモリの様な羽が生えており、女の身体を包み込んでいた。
アキラは自らの機能を全て停止させた様に動きを止めた。呼吸すら忘れてしまうほどに。
こいつは…ヴァンパイアだ!
直感的に理解した。アキラを生贄にしようとしていた張本人、そして恐らくは日中尾行していた人物。
ヴァンパイアは表情を変えずに、ふわりと天井から足を離すと、重力を無視した動きで回転し、そのまま音もなく床に跪いた。
「アキラ様。」
顔を上げずに話すヴァンパイアの声は、意外にも静かで優しげ。どこか母性を感じさせるものだった。
「突然の訪問、何卒お許し下さい。私は魔王国の宰相を務めております、エマ=ボーと申します。」
やはり、アレックスの話していた奴だ。既に名前や宿まで知られている。アキラは大声を出してアレックス達を呼ぼうと思ったが、ゴクリと唾を飲み込むのが精一杯だった。
「先ずは、我が魔王国の国民をお守り下さった事、心よりお礼申し上げます。」
礼?
国民?
守った?
意表をつく言葉に、思考が混乱する。一瞬、何のことか分からなかったが、昼間の猫の魔族達の事を思い出す。あの現場を見ていたのか。
身構えていたアキラだったが、非常に柔らかい声、そして、礼節をわきまえた丁寧な態度に、相手が野獣の様な言葉の通じない相手では無いと少し安心する。なにせ、いきなり襲いかかって来るのではないかと震えていたのだから。
「見ていたん…ですね。」
エマは顔を上げ、にっこりと笑顔を見せた。
その瞳は金色に輝き、瞳孔は縦に亀裂が入ったように割れている。
スマートに通った鼻筋の上には縁が太めのシャープなメガネを掛けていて、強さと優しさが同居しているような完璧な美しさだ。
「はい。アキラ様がいらっしゃなければ、親子共々、憲兵の剣に倒れていた事でしょう。」
そしてまた深く頭を下げ、身を小さくした。
その姿にアキラはまた驚かされる。
一国の宰相という立場にありながら、国民を思い、対立する立場にあろう人間にまで深々と頭を下げる。あの時の憲兵、人間とは雲泥の差だ。もしかすると、魔族は人間よりも優れた種族なのでは無いかと思える程だった。
エマの態度に、アキラの肩からは不思議と力が抜けていく。
この人は敵じゃない。アキラを殺す、若しくは連れ去るつもりなら、こんな会話などしない方が良い。勇者と渡り合った程の実力者なら、ただの人間一人など簡単に処分出来るだろうから。
「守ったのは勇者。私には何も出来ませんでした。」
エマは指で眼鏡をくいっと直し、真っ直ぐにアキラを見つめた。
「もちろん、勇者様にも感謝を。しかしそれはアキラ様の勇気ある行動があったればこそ。」
本当にこの女性が自分を生贄にしようとしていたのだろうか。正しく物を見る目を持った、誠実な女性に見えるのだが…。
「それを言うなら、やはりアレックスのお陰ですよ。あの時、私が生贄になっていれば、あの少女を救えなかったのですから。」
少し危険とも思える発言だが、目の前のエマを試してみる。最悪、大声で叫び、窓から飛び出せば何とかなる、とは少し油断し過ぎだろうか。
「生贄…?」
エマは怪訝な表情を浮かべた。これは地雷を踏んでしまったか?アキラの背筋がぞくりとする。
「畏れながら、新月の儀式の事を仰っていらっしゃるなら、それは誤解で御座います。」
「?」
「新月の儀式に生贄など必要は御座いません。そして、儀式は成功したのですから。」
一気に汗が噴き出した。
地雷は地雷でも、これは違う地雷だ!
全身から血の気が引いていく。
そう、エマはわざわざ猫の家族について礼を言いに来たのでは無い。そんな小さな目的で、宰相ともあろう者がこの宿へ足を運ぶはずが無いではないか。そしてこれまで一度も、その跪き平服した態度を崩してはいない事からも、安易に想像出来る筈だった。
「アキラ様は、新たな魔王としてこの世にご生誕されたのです。」
エマは当然のように最後まで言い切った。その目には強い意志が感じられる。
何て事だ。
知らずに後退りするアキラ。
アキラは生贄などでは無かった。巨大な魔法陣を使った大魔術に寄って、この世界へと召喚されたのだ。しかも魔王として。
すると、前世でのアキラの命を、存在を奪ったのがエマなのか? いや、何となくではあるが、それは違うと感じる。あの日、アキラは死ぬ運命だったのでは無いだろうか。それはつまり、魔王になる事が運命付けられているという事で…。
ああっ、混乱する。
強靭な肉体を与えられて、魔王としてこの世界へとやって来た。どうやらそれは真実である様だ。初めから違和感があったのだ。そもそもこの世界に居なかったアキラを、どうやって生贄にするというのか。つまり、あの儀式によって、あの場に現れたという事じゃないか。
「うう…。」
頭がクラクラする。口の中が乾いて、気持ちが悪い。
窓の隙間から風が吹き込み、ロウソクの灯を優しく揺らしている。アキラが自分の言葉を取り戻すまで、エマは優しい笑顔を湛えたまま、じっと待っていた。
何度も深呼吸を繰り返し、最後に大きく「ふう」と息を吐く。大丈夫。大丈夫だ。アキラはブンブンと頭を振って、気を取り直した。
「エマさん、私は人間の姿をしているのですが?」
アキラの姿は魔王には見えない。ちょっと男前だが、普通の人間だ。
ピクリと、エマは初めて動揺した様に見えた。モジモジとして、心なしか頬を赤らめている様にも見える。
「そ、それは、誠に申し上げにくいのですが…」
チラ、チラ、と上目遣いでアキラの顔を伺いながら、どうにか聞き取れる程度の小声で囁くエマ。
「人間の目を欺く為、その……。
私好みのお姿にさせて頂きましたーー!」
「きゃっ」と愛を告白するかの様に、エマが両手で顔を覆う。恥ずかしそうに頭をプルプルと横に振る。
………。
まあ、見なかった事にしよう。
魔王として生誕した。実はそれを聞いて、アキラの中では全てのパーツがぴったりとはまった様に感じていたのだ。全ての事象が飲み込め、すっきりと片付いたような。
そして同時に、これまでこの世界に居場所が無いと感じていたからだろうか、そこはかとない安堵を感じていた。この世界に居て良いという、許可を得たとでも言うのか。
エマは未だに一人で身悶えている。
「エマさん、つまり私は魔族、という事になるのでしょうか?」
「エマ、とお呼び下さい。アキラ様。」
すっと顔を上げて、真剣な表情で訴えるエマ。アキラにとって、初対面の相手に敬称なしで名前を呼ぶ事に抵抗が有ったが、エマにとっては大切な事のようだ。
「…エマ。これで良いですか?」
「はいっ!」
少女の様に、パァっと表情を明るくする。
もしかすると、呼び捨てにする事によって親近感を抱かせようという意図があるのかとも思ったが、どうやら杞憂のようだ。
「アキラ様は、最高位の悪魔としてこの世に顕現されました。つまり、人間では御座いません。」
「悪魔…?」
まるで実感は無い。確かに、肉体は非常に強靭だと思うが、それ以外に人間との違いを感じなかった。勇者でさえ、アキラの事を人間として認識している筈だ。
「私が魔族だと証明…出来るんですか?」
「顕現なさる魔王様により個人差があると聞き及んでおりますが、基本的には毒物、魔法、物理、その他弱体化について耐性をお持ちで、更に不可視化、飛行、暗視、超回復と言った能力をお持ちである筈です。」
飛行?
超回復?
サラサラと滑らかな説明の中には、いくつもの驚きのキーワードが並ぶ。
「試しに、窓から夜の街をご覧になってみては如何でしょうか?」
そう言えば「暗視」という能力を持っているとエマは言った。アキラは疑惑の視線をエマに向けたまま、そろそろとベッドの側にある窓を開けてみる。そして驚愕した。
「あっ!」
バアルの街には既に人影も無い。商店も全て閉店しており、灯と言えば所々にまだ起きているであろう人々の窓明りだけで、辺りは真っ暗だ。
真っ暗だと解るけれど、はっきりと見える。
昼間に見る可視光と、赤外線、それにサーモグラフィーを足したような不思議な景色。通りの先を飛んでいる蛾さえも、はっきりと認識出来る。
「ん…なんだ…?」
よく見るとパタパタと羽ばたく蛾の周囲に、空間が歪んだような波紋が見える。それだけでは無い。部屋の中に居るであろう人物まで感じ取れるのだ。トカゲの様な容姿の魔族が、コップか何かに液体を注いでいる。その動作の度に、蛾と同じ様に、周囲にも波の様な現象を引き起こしている。
「ご理解頂けましたでしょうか?」
エマに声を掛けられるまで、アキラは夢中になって夜の世界に見入っていた。慌てて窓を閉め、息も荒いままにエマを見た。
「こ、これは何ですか? 壁の向こうまで見えましたが…。」
エマは嬉しそうに「うふふ」と笑いながら、上品な所作で口元を隠した。
「この世の全てには「魔力」と呼ばれる物が内在しています。建物にも、生き物にも、そしてこの中空にも。アキラ様はそれを感知されたのです。」
蛾の羽ばたきが空気を揺らし、それを見たと言うのか。光ではなく、その「魔力」を見たのだ。
「つ、つまり、私はやはり…。」
つまり人間では無い。そういう事だ。見た目は人間だが、そこに備わった能力は、エマの言葉通りに理解すれば悪魔のそれという事だ。
「マジかよ…。」
あまりに突拍子も無い事実に、腰が抜けた様にがっくりと手をついた。その手を見ても、人間の手にしか見えないのに。
「アキラ様。」
エマは佇まいを正し、改めてアキラに向き直る。
「アキラ様のお力をお貸し頂けませんでしょうか!」
これが今日ここに来た本命であると分かる、潔く、力強い言葉。片膝と片手を床に付いて、これ以上ない程に深く頭を下げていた。
「…どういう事でしょうか?」
「はい。我ら魔王国は100年前、大陸にある人間国家、レオニス王国に敗れ、以来、人間の監視下に置かれ、その弾圧に苦しんでおります。」
一国の宰相が頭を下げたまま話す姿を、まるで魔王の様にベッドの上から見下ろしているアキラ。
「本日ご覧になられた親子など、他の者達に比べればまだまし。陵辱し、強奪し、人間達の非道は日増しに酷くなる一方。このままでは我ら魔族は、人間の玩具として、滅びへの道しか残されておりません。」
声が震えている。顔を伏せているが、恐らく涙しながら訴えていることが分かる。
「私共の都合でアキラ様をお呼びし、その上勝手を言う非礼、赦しがたい所業である事は重々承知で御座います。ですが何卒! 何卒…!」
宰相は両膝を付き、更に両手までも床に付く。その美しい額は既に床の上に置かれていた。
「ちょ、ちょっと…!」
コンコン。
驚きのあまり声を上げようとした所に、想定外の訪問者がドアを叩いた。
凍りつくアキラ。
「アキラ、眠れないのか?」
アレックス!
慌ててエマへと視線をやる。
魔王国の宰相で、ヴァンパイアである彼女は、微動だにせず、額を床に付けたままだった。
アキラは悟る。
このままアレックスを迎え入れても、きっと彼女はその姿勢を変えないだろう。ただ黙ってその命を差し出すに違いない。勇者が居ると知っていながら、この宿まで足を運んだのだ。初めから、決死の覚悟を持ってアキラの元へとやって来た。国民の為なら己の命など惜しくない、とでも言わんばかりに。
アキラの脳裏に、昼間の魔族の少女の姿が浮かんだ。
ギリッと唇を噛み締める。
「大丈夫です! その…今取り込み中で…!」
何の策も思い付かないまま、随分適当な言葉しか出て来なかった。アキラの背中を滝の様に汗が流れる。
頼む、そのまま行ってくれ!
「取り込み……コホン。そうか、まだ万全じゃないんだ、ほどほどにしろよ。」
静かな足音を残して、扉の向こうからアレックスの気配は消えた。
思わず「ふぅ〜」と大きな溜息が溢れ出た。何か変な誤解をされてしまった様だが。
見ると、やはりエマはその姿勢を一切崩してはいなかった。見事な覚悟だ、これが国を預かる者かと、アキラは感銘を受ける。前世の日本に、これ程の「政治家」が居ただろうか。相手の上げ足ばかりを取って、何かあれば言い訳で逃げる「政治屋」ばかり。
アキラはベッドを降りると片膝をつき、未だ震えている肩にそっと手を置いた。
「これ程に想われている魔王国の国民は幸せですね。」
がばっと上げた顔は、やはり涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「ア、アぎらざばぁ…」
エマは肩の手を両手に取って、大切に抱きかかえる様に胸に当てると、また涙を流していた。アキラはぽんぽんと優しく彼女の背中を叩いてやった。
ひとしきり泣いたエマだったが、ようやく落ち着きを取り戻したのを見て、アキラは立ち上がる。
勇者を前にその態度を貫いたエマの姿に、アキラの心は決まっていた。自分が魔族だとか、魔王だとかいう自覚は全く無かったが、ただ純粋にエマを助けてやろうと思った。自分を必要としてくれる人が居ると思うと、ただ単純に嬉しかった。
「さて、私も魔族である事が分かった以上、彼らの元にいる事は出来ません。」
真っ赤な目でアキラを見上げるエマ。
「案内してくれますか?」
アキラの言葉を聞いて、驚きと喜び、そうした感情をごちゃ混ぜにした表情を輝かせる。また涙が溢れそうになったエマだったが、それをぐっと堪えて、満面の笑顔を作った。
「喜んで!」
ドレスの袖で涙を軽く押さえたエマは、「失礼します」と言ってベッドに上がると、窓を大きく開け放った。
「この様な所からで申し訳ありませんが、用心に越した事はないでしょう。」
アキラも窓へと寄り、下を覗き込む。二階とは言えこの程度の高さなら、アキラの得た肉体からすれば問題ないだろう。そう考えて片足を窓枠にかけた時、エマが背後から両手を回し、アキラを抱きかかえる。
「アキラ様、上から、ですよ。」
そう言ってポンと窓枠を蹴って身を投げ出すと、まるで上昇気流を捕まえたかの様に、一気に舞い上がった。
「おお…!」
みるみるうちに宿は小さくなり、やがてバアルの街全体を視界に入れられる程の高度に達する。
空には満天の星空が広がっていた。あまりの明るさに、本当に手が届きそうだ。薄い雲の向こうには、果てしないとも思える、広大な牧草地帯や森林が。そして更に向こうには海が見える。水平線は柔らかな円弧を描いていた。
人間達は空を飛べないから、くだらない争いを続けるのではないだろうか。この景色を見れば、如何に自分がちっぽけな存在だと、世界がこんなにも豊かだと解るのに。そんな風に思わせてくれる光景だった。
「美しい…!」
「アキラ様のお治めになる国で御座いますから。」
アキラはハッとする。そんな風に世界を見た事が無かった。
仕事は誰かが与えてくれる。
政治も誰かがやってくれる。
隣人は顔さえ知らない。
山も川も、ただそこに在るだけ。
犯罪や災害もテレビの向こうの出来事だ。
王になるという事は、それらの全てに責任を負うという事だ。眼下の光景を美しい物にするのか、それとも醜い物にしてしまうのか。
アキラは思わずブルリと身を震わせた。
一塊のアニメーターにそんな大それた事が出来るのか。何を守って何と闘うのか。それすら分からないと言うのに。
「アキラ様、少しお寒いでしょうか?」
そう言ったエマは、少し腕の力を強めた。
「ああ…いや、大丈夫です。それより、ちょっと胸が……。」
一瞬きょとんしたエマは、クスッと笑うと、わざと抱きしめる腕をより強くして身を密着させた。
「さあアキラ様、帰りましょう。」
大空に浮かんでいた二人の陰は、ゆっくりと魔王の居城へと降下を始めた。
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