第2話 目覚め
頭が痛い。割れる様だ。
ふわふわと浮かんでいる様な、そして、身体中に何かが這いずり回っている様な感覚。気持ちが悪い。
重たい瞼を、力尽くで開ける。
何だか長い夢を見ていた気がする。体調がすこぶる悪い。とてもじゃないが、仕事が出来る状態じゃ無い。納期が近いというのに、なんて事だ。昨日は早目に寝たつもりだったのに。
会社に連絡しないと。
重たい腕を何とか動かし、いつも枕元に置いているスマホを探すが、見つからない。
あれ?何処へやった?
……いや、その前にちょっと待て。
「……ここは何処だ……?」
そこには見たことの無い天井があった。
いや、天井だけでは無い。あちこちシミだらけで、隅にカビが生えている壁も、ツンと鼻を突く匂いを放つ布団も、自分の物では無い。
…ここは知らない部屋だ。
その時、ギギギと音がして、いかにも傷んだドアが開いた。とんとんとんと足音が近付き、ひょいと顔を覗き込んだ。
「良かった。目が覚めたんですね。」
白いフード付きのコートを着た、若い女の子だ。十代後半くらいだろうか。若いのに手には大きな杖を持ち、覗き込んだ拍子に、様々な宝石が散りばめられた金のネックレスが、目の前にこぼれ出た。フードの裾からは美しい金髪で編んだ、三つ編みが見て取れる。明らかに日本人ではない。
「…どなた…ですか?」
うふふ、と女性は笑う。大きな緑色の目と、小さな唇が可愛らしい。
「私はヒーラーのアビゲイル。よろしくね。魔法で回復していると思うけど、どこか痛むところはないですか?」
「???」
ただでさえ割れそうな頭が混乱する。
ヒーラー?
魔法?
誰かが悪戯しているのか?
何かのテレビ番組とか?
すると、何処かにカメラでもあるのか?
この可愛い子も仕掛け人、とか?
全く事態が飲み込めないでいると、新たな足音が階段を上がって来るのが聞こえた。今度の足音は大きく、粗野な感じだ。
「おお!青年!」
大柄な女性だ。筋骨隆々な身体つき。頭には赤いバンダナを巻き、短く刈られた髪はオレンジ。袖のない、紺色の道着の様な服を着ている。
「俺はリー。武闘家だ。お前をここまで連れて来てやったんだぞ。感謝しろよ。」
そう言ってニカッと笑うと、屈託のない少年の様な陽気な性格が見て取れる。
「はぁ…それは…どうも。」
「なんだぁ?辛気臭え奴だなぁ。」
ゴツい腕を組んで、リーは鼻息をフンっと鳴らした。
「ダメですよ、リーさん。まだ目が覚めたばかりなんですから。」
「おやおや、アビー。優しいじゃないか。そう言えば昨日、えらく丁寧に全身を拭いてやってたな?」
「ちょっ…! そういう事じゃありません!」
アビーは顔を真っ赤にして、パシン!とリーの腕を叩いた。かなり大きな音がしたが、リーは「がははは!」と豪快に笑い飛ばす。
全身を拭いてくれた、と聞いて、その時初めて身体へと意識を向けた。布団の中であっても、自分が一糸まとわぬ姿である事が分かり、急に恥ずかしくなる。
「…ん?」
そしてもう一つ気付いた事があった。いつもと違う。明らかに違っている。
おい、どうなってるんだ?!
頭の中を更なる混乱が駆け巡っている事などお構い無しに、リーがぐいっと腕を掴んで引き上げた。
「ほれ! 怪我も無いんだ。いつまでも寝てねぇでとっとと起きろ。お日さんも真上だぞ。」
ベッドの上に長座になる。やっぱり。
「お水、飲まれますか?」
アビーが差し出したカップを奪う様にして取り、ガブガブと喉へと流し込む。
そして、ゆっくりと、恐る恐るに素足を床につけてみた。ヒンヤリとした感覚が伝わって来る。足の指を動かし、床を掴む。体重を前に掛け、足の裏に預けて行く。
そして、立った。
「あ…あはは…立ったよ…!」
これは夢なんだろうか?
それにしては圧倒的にリアリティがある。
足裏の感覚、膝、股関節の感覚。
自分の体重を支えているのがありありと感じられる。
「あぁ、立派に立ったのは良いけどよ、レディーが居るんだ、前くらい隠せよな。」
アビーは沸騰しそうなくらいに赤面して、視線を逸らしていた。リーはニヤニヤしながら、視線を上下に動かしていた。
「うわああああ! ごっごめん!」
慌てて前を隠すと、リーはバシバシと背中を叩いて大笑いした。大きな手から凄い衝撃が伝わって来たが、こけることもなかった。
「で、兄ちゃん。名は?」
「くる…いや、アキラ、アキラです。」
「アキラか。変わった名前だな。」
そう言いながらもリーは優しい笑顔を見せ、大きな手を差し出した。アキラもそれに応えて手を出し、がっしりと握手を交わした。
遡ること十二時間前、彼は一般的な社会人だった。
名を 来栖 明(22)。
大手ゲームプロダクションのアニメーターで、生まれて一度も自分の足で立った事がない男を、一般的と言えるかどうかは、個人の考え方や社会の在りようにも寄るだろうが。
「明るく元気な男の子になりますように」と名付けられた明は、生まれつき下半身が不自由だった。更に身体も弱く、これまでに何度も大きな手術を繰り返し来た。
物心の付いた頃から車椅子での生活で、小学生の頃には年単位で学校を休まなければならない事もあり、友達らしい友達は出来なかった。本の虫になったのは必然の事と言える。
中学や高校に進学しても同様で、部活動や学校行事にも参加出来ず、放課後は自宅で身体を休めるか、病院で診察を受けるか、小説の世界に没頭するか。
幸いにもいじめの対象にはなった事は無かったが、明はそれが「可哀想な奴だから」という理由によってである事を幼い頃から理解していた。いじめの対象にもされない事が、悔しくて、情けなくて、恥ずかしかった。
両親は本当に献身的で、だからこそ甘えられなかった。いつも笑顔で接してくれて、仕事や明の介護で疲れているであろうに、そんな態度は見た事がない。それが申し訳なく、辛かった。
両親は明の兄弟も作らなかった。また障害を持って生まれて来るのではないかという恐怖からなのか、ただでさえお金が掛かる明を抱えて余裕が無かったのか、はたまた、仮に健康な子供に恵まれても、明と平等に接する事が出来るかと心配になったのか。どんな理由にせよ、明は自分が無関係だとは思えなかった。
自分さえいなければ。
自分さえいなければ、子供を沢山作って、もっと楽しい家庭を築けたのでは無いだろうか。しかし、その一言は絶対に言えない。明が申し訳なく思うように、父も母も、明に対して同じように思っているのだろうから。
小説と同じく没頭したのがRPG。登場キャラクターになりきって、ファンタジーの世界を冒険する。仲間たちと野を駆け、未知の迷宮に挑み、己を鍛え上げる。ゲームの世界には、明が望むフィールドが広がっていた。
なるべくしてなったアニメーターの仕事は楽しかった。ゲームデザインにおけるアニメーターとは、キャラクターに動きを付け、演技させる仕事だ。歩かせ、走らせ、ジャンプさせ、キャラクターに命を吹き込む仕事。明の動かすキャラクターは活き活きと画面の中で躍動し、明は自身の望みを、キャラクターに昇華させる事に夢中になっていた。
体調が優れなくなったのは最近になってからだ。疲れやすくなり、頭痛に悩まされ、時々仕事を休むようになった。
そう、昨日もそんな一日だった。納期も近付き、明日に備えようと早目にベッドに入ったのだが…。
もしかすると、そのまま目を開けなかったのかもしれない。だとすると、ここは天国?
「おいアビー。いつまでもアキラに見惚れてねぇで、着替えでも用意してやったらどうなんだ?」
リーの一言にはっと我に帰るアキラ。アビーは頰をぷくっと膨らませたまま、リーの腹にパンチを見舞い、部屋を出て行った。
「おいおい、こりゃマジかもねぇ…。」
リーはボヤきながらアビーを見送っていたが、視線をアキラに戻すと、それまでアキラが寝ていたベッドにどっしりと腰を下ろした。
「名前も変わってるが、見た目も変わってるな。何処の出身だ?」
変わっているのはお互い様だと思いつつ、何と答えていいのか分からないアキラ。
「すみません。頭が混乱していて…これまでの記憶が定かじゃ無いんです。」
「おいおい、大丈夫かよ。無理矢理起こしちまって悪かったな。」
目をまん丸にして真剣に心配してくれるリーに、アキラの方が悪い気になってしまった。見た目はゴツいが、根は優しい女性の様だ。
「いえ、大丈夫。それより、ここは何処なんですか?」
見た感じは古い木造建築の二階。しかし、服装や文化、民族はアキラの知る日本ではないのは明らか。
「ここは魔王国のバアル。大通りにある宿屋だ。俺たちの根城だな。」
魔王国…バアル…だと?
何を言っている?
リーが嘘を付いている様には見えない。聞いたこともない…と言うより、アキラの知る所のファンタジー世界みたいな話だ。何にせよ、ここはかつてアキラの存在していた世界とは違う。それだけは確かな様だ。
アキラが困惑しているのを見たリーは、ポカンと口を開け、アキラに負けず困惑した顔を見せた。
「こりゃ重症だな。って事は、お前、昨日の事も憶えて無いのか?」
アキラにある昨日の記憶と言えば、見慣れた実家と優しい両親の顔。デスクの上にあるPCと、壁一面に収納されたおびただしい数の本。ドアに貼り付けたアイドルグループのポスターも鮮明に思い出せる。そして、自分の足となっていた車椅子。
しかし、恐らくリーが言っているのは、そういう事では無いだろう。
「な、何も憶えて無いんです。何があったんですか?」
はぁと溜息を漏らしながら首を横に振るリー。
その時、階段に三つの足音が聞こえる。ギッと音を立てて扉が開かれ、すらりとしたスマートな男が姿を見せた。
「やあ、気が付い……。」
と、そこまで言うと、何故かバタンと勢いよく扉を閉めてしまった。ポカンと呆気に取られるアキラとリー。やがて扉の向こうから、気まずそうな声が聞こえて来た。
「すまん、取り込み中だったようだな…。」
はっとしてアキラは自身を見る。女性と二人きりで、アキラはシーツで前を隠しているのだ。リーはガタイは良いが、これでも一応女性だ。
「ち、違う! 誤解です!」
「がっはっはっは!」
擦った揉んだあったが、誤解は解け、アキラはアビーから着替えを受け取り、身にまとった。ようやく一安心と、ほっと息を吐く。
そして自身を鏡に映してみる。
気付いてはいたが、こうして見るとやはり別人の様だ。
髪が真っ白になっており、胸元まで伸びている。昨日までは黒髪で、少し長めのセンター分けにしていたはずだ。そして改めて思うのは、自分の足で立っている事。やはりこの身体は、昨日までとは別の身体だ。
身長は180くらいだろうか、結構な長身に見える。立った事がなかったので、元々の自分の正確な身長を知らないが。やや痩せ型であるが筋肉質で、目つきがシャープな美男子。
「下で一杯飲みながら話そうか。」
アレックスという男に誘われて、階下に降りたアキラの目に飛び込んできたのは、余りにも驚愕の光景だった。
宿屋の一階は酒場になっているようだった。椅子やテーブルは古ぼけており、シミや傷が目立つ。カウンターには数々の酒瓶の様な物が並べられ、その奥にはこの宿の主人がコップを磨いていた。
アキラを驚かせたのは、そこにいる人々の姿。そこに人間はただの一人も居なかったのだ。
虎の様な風貌の男、蜥蜴頭の男、更には昆虫の様な者まで、かつてゲームやアニメの中でしか見た事がない者達が、現実のものとしてそこに居た。
「ば、ばかな……。」
アキラは階段を降りきれず、途中で足が止まってしまう。余りの驚きに身体が硬直する。
しかし何故だろうか。恐怖は感じない。どう表現したものか、自分の居場所に帰って来たかの様な感覚。人間も眼前のクリーチャー達も、同じ様に感じられる。
足を止めたアキラを見て、アレックスは気遣いの言葉を投げかけた。
「アキラ、大丈夫だよ。ここは人間の街じゃ無い。魔族の街なんだ。でも安心して良い。僕達と一緒に居れば安全さ。」
明らかな差別発言。アキラには気遣いをしてくれたが、魔族には気遣いしないんだな、とアキラは思った。少し残念に思いながら、勧められた席に着く。周囲の魔族の者達は警戒した様に、席を移るなどして距離を取った。
そんな事など、まるで目に入っていないかの様に、アレックスは軽快な口調で宿の主人に注文を飛ばした。
「親父、ビール五つ頼む。」
間も無くしてビールが五つ、テーブルに並んだ。
「改めて紹介させてくれ。僕はアレックス。こんなだけど一応は勇者さ。」
軽く笑いながら自己紹介するアレックス。
金髪の髪は綺麗に整えられ、ブルーの瞳と白い肌は、アキラの知る白人の様だ。ハンサムで、いかにも女性にモテそうだ。
騎士の様な白い鎧をまとっており、細かい装飾を見れば、それが一級の装備である事はアキラにでも理解出来た。ガントレットやグリーブ、サバトンも同じシリーズの様に、装飾や色も統一されていた。
そして最も目を引くのは腰に下げた剣だろう。
鞘に収められているが、その鞘自体が普通の剣ではない事を物語っていた。見た感じではロングソードだろうか。
アキラがジロジロと見ていると、アレックスもそれに気付いたようだ。
「ふふ、これが気になるかい? これは『聖具』と呼ばれている物の一つさ。こいつは愛刀、聖剣デュランダル。」
酒場であるにも関わらず、スラリと刀身を抜き放って見せる。周囲の客は恐怖を漂わせていたが、アレックスは逆にそれが誇らしい様で、「ふふふ」と得意げな表情だった。
勇者という肩書きの者が居るのか。という事は、魔王なんかも居るのだろうか。そして聖具という物は、他にもあるようだ。
アレックスはデュランダルをひとしきり見せびらかした後、美しい所作で鞘へと収める。
「で、こちらは我がパーティの知恵袋、ウィザードのオズワルド。」
魔法使いをイメージすれば、百人中百人がその姿を思い浮かべるであろう老人。白く長い髭にとんがり帽子。深いグリーンのローブに、様々な指輪や腕輪、ネックレスが、ファッションとしても馴染んでいる。それらは恐らくマジックアイテムの類であろう事は見て取れる。
「フォフォ。はじめまして。オズワルドです。皆にはオズと呼ばれております。」
年長者であるにも関わらず深々と頭を下げるオズ。アレックスの様に若さは無いが、深い知性と理性、倫理性を感じさせる老人。
今更、もう何にも驚く事は無いと思っていたが、やはり「魔法使い」と聞いては、心踊らさずにはいられなかった。この世界には魔法という物が存在する。それだけで、アキラの胸は高鳴った。
「それから、彼女は武闘家のリー。アキラの方が良く知っているかもな?」
アレックスの冗談に、またしても豪快な笑いで答えるリー。一応そこは否定して欲しい所なのだが。
「アキラ、よろしくな!」
太い腕で敬礼する様なポーズを取り、パチリとウィンクして見せた。わざわざ誤解されるようにして、彼女は楽しんでいるのだ。オズも「フォフォフォ」と、楽しそうだ。
「それから、パーティーの要でもある、ヒーラーのアビゲイル。聞く所によると、アキラに夢中みたいだね。思わぬ三角関係勃発かな?」
「もー!」と、アビーは怒って見せた。それを見たリーは、アビーをガシッと抱きかかえ、頭をグリグリと撫で回す。
「アキラさん、ごめんね。」
そう言って、ペロっと舌を出すアビー。あざとさも無く、それを極自然体で出来るアビーはキュートだ。
それぞれの個性が上手く合わさっているように見え、アキラは少し羨ましく思う。心を許しあえる仲間など、アキラには経験のない事だったから。
「良いパーティーなんですね。」
全員がふと動きを止め、互いを見合う。そして恥ずかしそうに笑った。あのリーでさえ。
「ありがとう。そうだね。良いパーティーだと思うよ。」
ここは自分の居場所じゃ無いんだな、とアキラは寂しく思いつつ、グラスを持ち上げて皆と乾杯した。
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