第8話 想い

誰かが私の手首を触っている。

「よかった、脈はあるようだ。おい、大丈夫か」

誰かが私に話しかけている。佐々木由紀であったら、私は飛び起きていたが、明らかに男の野太い声であったため、私は気づかないふりをした。しかし、声の主は今度は私の頬を叩き、半ば強引に私を起こした。

「大丈夫ですよ」

私は目を見開いた。冬の太陽が私を照らしていた。そこに男がぬっと顔を突き出してきた。

「よかった」

声の主は20代後半の交番勤務の若い警官であった。

「死んでいるのかと思ったよ」

警官は笑顔でそう言うと、私に肩を貸して、起き上がらせてくれた。右腹に激痛が走り、私は顔をしかめた。

「君、こんな場所で剣道の試合をしていたんだって?」

「ええ、ちょっと理由がありまして」

「見物していた人が通報したんだ。君が死んだと思ったらしい」

「生きてますよ。ちょっと痛むけど」

私は北村雄平の竹刀を受けた右腹をさすった。

「今日は元旦だ。普通の病院はやっていないから、急救診療所に行きなさい」

「はい」

私は警官と別れて、重い足取りで歩き始めた。デルタから賀茂大橋に上がると、近くの賀茂御祖神社、通称、下賀茂神社へ初詣を向かう人々が橋を行き来していた。誰もが始まったばかりの一年に心を躍らせているように私には見えた。私は欄干に両手を置き、デルタから北東に向かう高野川、そして、その先にそびえる比叡山をみつめた。


それに比べて・・・


私の一年の始まりは、はやく一年が終わってほしいと思うほど辛いものであった。人生を捧げてきたといっても過言ではない剣道で、完敗したのだ。しかも、恋敵に。


ただでさえ高嶺の花であった佐々木由紀は、高嶺の花どころか、空のかなたへ飛び立ってしまった気がした。佐々木由紀は、とても美しく、とても、優しい人だった。


長く、美しく、艶やかな黒髪、意志の強さを感じさせる瞳、高くはないが筋の通った鼻、そして、きりりと引き締まった口許。私が独断と偏見で決めた美人の定義を全て満たしていた。


そして、佐々木由紀は剣道を愛していた。稽古中は松尾女史と同じように、さぼりがちなメンバーに目を光らせ、何度もカミナリを落とした。単なるマネージャーではなかった。時に声を荒げ、時に負けて悔しがるメンバーを励まし、そして、剣道歴の浅いメンバーには的確な指導も行っていた。葛城智彦こと、トモッチに中段構えの姿勢の悪さを指摘している姿を見て私は一度、疑問をぶつけたことがあった。


「佐々木さんは剣道やってたの?」

すると佐々木由紀は一瞬驚いた表情を見せたものの、すぐにいつもの笑顔を浮かべ、

「え?そんなことないわよ。ネットで少し研究しただけ」

と言った。


冷泉堂大学剣道部改め剣道サークル、そして、剣道そのものを愛した佐々木由紀が、どんな気持ちで私と北村雄平のデルタの戦いを見守り、そして、どんな気持ちで私の完敗を見届けたのか。私には想像できなかった。


恐らく、いや、大晦日に二人で八坂神社に来ていたくらいだ、九十九パーセント佐々木由紀と北村雄平は付き合っているのだろう。しかし、私に向けられた北村雄平のあの怒りに満ちた視線から察するに、二人が幸せを満喫しているカップルだとは思えなかった。もし、私が勝っていたら、佐々木由紀はどんな運命をたどっていたのだろうか。私と付き合ってくれるかどうかは別として、少なくとも佐々木由紀は北村雄平に見切りをつけることができていたのかもしれない。そうすれば、またあの眩しい笑顔を私たちは間近で見ることができたのかもしれない。そう考えると残念でしかたない。しかし、正直に認めざるを得ない。北村雄平は強かった。今まで手を合わせてきた誰よりも強かった。私は完膚なきまでに叩き潰されたのだ。


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