二 芽生え

単調な鼓動が、幸子の耳に届いた。

 包丁を動かし、大根を力強い音で刻んでいく音は、そこかしこから聞こえてきている。

 神山家。

 この辺一帯に住む村人で、その名を知らぬ者はいない。

 代々養蚕業で贅を成してきた一族で、その歴史は古く二百年以上と聞く。

 この洋館には執事と呼ばれる男性と住み込みで働いているお手伝いさんが三人。

 他は、この村より働きに来ている使用人や料理人などを含めて二十名ほどが働いている。

 幸子は、後者だった。

両親が営む農業の傍ら、ここの調理場で働いている。

調理場は、一族の者が暮らす本館から渡り廊下で繋がった先にあり、執事やお手伝いさんは離れに住んでいた。

 日も沈みかけた夕刻。

 幸子らは夕食の準備に追われていた。

 幸子も類と共に吹雪く外から帰ってきてすぐに、身支度を整えて戻った。

 着物の上から割烹着を着て、頭には白いタオルを巻く。

「遅くなりました」

「急がなくても大丈夫よ。悪いけど、野菜切るの手伝ってくれるかい?」

「はい。トメさん」

 トメは、お手伝いさんの一人でこの調理場を仕切る責任者だった。

軽く手を洗うと、若い子二人に挨拶を交わしながら、置いてあった包丁を手に取った。

働き始めて一ヶ月の子たちは、手が痛いと小さくぼやいた。

「手を痛めないように、気を付けなさいね」

「はーい。そう言えば、幸子さん、雪、降ってましたか?私、傘持って来てなくて」

 髪を珍しく短くした子が、ふうっと息をついた。

「えぇ。そうみたいね」

「カヨ。なんで持ってこないのよ。降る天気だったじゃん」

「スズ、それは言わない約束でしょう」

肩口で切り揃えた髪を揺らすスズに、カヨは口を尖らせた。

「しゃべってないで、手を動かす。でも、無理はしないようにね」

「はい」

 素直な返事に、幸子はにっこり微笑む。

 こうやって、カヨとスズと並んで野菜を刻む時間が、幸子は好きだった。

 刻む間、幸子は無心になれる。

 家にいる両親や今は、遠くにいる弟のことを考えなくてすむ。

 自分より弟は頭が良く、東京の方で頑張っているらしい。

 難しいことは分からないが、料理以外取り柄のない幸子は、弟は誇りだった。

 学もあり性格もいい、顔だってそんなに悪くない。

 いつか、素敵な女性を連れてくるかもしれないと思うと今から楽しみだった。

 ガラス窓を震わせて伝わる風の音が、耳に届く。

 今日は吹雪くという。

 山に囲まれてはいるために、吹雪けばとなりの村まで行くことができない。

 ヘタをすれば、物資が滞るので今からでも備蓄しておくべきだろうかと思い始めた。

「ねぇ、幸子」

「……なに?」

 一瞬遅れて、幸子は顔を上げた。

後ろを一つお団子に結び、タレ目気味の彼女はミチコと言った。

ミチコとは、幼馴染みで、料理場で一緒に働いているのだが。

わざわざ自分の作業を止めてやってきた彼女は、ふふっと幸子の髪にある椿の花を指さした。

「それ、類坊ちゃんにもらったのかな?」

スズとカヨに、ちょっとごめんねぇ、隣座らせて。と言って、幸子の隣に座る。

顔を上げて振り返れば、トメは軽く手を振ってしょうが無いと暗に告げていた。

幸子は申し訳ないやらで顔が赤くなると、ミチコの手を取って調理場を後にする。

外では雪が降っていたが、気にせず歩みを進める。

ちょっと、早いと、ミチコが言うからようやく、幸子は足を止めた。

そこは、雪に積もって分かりづらくなっているが、外にある使用人の休憩スペースだった。

頭に巻いていたタオルを取ると、挿してあった椿を幸子は手に取った。

「ねぇ、類坊ちゃんのこと、どう思ってんの?」

「どうって……どうもしないよ」

椿の花を胸に抱き、幸子はそっぽを向いた。

「どうもって……鈍いわねぇ。幸子は」

「にぶいってどういうことよ」

 幸子は、子供のように頬を膨らませる。

「坊ちゃんもかわいそうだわ」

「だから、何がよ」

 ミチコは、肩を大げさに竦めて、ひらひらと手を振る。 

「まぁ、年齢が年齢だしね。きびしっちゃ、厳しいのかもね」

「……」

 何となく、言われていることが幸子もわかった。だからといって彼女の考えているようなことではない。

 類は幸子にとって、働いている先の一人息子であり、もう一人の弟。

 それに、年が十も離れている。

「ミチコが想像していることじゃないわよ。それに、年が年だし、結婚も考えないと」

「それもそうか。で、両親が進めてくれた人がいるんでしょう?」

だったら、何を迷っているの、とミチコは理解出来ないとため息をつく。

幸子の年齢ならば、すでに結婚をして子供がいてもおかしくはない。

それなのに、ことあるごとに断り続けていた。

つい先日、両親が勧めた相手とお見合いをしたのだが、どうもしっくりこなかった。

女一人で生きていけるほど、この世は甘くない。

それに、女性の自立を良しとしない風潮がこの村にはあるから、尚更。

「身を固めれば?幸子なら、大丈夫よ」

「……うん」

幸子は、お見合い相手のことをつと思い出す。

 背をまっすぐに伸ばし、頭は黒短髪で、目は険しく、無愛想な人だった。

 ここで何度か見たことのある顔だし、仕事ぶりも悪くない。

 すぐ返事をしてもよかったのだが、幸子には躊躇われた。

 結局、考えさせてくださいと言ってしまった。

両親には怒られたし、良いことなど何一つないのに、何故そんなことを言ってしまったのか。

幸子は自分でも、分からない。

なぜこうもすぐ決断できないのだろうか、腹立たしくも、情けなくなる。

「幸子……?」

 切羽詰った幸子の横顔にミチコは、戻ろうと声をかけた。

調理場へ戻ると、二人の体はすっかり冷えていた。

トメと目があって、しばらく体を火の前で温めていると。

 トタトタと足音がして、調理場へ駆け込んできた少女がいた。

「聞いて、聞いて。すごいこと聞いちゃったの」

「トワ。あんた、もうちょい静かに出来ないのかい?」

 トワと呼ばれた少女は、きっちり結い上げた髪に快活そうな瞳。

 走ってきてのか、両頬は紅色に染まっている。

「ごめんなさい。トメさん。あのね……すっごいことなんだから」

 興奮冷めやらぬまま、トワはまくし立てる。

 その場にいた女集が、何事かと思って手を止めた。

「あとにしてくんないか?夕食まで、間がないんだよ」

「すぐ、終わりますから」

 大仰な手振りで、トワは言い募る。

「明日、類坊ちゃんの許嫁が来るみたいなの!」

「ありゃまぁ」

 すっとんきょんなトワの声に、幸子は寒さからではない、震えが来るのを感じた。

類は、自分に許嫁が来ることを知ってて、洋館から抜け出したのだろうか。

でもそれならなぜ、自分に椿の花をくれたりしたのか。



***


 

 中庭に面した部屋が、祖母の自室だった。

天井近くには歴代の神山家一族の肖像画が並び、年代を感じる古くも重厚感のある家具が置かれていた。

中庭に面する廊下を歩き、その祖母の部屋の前で類は立っていた。

「失礼します」

帰宅してすぐお手伝いさんから、祖母の元へ来るよう言われた。

軽く雪を払い、身支度を調えると祖母の自室へ向かう。

「お入りなさい」

障子を開けると、奥の文机に座る鳩羽鼠(はとばねずみ)色の着物に濃い紫色の帯を締めた祖母がいた。

かこん、と庭にある鹿威しの音がした。

中へ入り、障子を閉め、そのまま近くへ寄ることなく、類は立ち止まった。

祖母が、筆を置いたのを見て、ようやく類は正座し、深々と頭を下げた。

「ただいま、戻りました。お婆さま、何がご用ですか?」

存外に、着替えもせず来たのだから早く終わらせろと言わんばかりに、類は切り出した。

祖母は気分を害すことなく、類の方を向いた。

皺の刻まれた顔は面長で目も細く、絵巻物に出てくる女性そのまま年を取ったような姿だった。

「明日、私の知人の子がお見えになります。その子の名は『翡翠(ひすい)』と言い、ご療養にこちらへお見えになります。粗相の無いように」

「分かりました」

「きっと、あなたも気に入ります」

祖母と顔を合わせると、彼女は肩の荷を下ろすように息をついた。

 祖母の知り合いの娘がここへ来る、ということは。類の嫁となる者が来ると同じ意味だ。

母が死んで、四十九日も立っていないのにと。

類は、再び頭を下げて、退出すると、一人静かに涙を零した。

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