一 椿の花
ふわりと白いマフラーが、風で波のように遊ぶ。
藍色の紗綾形(さやがた)と言われる卍を崩した柄の上に、厚手の半纏。
半纏の背中部分には、椿があしらわれていた。
類は、ほぅっと息を吐くと白い靄が生まれ、消える。
そういえば、もうあれから十年経つのだと感慨深げに思う。
辺り一面を白い雪で覆われた道を、ザクザクと踝まで埋まる雪の中を黙々と、歩いていた。
胸元を片手で合わせ、向かい来る風に身を屈めながら歩くと段々。
頭の中が空っぽになっていくような、そんな心地がするのだ。
誰かに誘われるように立ち止まる。
雪に隠れた石段へ視線を向けて、息を吐く。
そして石段に足をかけて、歩き出すと、赤い鳥居が鮮やかに目に映った。
断続的に白い靄が生まれ、ただでさえ白い視界を染め上げる。
それでもいい。
階段を一段一段登っていくと、自分の耳に父の声が聞こえてくる。
母の声と、忌々しい祖母の声。
彼が母を思い出すと、弱々しく肩を震わせて咽び泣く。
自分にも聞こえないほどにか細い声で、何度もごめんなさいと呟く。
止むことのない、母の呟きは呪いだった。
謝る必要なんて、どこにもない。
こればっかりは、神様が決めているのだ。
母は何も悪くないのに。
類の生まれた神山家(かみやまけ)の蔵には、神様が住んでいる。
森を防壁としてひっそりと建つ重厚な佇まい。
中は、三十畳ほど広さがありそれを半分にした向こう側は畳敷きになっており、手前は冷たい石壁の素肌を見せていた。
それを仕切るように黒々とした鉄格子がある。
鉄格子の向こう側に、座っているのが神様だと教えられた。
この家が代々、繁栄してきたのは神様がいるおかげだと、聞かされ続けた。
黒い髪を無造作に伸ばした琥珀色の瞳を持つ少年と、出会ったとき。
父も、最初聞かされたとき、彼が不死の体を持つ神様だとは思えなかった。
しかし、自分が成長するに従い、いつまでも老いることのない不老不死の体を、羨ましく思ったらしい。
それを聞かされ、類は心底、父を軽蔑した。
そんなことをして何になる。神様のように、閉じ込められるのが関の山だ。
むしろ、類は神様を可哀想だと思った。
「はぁ……」
ようやく石段を登り終えると、類は息を吐く。
白い靄が辺りに霧散しつつも、また己の口から生まれる。
よたよたと危なっかしい足取りで進み、後ろを振り返った。
見える全てが、白い雪に覆われている。
雪山の中腹、村を見渡せる洋館にいる父と祖母を思うと、憂鬱になる。
二人にとって、自分はいらなかった。
神社の赤い鳥居をくぐり、お賽銭の奥にある石畳に、雪を払いながら座る。
数日前に、母は逝った。
謝り続けた母は、最後の言葉さえ、謝罪の言葉で終わった。
もう、母は子供を産むことはできなくなった。
『なんで男なんて産んだんだ……最後まで役に立たない娘だよ』
類が物心つく頃から、祖母はそう言って母を詰った。
『全くしょうのない女だ。後に残される俺の身になってくれ』
母を庇うことなく、祖母の味方をする父。
それがどれほど、母を追い込んでいるか父は分かってない。
沸々と怒りが込み上げてきて、類は積もった雪を掴むと、投げつけた。
婿養子である父に、母を詰る資格はない。
というのも類の家は、代々女が継ぐものとされている。
その理由は神様を守る結界が、女にしか引き継げず、この村の恩恵を得られないからだ。
母もそれが分かるから、病んでいるというのに。
「お母、さま」
母は、悪くない。
悪いのは、男として産まれてしまった自分にある。
だからその報いを類は、甘んじて受け入れようと。
そして、嫁を取り、その者に女児を産ませることが類に課せられた運命だと。
辺りを白い粉雪が舞う。
背をもたれ、空を仰げば粉雪と灰色の雲ばかりで、その中に、泣き暮す母の姿を思う。
母を、守ってあげられなかった。
父は、あれ以来、鬱憤を晴らすように都会へ出て、帰って来ない日が多くなった。
祖母も父の行動を諫めることなく、むしろ当然だと思っているようだ。
『あんな娘でごめんなさいね』
なんて。
吐き気がする。
「類……坊ちゃん」
ハッとして顔を上げると、結い上げた髪に、番傘を手に持っている女性が立っていた。
十年経った今も、少女のような面影がある幸子だった。
群青色の草花をあしらった着物の上に厚手の白いショールを纏った彼女は、少し息を弾ませながら目を細めて佇んでいた。
「……幸子、さん」
「ここにいたんですね……捜しましたよ」
そう言って、幸子は類の元へ駆け寄る。
鼻の頭が僅かに赤く染まり、幸子の吐く息は白い。
雪に埋もれるような類に、幸子は手を伸ばす。
「帰りましょう、類坊ちゃん。皆さん、ご心配しております」
類は差し出された幸子の手を一瞬、見やったが、取ることはなかった。
彼女もたじろぐ様に、手を引っ込めた。
「帰ったところで……意味はない」
「そんなことありませんよ。さぁ」
もう一度、幸子は類に手を差し伸べる。
「寒いですから、風邪をひいては大変です」
笛のように風が鳴き、類の睫毛に雪が積もっていた。
それがおかしくて、幸子は小さく笑う。
不機嫌になった類を気配で感じ、慌てて口元を抑えるもどうやら遅かったようだ。
「……」
差し伸べられた手を類は取らないまま、立ち上がる。
ただ幸子に、風邪をひかれては困ると思ったからで別に怒ったわけではない。
そっけなく見やった類は、足早に幸子を追い越す。
弾かれたように幸子は、類の後を追いかけてくる。
その気配を背に感じながら、幼い頃、こうやって何度も迎えに来てくれた幸子を思い出した。
隠れていた類を幸子が見つけ出して、逃げられないように抱きすくめる。
類は、ふと振り返った。
傘を持ち変える幸子が、不思議そうに小首を傾げる。
世間一般な家庭に収まるのが、幸子から漂う平凡な雰囲気には合っている。
自分たちのような存在に、平凡な雰囲気も花もない顔は、意味はない。
何よりも重視するのは、家柄と外見。もうその時点で、幸子は当てはまらなかった。
社交界で出たならば、埋もれてしまう花であるのに。
けれども類にとって、幸子は。
雪に隠れてひっそりと咲く赤い椿を、類は無造作にもぎ取った。
「幸子さん」
「何ですか?類坊ちゃん」
追いついた幸子に、類は手を伸ばして椿の花を彼女の髪に挿した。
これは、気まぐれかもしれないと類は思う。
見ていると安心する、そう言うと祖母と父は一蹴するだろう。
けど。さらりと触れた幸子の髪の感触に、胸が高鳴った。
挿した椿の花は、幸子によく合った。
綺麗だよと、思わず口から出そうになり慌てて踵を返し、階段を下り始める。
一瞬だけ振り返った類の瞳に、惚けたように幸子は、類からもらった椿を触りながらその感触を確かめていた。
椿は、神山家の家紋。
再び前を向いて、類は己の指を見つめた。
幸子の髪に触れた指が、熱を持っているようにじくじくと痛んで。
口の中が酸っぱくなって、苦しかった。
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