五 名前

今になって思えば、と。

幸子は一人、暮れなずむ夕日の中を歩きながら思う。

弱かった。

類は父や祖母に反対することが出来ないまま、幸子への想いを募らせた。

彼の妻であった翡翠が、哀れだった。

いつもこの時間に、家へ帰ることはない。

夕日を眺めながら帰る、という行為に幸子は感傷的な気持ちになる。

幼い頃より母を助け、弟を都会の学校へ行かせるため働いてきた。

別れた夫との仲は、最初から分かっていたことだから仕方がない。

それでもさよならを告げられた時、僅かに痛む心に、幸子はどうにか出来なかったのかと思ってしまう。

自分も類同様に、彼から受ける想いを振り切ることもできず、かといって結婚した夫ともいい関係を築けなかった愚かな己を思う。

だから、身勝手にも一緒に堕ちてなど。

この年になっても拒むことも出来ないまま、あの日から関係が続いている。

なぜ、あの時、一緒に駆けだしていればと。

埒もない考えに、幸子は捕われていた。

何て浅ましいのだろう。何て、酷い女なのだろう。

自分をいくら正当化したところで、意味はない。

あぁ、このまま、死んでしまいたい。

幸子は、駆け足で家の玄関を開けると、そのまましゃがみ込んだ。

自分の弱さが醜かった。愚かで醜悪で、目を向けることすら、汚らわしい。

それが己の中にあることを幸子は、体を丸めて蹲った。

「幸子、かい?」

顔を上げると、年老いた母が首を傾げていた。

「どこか、具合が悪いのかい?いつもより、早いし、それに、顔色も悪い」

「そう?」

ぎこちなく笑う幸子を、母はとりあえず、上がっておいで、と手招きした。

黒く、汚い内面を知られたくなくて、顔を背けたまま、幸子は上がった。

囲炉裏の傍へ、しゃがみ込むと、母が熱いお茶を出して来た。

「とりあえず、お飲み。お前には苦労ばかりかけさせているからね」

「お母さん………」

幸子は、母から受け取ったお茶に口を付ける。啜って、喉へ流し込むと、温かくて、清らかなものが指先まで満たしていく。

もう、ダメだ。

幸子は、ボロボロと子供のように大粒の涙を流した。こんなことを、母に言ったとしても、意味がない。

自分で始末を付けなければならないことだ。

「旦那さまとのことかい?」

「知って、いたの」

頷く母に、幸子は驚きよりも納得の方が先に来た。

何もないこの田舎で、隠し事をし続けるのは難しい。それが、神山家のことであれば、尚のこと広まりやすかった。

「あんたと旦那様が相思相愛であったこと、分かっていたよ。でもね、この村のために神山家は続いてもらわなければならなかった。だから、あんたも分かってくれたんだろう」

この村は神山家に住むと言われる神によって、恩恵を受けている。だが、類が産まれ、彼の母親が死んでからは、不作が続き、思ったように育たなかった。

こんなご時世だから、買いに行くものも高く、手が出せない。

この村を養っていたのは、あの家だ。

「奥様は、この村のために人柱になられた。そして、幸子。あんたが、問題なんさね」

「問題なのは分かっています。お互いの気持ちを抑えきれず、旦那様と関係を結び続けていることは、お母さんに言われなくても分かっています!」

「そうじゃないんだよ!」

ぴしゃりと言われ、幸子は口を噤んだ。

「あんたは、旦那様の子を妊娠しているんだよ。神主さんが言いに来たんだよ」

「妊娠?」

ぽかんと口を開けた幸子に、母は語って聞かせた。

この村の全ての催事を取り仕切っているのは神山家だが、唯一の神社に住まう神主は、一つの祭事を執り行うとされている。

「それが、継承の儀と言われるものさ」

代々の神山家長女に受け継がれていく神を守る力。

その力は、たった一人が受け継ぐ。

「それの理由は、神を守る結界が破られることを意味する。そして、継承の儀に使われるんだよ」

神の前で、長女以下次女を犯し、その生気を捧げることで完成するもの。

「長女以外、産まれなかったらどうなるんです?」

「産まれなかったら、この村に住む適齢期の娘が担う。しかし、この村には美佳子さまと近しい女がいないんだよ。この村で産まれるか、神山家の血筋でなければならない。そういう決まりさ。どうしてだが、知らないがね」

母は、幸子の手をぎゅっと握りしめた。こわれ物でも扱うように。

「神主さんだけが、長女以外の女の誕生を予見することができる。あんたの腹にいるのは、旦那様との子供。そして、女の子なんだよ」

「そんな………。けど、もし結界が破られてしまったら、この村はどうなってしまうの?」

幸子は、歯の根が合わなくなりながらも、叫んだ。

将来、産まれてくるだろう我が子が、神の前で強姦される姿に、幸子は奥歯を噛みしめた。

「そうなれば、人柱を立てるしかない。代わりの神を立てるだけだ。そうやって、この村は存続してきた」

明日の天気でも言うような何気なさで。

幸子は母の言ったこれが日常であり、村の普通なのだと知った。まだ、自分も知らなかった本当のこと。

じゃあ、あの家にいる神は以前はこの村の人間だったのか。神山家の人間なのか。

追求したい気持ちを堪え、幸子は手の中のお茶を口に含んだ。すっかり冷えたお茶が喉を通る。

それは、幸子を落ち着かせず、ただ加速させただけだった。

「産まれてくる子は、儀式に使われる、だけなの?」

身を乗り出して聞けば、母は首を振った。力なく、この短時間で彼女が年を取ってしまったように。

「儀式が終わっても繰り返される。一生、自由はない。旦那さまが産まれる前の次女さまが、ずっと身を粉にして守ってくださったからね。実際、この村には次女さまの子が幾人もいる。それを把握しているのは昔の連中だけさ」

ぞっと這い上がる寒気に、幸子は体を震わせた。

村人全員で、先々代の次女を犯し続け、生まれた子が幾人もいる。

だとしたら、相当な高齢まで使われていたことになるが。

「中にはいる。そういう趣味な者ががな。まぁ、亡くなった次女さまの墓は、神山家に入らず、神社で祭られることになっている」

だから、神主が幸子のことを言ってきたのだ。

「きっかけはもう分からない。だが、続いてきた伝統は守らなきゃならない。幸子、お前は子を、弟のところにおやり」

村のためと言ってた母であるのに、幸子は怖々問うた。どうして、と。そう言うと母は、視線をうちに飾られている遺影に目を向けた。そこには、早くに亡くなった父が飾れている。

母は、何事もなかったように幸子へ視線を戻し、小さく笑った。

「子は、可愛いものだからね」

拍子抜けするほどあっさりしたものだった。幸子は、きょとんとして母を見返す。

なぜ、母が父の遺影を見たのか、それを問いただすことはついぞなかった。

 

 

***


 


 幸子は、その後弟に手紙を書いた。

類との間の子供を身ごもったから、その子を弟に預けたい。

返信は、間を置かずに届けられ、それは構わないという返事だった。

弟は結婚を約束した彼女がいて、聞いてみたら彼女も了承してくれたという。

トントン拍子に運ぶ子の後に、幸子はホッと息をついて、弟からの手紙を胸に抱きしめた。

その後、何度も繰り返し弟と手紙を交わし、彼女とも手紙のやりとりをするようになった。

産まれてくる我が子がどうか、幸せであるように。

この村から出て、幸せになってほしい。

美佳子の継承の儀のときは、自分が生け贄になることが決まったと、母から聞いた。

自分はいい年齢だし、大丈夫かという疑問を口にすることはできず。

ただ、その行為は気持ちでするのではなく、村のためだった。

幸子は、祈るような気持ちで膨れてくる腹を優しく撫でた。

やがて、時が過ぎ。

幸子は、女の子を出産した。

神主が言っていたとおりに産まれた子を、幸子は持て余していた。

類は出産に立ち会うことができず、母と弟が付き添ってくれた。

産まれてきた我が子はとても小さく、抱き潰してしまわないか心配だった。

優しく抱いて、甘い匂いのする額を合わせながら、幸子は泣いた。

しかし、幸子は産まれて一ヶ月経つのに名を決めてはいなかった。

弟の彼女に付けて欲しいと言ったら、自分に名付けを譲ってくれたのだ。

名を言えば愛が湧く、手放せなくなるから。

そう言っても、弟は幸子が落ち着くのを待って都会へ戻り、二月後の訪れを約束した。

二月。それが、幸子と我が子の制限時間だった。

娘をおんぶしながら、幸子は家の表へ出た。

昼の暖かな日差しに、幸子は目を細めて、体を揺らす。

あまり手の掛からない我が子は、大人しく目を瞑って眠っている。

「ふっ…………」

風が少し冷たい。

夏の盛りを過ぎ、これから秋へ向かう頃。

これが秋になれば、幸子は子と別れなければならない。

恐らく一生、会うことはないだろう。

「幸子さん」

「旦那さま!」

名を呼ばれ、振り返ると類が息せき切って立っていた。

何年も会ってないような気持ちになり、幸子は駆けだしていた。

駆けだして、両手を広げる類の胸に飛び込んだ。

「類。会いたかった」

「遅くなってすまなかった。仕事が忙しくて、なかなか行けなくてごめん」

背中に回された手と腕の感触に、幸子は目を閉じた。

類の香りを吸い込んで、満たされると彼の顔を見上げながら言った。

「名を、名付けてください。あなたと私の子の!ずっと、お待ちしてました」

ぎゅっと類を掴むと、彼は目を細めて笑った。

「もちろんだよ。幸子さん」

鼻と鼻をくっつけて、唇を落とす類に幸子は、胸が締め付けられる想いがした。

どうか、我が子には幸せになってほしい。

自分のように、怖じけることなく、ただ真っ直ぐに相手を愛してほしいと。

「小さな夜と書いて、小夜(さよ)は……どうだろう?」

「えぇ、小夜ね。いい名前だわ」

 幸子は何度も小夜の名前を呟いた。

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