第9話 初詣

私は溜息をつくと、踵を返し、人波に身を任せるように下賀茂神社へ向かった。


下賀茂神社の本殿へと続く糺の森は、普段は静かだが、今日はいつもにもまして大勢の人が参拝しており、とても賑やかだった。しかし、京都に都があった時代からほとんど姿を変えていないであろうこの森の中を歩くと、傷ついた心が少しだけ癒される気がした。不思議なもので、大勢の人々に囲まれて歩いているはずなのに、一人で歩いている気がする。


気づくと本殿の前に来ていた。下賀茂神社では、干支の守り神を祀った言社と呼ばれる小さな社の前で、それぞれお参りをすることが慣例になっている。


言社は七つあり、子年生まれは大国主命の社で、丑年生まれと亥年生まれは大物主命の社で、巳年生まれと未年生まれは大国魂命の社で、午年生まれは顕国魂命の社で、卯年生まれと酉年生まれは志固男神の社で、虎年生まれと戌年生まれは大己貴神の社で、そして、辰年生まれと申年生まれは八千矛神の社でお参りをする。


虎年の私は大己貴神の社の前の列に並んだ。私の順番がやって来た。私は賽銭箱に小銭を入れた。ここで私ははっとした。拝礼の作法を忘れしてしまったのだ。私の後ろには長蛇の列ができている。誰もが希望に満ちた顔で、自分がお参りする順番を今か今かと待っている。私は剣道サークルのメンバーに教えてもらった拝礼の作法を必死で思い出そうとした。


二礼、二拍、一礼・・・、あれ、二拍、二礼、一礼だったか。私にはどっちが正しいか分からなかった。気持ちは焦るばかりだ。


私の一年のスタートは最低であった。そのため、初詣だけは正しく行いたかった。初詣の作法まで間違えてしまったら、さらに苦難が押し寄せてくるような気がした。これ以上の悲劇はごめんだ。この流れは絶対に止めなければならない。私は自分で答えを出すことに限界を感じ、隣の参拝者を参考にすることにした。神聖な場所でカンニングをすることに多少罪悪感を覚えたが、背に腹は代えられない。何としてでも正しい作法でお参りを済まさなければならない。


しかし、神様はちゃんと見ているようだ。


隣の八千矛神の社の前にいた参拝客は、ペルーあたりの民族衣装とみられるド派手なポンチョを身にまとった海外からの中年男性の旅行者であった。立派な口ひげをたくわえたその旅行者は、スペイン語でぶつぶつと独り言をつぶやくと、私を見た。


私には分かった。『このおっさんも正しい参拝の作法が分からないんだ』と。


彼の一年の始まりもきっと酷かったのだろう。彼も初詣で心機一転を図ろうとしたいはずだ。しかし、正しい拝礼の作法が分からない。そこで、隣の参拝客、つまり、私の真似をすることにした。彼は安心したはずだ。コイツは日本人に違いない。

『よっしゃ、ついている。日本人なら正しい方法を知っているはずだ。コイツを真似すればいいんだ』

彼の表情は希望に満ちていた。しかし、彼にとって不幸だったのは、私がテキサス生まれ、テキサス育ちの人間だということだ。馬の乗り方なら分かるが、神社の拝礼の作法に関する知識は、日本に初めて来る旅行者とさほど変わらない。


こうなったら、賭けに出るしかない。そして、私は一拍、二礼、二拍に私の一年を託すことにした。私はお祈りをしながら、薄目を開けて、そっと隣の旅行者がどのように拝礼をしているのか確かめてみた。やはり、私と同じように一拍、二礼、二拍の順番で拝礼をしていた。


私は拝礼を終えると、念のために他の参拝者の拝礼の作法を確認した。まずは賽銭を入れ、鈴を鳴らす。ここまでは正解だ。しかし、私の次に拝礼をしている高齢の和装の男性の参拝者は、深く二度礼をした。私は愕然とした。その後、男性の参拝者は二度柏手を打ち、一礼した。


私は殺気を感じた。


八千矛神の社で参拝したポンチョの男性が、怒りに満ちた目で私を見ていることに気づいた。再びスペイン語で何か独り言をつぶやいている。恐らく、私に対する軽蔑の言葉を並べているのだろう。表情を見れば分かる。ポンチョの男性は私に憎悪の視線を向けた後、たった今お参りした社の前にできた行列の最後尾に再び並んだ。やり直すようだ。しかし、私は再び列に並ぶ気にはなれず、アパートに戻ることにした。


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