三 翡翠

その日は庭に積もった木々が、まるで雪の華のように見えた。

家の入り口で、二台の人力車が並んで止まる。その一台に、艶やかな着物の少女が乗っていた。

もう一台には、少女の父親が着ぶくれた姿で乗っており、彼らが下りてくるのをぼんやり、類は眺めていた。

 車夫(しゃふ)の、荒い息が、現れては消えてる。

今年は雪が深い、と意識を放ちながら類は、他人事のように思った。

二人見たさに集まった使用人の中に、幸子の姿を見て類は何とも言えない気持ちなった。

そして、椿の紋が入った羽織袴姿の類と父、そして祖母が玄関先に立ち、彼らを出迎える。

神山家の門前には、興味本位の村人たちがこぞって顔を並べていた。

「こんにちわ。今日はあいにくの天気になってしまって申し訳ありません」

帽子を脱いで、こちらへ歩いてくるのは四十ほどの男性だった。

線の細い顔に、恐らく体型の倍に膨れあがった姿は滑稽で、類は笑いを堪えるのが大変だった。

「いいえ。来て下すってありがとうございます」

よそ行きの祖母の声に、類は車夫の手を借りて下りてくる一人の少女に吸い寄せられた。

乗っていた時は、傘をかけていたので顔は見えなかったが。

雪のように白い肌に、紅の頬、黒檀のような髪に椿の簪が挿してあった。

着ている赤染の着物に菊の文様、背景の俥と調和して、類は息を飲んだ。

母の持つお雛様のような人だと、思った。

少女は、類と目が合うと口元を綻ばせて、ゆっくりと歩いてくる。

雪の積もった上を歩く姿は、天女のようだった。

現に後ろで使用人たちから、ため息が漏れる。

「はじめまして、翡翠(ひすい)と申します」

少女、翡翠は、類の少し手前で立ち止まった。彼女は、類より少し背が高く、とてもいい匂いがする。

背筋がぞくぞくするような感覚に、類は何度も首を縦に振った。

「はじめ、まして。類と申します。遠路はるばるようこそ、お越し下さいました」

教えられたとおりの言葉を言うと、翡翠はくすりと笑った。

「私、ほとんど外へ出たことないの。だから、お屋敷を案内してくださらない?」

「娘は体が弱くてね。外に出ても雪ばかりで詰まらないだろう」

「そんなことないわ。場所が変われば、気持ちと変わってよ。ねぇ?ダメ?」

翡翠は父親につんと唇を尖らせると、類の方を見つめて、小首を傾げた。

「いや。僕で、よければ」

嬉しい、と言われて、類は何度も手を袴の裾で汗を拭った。

そして、父と祖母、翡翠の父は先へ中へ入っているとのことで。

類は翡翠を連れて、中庭へ案内した。

ここも、玄関同様雪が積もっており、せっかくの日本庭園も魅力が全くなかった。

でも翡翠は、思ったよりずっと広くていい、とクルクルと傘を回して笑った。

庭を歩きながら、翡翠はぽつりぽつりと自分のことを話した。

父が言ったとおり、体が悪く、日々を部屋の中で過ごしたため、友達もいない。

勉強は自宅に教師を招いているため、問題ないこと。

「ここで、お友達が出来るとよいのですけれども、皆様。私と、お友達になってくださるかしら?」

「もちろん。ここの使用人も村人たちもいい人ばかりだ。翡翠と友達になってくれるはずだよ」

類は強気にそう言うと、翡翠はあら、と傘を回す手を止めた。

「あなたが一番最初の友達になっては下さらないの?」

「もちろん!なるに決まってるじゃないか!」

思ったより大きな声が出てしまい、赤くなる類を翡翠は笑った。

類は、火が付いたように体が赤くなって、穴があったら入りたくなった。

「……坊ちゃん?」

 耳に届くよりも早く類は振り返ると、そこには幸子が、盥を抱えて立っていた。

「料理長に言われて山へ行くところなんです」

「盥を抱えてか?」

 そう指摘すると、幸子は今気づいたとばかりに笑い出す。

「あらやだ。置いてくるのを忘れてたわ」

「相変わらず、幸子さんはそそっかしい」

「そんなことないですよ。坊ちゃん……」

 ふいに途切れた幸子の視線の先には、翡翠が立っていた。

「始めまして、翡翠お嬢様。幸子と申します」

「始めまして……幸子さん?」

「どうぞごゆっくりしていって下さい。お嬢様……では、これで失礼します」

「あっ……」

 何かを言いたそうな翡翠だったが、早足にかけていく幸子を見送る。

「あなたの気分を害するようなことを言いましたか?」

「いえ、違うんです。優しそうな方ですね」

 そう微笑む翡翠の手を類は、ひいた。

翡翠と繋いだ手は、とてもやはり冷えて冷たかった。しかし、徐々に熱が伝わる。

その感触は、柔らかくて壊れそうで。幸子の堅く、荒れた手とは違うことに。

その違いを振り払うよう、類は芦早に庭を横切った。



**



 その日の夕刻。

神山家唯一の洋間に、類はいた。

頭上には、シャンデリアが吊り下げられており、類の隣に父が座り、向かい合って翡翠と彼女の父親。

そして、一番奥に祖母が座って、食事を取っていた。

星屑のような光の中、ナイフとフォークを使って、カツレツを食す。

凄い念の入れようで、と祖母に視線を送りながら、類は呟く。

すると、父が類の方へ顔を向けてきた。

「どうかね。彼女は?」

「はい。とても可愛らしい人だと思います」

額面どおりの事を父に伝える。ただ、ふと幸子の顔が頭をよぎった。

何も知らぬ翡翠は、頬を染めて俯いて、恥ずかしそうに口元を覆う。

刹那。

彼女の顔が血の気を引くように白くなり、抵抗もなく体は父親の方へ倒れていく。

立ち上がろうとする類を、翡翠の父親は制し、何事も無かったように娘を姫抱きにした。

「部屋に、案内してください」

「医者を呼びましょう。これに何か入っていたかもしれません」

 そう言って、祖母は皿に残るカツレツを睨みつける。

 背後にいた白い帽子を付けたコックが、傍目から見えるほど青ざめていた。

「いえ。ご心配には及びません。いつもの発作です」

そう言うと、控えていた使用人に、部屋を案内するよう頼むと、そのまま部屋を出て行ってしまう。

「類。あなたはここで食事の続きをなさい。私が参ります」

「おばあ様!」

「座りなさい。何も出来ないあなたが行っても邪魔になるだけ、行くのなら食べ終わってから行きなさい」

有無を言わさない言葉に、類は目の前にあるカツレツを睨んだ。

祖母は立ち上がると、彼らに続いて部屋を出て行く。

残されたコックと共に、類は父に掴まれていた腕をようやく振りほどいて、座り直した。

やはり、あの時、翡翠の言うとおり、庭を案内するのではなかった。

思っていたよりずっと、彼女の病状は、悪いのかもしれない。

そう考えるといても立ってもいられなかった。

でも、祖母の言いつけを守らねばならず、無理矢理カツレツを口に運んだ。

そして、ごちそうさまの挨拶もそこそこに部屋を出ると、一目散に客間へ向かう。

渡り廊下を歩いた先にある平屋建ての家。そう呼べる部屋の障子を開けた。

するとちょうど、祖母が呼んだ医師と目が合った。

ありがとうございました、と頭を下げると、医師も同じ言葉を返す。

医師の後ろ姿を見送ることなく、類は中へ入った。

普段、使われることない客間は入った瞬間、埃っぽい匂いがする。

それに次いで、消毒液の匂いがして、類はそれ以上入ろうとする足を止めた。

翡翠は、そんなに悪いのか。

医師が来るくらいだから、悪いのは当たり前かと思い直す。

口内にカツレツの脂っこさに、類は口元を押さえた。

やはり、食べるのではなかった。

視線を奥へ向けると、薄碧のレースが垂れ下がった天蓋に包まれたベッドがある。

そのベッドに翡翠が眠っており、薄く胸元が上下するのが遠くからでも分かった。

脇には彼女の父と、類の祖母が並んで立っていた。

祖母は、類の方へ振り向くと、隣にいる父親の肩を叩いて、退出を促した。

「娘を見ていて下さい」

「はい」

頭を下げて、祖母と父親を見送ると、類はレースを引いた。

静かに眠る翡翠は、ただ美しかった。ふっくらとした唇は、思わず触れたくなる誘惑さがある。

だから類は、それに抗うことなく、手を伸ばして、翡翠の前髪に触れた。

額にしっとりした汗を掻き、指先に当たる感触は柔らかい。

ベッドの足元には、トランクが積まれたままになっていた。荷は解かれた様子はなかった。

すると、翡翠は閉じた瞳を開いた。

眠れるお姫様が、目を覚ますようで、類は何だかクラクラした。

「ごめんなさい。驚かせてしまって」

「大丈夫です。お体の具合はどうですか?」

類がそう聞くと、翡翠はゆるゆる首を縦に振った。

「早く良くなって遊びたいわ」

「その時は、ご一緒に遊びましょう。もちろん、使用人の方も誘って。きっと、楽しいですよ」

翡翠の青白かった顔に、赤みが差す。彼女は、布団の中から類の方へ手を伸ばしてきた。

その手を類は、握った。翡翠の手を握るのは二回目だったが、掌に収まる小ささと柔らかさに、吐き気がした。

 


 * 



 翡翠の部屋を退出し、使用人が声をかけても類は無視して、中庭へ下りる。

雪が舞っていた。

さぁと身を包む冷気を物ともせず、類は深く息を吸い込んだ。

そうすると、頭の先からつま先までが一本の線が入ったような感覚がして、類は真っ直ぐ前を向いた。

そして、先ほど翡翠と繋いだ手を開いたり閉じたりする。

柔らかく細く、こわれ物のような翡翠の手。

そして、堅く荒い、幸子の手を交互に思い出す。

どうしても、幸子と翡翠を重ねて、その違いを目の前に見せつけられる。こんなこと、翡翠に対して申し訳ないのに。

それでも、重ねずにはいられなかった。

「幸子……さん」

今すぐ、幸子の元へ行って彼女を抱きつきたかった。その胸に顔を埋めて、匂いを吸い込んでいたかった。

類は自分の体を抱きしめる。

今ここにはいない幸子を抱きしめるようだった。

先ほど、ここで会った幸子の泣き出しそうな顔に、類は下腹部にじんわりとした熱を感じた。

泣きそうな幸子を思い出すたびに、類の中でどろりとした塊が喉元から迫り上がってくる。

何とも言えない暗い感情に、類は恍惚とした表情で息をはく。

唇の動きだけで、幸子の名を呼ぶとそれだけで、彼女の吐息を感じるようだった。

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