第7話 夏を呼びに行く前に

 テストが終わって最初の月曜日、やっと伸び伸び彼女と昼休みを過ごせると思っていた俺は、この外階段で予想外に待ちぼうけをくらっていた。先日の約束。今日こそしっかり取り付けたいと思って色々考えてきたのに、肩透かしだ。

 ぼうっと一人、四角い空を眺める。初めて彼女と見たときよりも、白い雲はもうもうと、大きい。その膨らみようはまるで、俺の気持ちをポンプで送り込んだみたいだ。夏の雲。これを見てしまえば、夏休みがすぐそこまで来ていることを思い出させる。今年は来なくていいのにと思った。

 たったったっ。階段を駆け上がる音が近づく。俺は自分でも分かるかどうかくらいの微笑を浮かべながら、今まで見つめ合っていた空に、横顔を見せる。

「…やっと来た」

「ごめんね、待っててくれてると、思って、走ってっ、来たんだけど…」

 息を切らしているからなのか、少し顔色が悪いように見えた。目も赤い気がする。テストは終わったというのに、夜遅くまで勉強でもしているのか。

「どうしたん、何かあったと?」

「うん、生徒会室、行かないと、いけなくなって…」

 その手に弁当は無かった。 俺の頭は何かにキンと冷たくなる。彼女の真面目さには、もちろん尊敬もしているが、時々心配で、しばしば邪魔にも思う。昼休みまで、生徒会だと。

 雨の日に見た銀縁眼鏡が頭をよぎる。あの生徒会長に会うのかと思うと、また矮小な俺が暴れ出して、考えるより先に口が走っていた。

「…行かんで」

 俺の手の届かない、澄んだ上の世界へ。

「えっ」

 彼女は、俺の思いがけない言葉に動揺したようだった。整いきれていない息を無理にも押さえ込んで、俺を見る。

「あいつ、おるとやろ」

 でたらめに張り出した雲に飲み込まれたみたいに、俺の気持ちは乱気流に乗る。抑えがきかない。彼女をここに留めたい。あいつのところへ行かせたくない。

「あいつって?」

 自分勝手な、ただの嫉妬。

「…生徒会長」

「いるけど、…どうかしたの?」

 そんなの、見るからに元気の無い彼女を困らせて良い程、偉い感情なわけが無い。なのに。

「千早くん?」

 せめぎ合う気持ちに折り合いをつけるのは一筋縄ではいかなかった。やっとのことで、取っ組み合った奥歯に待てをかける。

「…いや、ごめんなんでもない」

 俺は彼女を澱に引きずり込みたいのでは無い。だったら、こんなこと言うべきじゃなかったのに。嫌いなはずの、得意の顔を努めて作る。

「本当?大丈夫?」

 でも彼女はこれに満足しなかった。今までならどんな人も遣り過ごせて来たのに。顔の内側がめちゃくちゃで、自分で思うより上手く動かせていないのかもしれない。

「大丈夫。兼行さんこそ、元気なさそうやけど何かあったと?」

 もう一度。しっかり笑え。彼女の足を引っ張るな。

「ううん」

 彼女がゆるく首を振ると、その艶が満遍なく黒髪を飾る。俺は自分の感情を抑え込むのに必死で、その微笑の裏側を見逃す。すぐに彼女は、やっぱり少し腫れた目を、隠すように俯いた。

「それとね、調理実習があるから、明日は来れない」

「へえ、文系はそんなんあるんや」

「うん、グループでお昼ご飯、作るの」

「そっか、何作ると?」

「きんぴら大根と、お味噌汁と、えっと、サバの味噌煮、だったかな」

「ふーん、なんかぱっとせんな」

「…千早くんは、エビフライがいいんだもんね」

「え?」

 彼女は目を細めて、ふっと思い出し笑い。

「前にあげたとき、すごくいい笑顔してたよ」

 それは初めてここで、彼女を見つけたとき。漂う雲もまだ幼くて頼りなかった。そんな青空を見ながら、半ば強引に貰ったエビフライ。言われるまで気がつかなかった。そんなに、笑顔になっていたとは。

 つい可笑しくて、吐息で笑う。

「…ああ、それ、普通のエビフライじゃだめとって」

 もしかしたら、俺は自分で思うよりもっと、彼女の前では笑えているのかもしれない。

「えっ?」

 無意識の笑顔、多分それは本物。

「兼行さんのやったから」

 ぴくんっと彼女の肩が揺れた。目の赤さが埋もれるくらい、頬まですべて、赤くなる。俺を残してあいつのところへ行くんだ、これくらいは、いいだろう。嫉妬と引き替えの嗜虐心。どこまでも身勝手だなと、自分に苦笑を投げる。

「わ、私もう行くね!」

「あっ…」

 俺が声を上げるより早く、彼女は逃げるように駆け出した。彼女を赤くした代償は高くつくこととなる。

 誘えなかった。

「あーマジかぁ…」

 去っていく彼女に未練の眼差し。

 大きな大きな雲は、反省に頭を掻く俺の、背を嗤いながら悠々と過ぎていく。夏を、迎えに行く。




 今日、急に生徒会室へ呼び出されたのも、明日が調理実習なのも、私は正直なところほっとしている。


 あれから、教室で泣いた後、見回りの先生から隠れるように家路についた。自室の机で伏しながら、土日の間も夜が深くなるまで何度も自分の気持ちを確かめた。有紗に突きつけられた二択。幻を見るのは嫌。夢を仕舞い込むのも嫌。だったら、私は強い意志と覚悟を持たなければいけない。傷つけても、奪うことになっても。それが光に手を伸ばす条件。だから気持ちが昂って寝付けなかった。


 彼女へは、どちらもノーと言うと決めてある。でもまだそれを伝えていない。こんな状況で彼と時間を過ごすことは、たとえ今さらでも、彼女への誠意を欠くことになるから。

 でもきっと、そんなのは建前で、私は自分がこれ以上後ろめたさを積み重ねるのが、耐えられなかっただけなのだと思う。


 やけに静かだと思いながら生徒会室のドアを開けると、中にいたのは会長だけだった。私は目を丸くする。もう、仕事は済んでしまったのだろうか。

「あ、れ?すみません、私遅くなって…」

「こっちこそごめん、急に来てもらって」

「いえ、あの、みんなは?」

 彼は一瞬不思議そうな顔をしたけど、すぐに何か思い当たったように口を薄く開けた。ちらっと下を向きながらすまなそうに笑う。

「あ、いや、伝え方が悪かったかも。個人的に来てもらったと」

「えっ、そうなんですか?」

 強い日差しに、古い紙の焼ける匂いが立ち込める。それらが窓を覆うから、私たちの立つところは翳って薄暗く、まるで孤立したようだった。僅かな隙間から漏れ入る一筋に、舞う埃は逃げ惑う。今はきっと、この階にいるのは私たちだけ。昼休みのざわめきなんて、ひとつも聞こえてこない。

「僕さ、帝大受けようと思っとって」

「さすがですね、会長なら絶対、合格します」

「それでさ」

 彼と私は、同じ会話にいるのに、まったく違う空気を吸っているみたいだった。のんきに応援する私の目の前で、彼は神妙な面持ちで右手を腰の下で拭うと、左手も同じようにする。

「…兼行さんも、帝大受けんかなって」

「えっ?そんな、私じゃ無理ですよ」

「そんなことないよ」

 間髪入れずにそう言う彼の表情は、切羽詰まっていた。

「僕、兼行さんと同じ大学、行きたいとよ」

 その意味をいくら噛み砕こうとしても、飲み込めなかった。

「…僕と付き合って欲しいと」

 私は短く息を吸い込んだ。それきり、しばらく何も言えなかった。そんなことを言われるなんて、思ってもみなかったから。

 何度瞬きしただろう。なんて、言ったら良いのだろう。どうしたら傷つけずに済むだろう。そんなことばかりを考えていたら、顔も自然とそんな風になってしまっていたのかもしれない。

「ごめん、困らせるつもりはなかったっちゃけど」

 視線と肩を落としながら、彼は眼鏡を掛け直した。

「兼行さんの気持ち、無理に言わんでいいし、…僕のことは、本当に気にせんで」

「会長…」

 廊下を伝い響く、賑やかな女子生徒たちの声。もう時間だった。

「…すみません」

 それしか言えなかった。私の中では、会長は会長で、それ以外の彼を見つけることはできないから。

 いたたまれずに伏せた顔は、一旦そうすると上げることはできなくなる。この落とした視界へすっと入り込むのは、伸ばされた彼の右手。

「じゃあ、あと半年、生徒会よろしく」

 握手だった。

「…はい。受験勉強、頑張ってくださいね」

 私もそっと、手を差し出した。

「ありがとう。兼行さんも言ってる間やけんね」

 そう言って眼鏡の奥で微笑う会長の両目は一層垂れ下がって、やっぱり穏やかだった。




 こういった波は一気に起こる。まるで畳み掛けるように翌日、出席番号順に決められた調理実習の班は、

「二班。沖田くん、兼行さん、北川さん、清水くん」

 あれ以来、まだ話せていない有紗と一緒になった。

 実習中は、結べる長さの髪の生徒は後ろでひとまとめにするよう言われるので、彼女もしぶしぶそうしていた。いつも隠れていた白い頬が晒されて、三角巾を装う彼女からは、普段より少し取っつきやすさが感じられた。

 私はエプロンの蝶々結びをいつもより固くする。千早くんのこと、この時間の間に、言ってしまおう。その決心が、手に力を込めさせた。

 男子陣は米を研ぎながら、水がかかったなんて言ったりして半ば遊んでいた。私と彼女は二人並んで、大根と人参を、それぞれ千切りにする。昔ながらの木製のまな板が、包丁に叩かれる音が小気味良く響く。次第に彼女の、人参を切る手が早く強くなり、その音は私のそれを凌駕していく。

「ねえ」

 下を向いたまま、彼女はまた次の一片を掴む。

「グループどうすると」

 私は手を止めた。横で彼女がトントンとリズムを刻むのを見る。

「…私は、大丈夫。ごめん」

「入らんってこと?じゃあ千早くんにはもう近づかんってことやんね」

「あのね、私」

 タンッと、彼女は包丁を置くと顔を上げる。

「そうや!有紗ね、お濠公園の花火、誘おうと思っとうと。千早くんのこと」

 前を向いたままの、その横顔は涼しく笑う。

「え… 」

「沖田くん、お米できたー?」

 彼女は私の反応を待たず、流し台のほうへ行ってしまった。私は視線ごと動けずにいる。お濠公園の花火大会というのは、この辺りでは有名な、年に一度の大きなお祭りだ。そこへ一緒に行くと言うのは、つまり。

 彼女のまな板の上には、全て細く刻み終えた人参が山を作っていた。それが彼女の世界では、すべて決着がついたことを物語っているように思えてしまう。私の手元には、まだ切り株のままの大根が半分、転がっている。

「お、おうバッチリ!」

「じゃあサバ、やってー。有紗、魚触るのイヤ」

「え?どうすっと、これ?」

 気が弱いなんて言い訳にならない。早く、言わなくちゃ。

 私は包丁を、残りの大根に差し込んだ。


 食事を摂るのも班ごとでと決められてはいたが、有紗はずっと後ろの班の怜奈たちと喋っていた。どちらにしろこんな雰囲気で切り出す話でもないけれど、早く早くと焦る気持ちがせり上がってくるから、少し味噌の濃いサバは、ほとんど喉を通らなかった。

 後片付けが終わった班から先生に報告、合格を貰えれば順次昼休みに入る。私たちの班は、調理器具のしまう場所が違っていたり、シンクに野菜の皮がまだ残っていたりで結局、最後まで残った。あまり真面目なほうでは無い男子と一緒になったのもあるけど、一番は心ここにあらずで作業していた私のせいだと思う。

「…はい、合格」

「っしゃー!」

 男子陣は、それを聞くなり一目散に調理室を出て行った。足音はすぐ聞こえなくなる。有紗もすっと足早に私の横を抜けた。私は意を決して、階段を降りる彼女を走って追い越す。そして立ちはだかるようにして無理に止めた。

「待って」

「…なに?」

 彼女はいかにも迷惑そうに足を止める。進路を塞がれたからというだけではない、私が物申そうとしているのが、気に入らないという風だった。

「言わなきゃいけないことがあるの」

 でもすぐに、私を避けた。

「イヤ。それ、有紗が聞かんといけんこと?」

 足を下へ下へ繰り出すから、追い縋るように私は、その背中へ声を投げる。

「千早くんのこと!」

 すると彼女は、踊り場で身を翻すそのままの勢いで、私の方をぐんっと見上げた。

「は?近づかんって言ったやん!」

 絡め取られそうな巻き髪、貫かれそうな瞳。それらを吹き飛ばすくらいに、私は、

「言ってない!!」

 反響して、反響して、そこら中が震えた。こんなに大きな声が、自分から出るなんて。

「私も、…好きなの」

 それを聞くなり、彼女の驚いて見開かれていた目が、ぎゅっと歪む。

「何それ」

 圧されちゃだめ。欲しいなら、真っ向から。昨夜しっかり、覚悟を決めたでしょう。

「だから、言われたようにはできない」

 負けない。私も強い視線で、彼女を見返す。

「有紗の邪魔しようって言うと?」

「…ごめん」

 彼女は手すりに爪を立てると、リップを塗り直したばかりの唇を噛む。そうして射るような瞳を向けた後、震える平手をダンッと一度、叩きつけて、そのまま走って降りて行った。こだまする彼女の去る音を聞き届けたら、緊張が一気に解けたらしく、私は階段にしばらく座り込んでいた。




 彼女は今頃、サバの味噌煮を食べている頃だろうか。俺はと言えばやはり変わり映えなく、コンビニのパンとオレンジジュースだった。今日は目の前の今井とは全然違うチョイスなのが、せめてもの救いだ。

「今日は行かんと?」

「うん」

「なあ、いい加減言いーや。いつもどこ行っとうと?」

「言わん」

「マジで秘密主義やな」

 バタークロワッサンを半分ほどまで咥えこむと、一気に噛みちぎる。あそこで食べないのなら、食事なんかさっさと済ませてしまおうと思ってのことだった。

「なあ、今年も行く?花火」

 顔のかたちが変わるくらいに詰め込んだので、飲み込むのに数秒を要した。

「も、って。お前去年は女子と行くって言うけん、俺は行っとらんっちゃけど」

 花火というのはここらで一番大きな、お濠公園のお祭りのことだ。これに異性と行くと言う場合、大抵は付き合っている、または秒読みであることを意味する。今井は生意気にも去年、初めてできた彼女と行っていた。二ヶ月で別れたけど。

「まあいいやん、どうする?どうせ女子に誘われても断るっちゃろ」

「そうやけど、他のやつもみんな彼女と行くっちゃないと」

「えー、俺と二人じゃ嫌って言いたいと?」

「嫌だ」

 しょんぼりして見せる今井が気色悪かった。だから前にも言ったが、そういうのは可愛い女の子でないと、

「兼行さん誘ってみんと?」

「…はっ!?」

 唐突に身を乗り出してくる今井から飛び出す名前に、俺は必要以上に驚いてしまった。なんだよ急に、今の今まで落ち込んでいなかったか。

「やっぱり。好きな子って兼行さんやろ」

「なんで知って…」

 つい、そこまで口走ってしまい、もう取り繕うことはできないと悟った。両手に持っていた抹茶クリームパンと紙パックは、へなへなと机に着地する。

「分かるとって。で、昼休みはいつも会いに行っとっちゃろ?」

「…」

「どう?俺の名推理」

「…」

「ま、最初から薄々気づいとったけどな」

 俺に会心の一撃を食らわせたのが余程気分良いのか、にやにやと、俺より先に二つ目のパンの包装を摘まんで引く。

「…嘘つけ」

 俺も相当に悔しくて、やっと出た言葉がそれだった。

「一年のとき、講堂で、一目惚れやろ?」

 まだほとんど残っていたオレンジジュースが吹き出る。

「…ッ腹立つ」

 そんな俺の様を、さも愉快そうに指差し笑いながら、今井はすっと表情を収めた。俺にティッシュを差し出し、足を組み直す。

「でも千早のファンクラブの子たちが何て言うかやな」

「は?ファンクラブ?」

 こぼれたジュースを拭きながら、アイドルじゃあるまいしと、一瞬耳を疑った。

「知らんかったと?北川さんが束ねとうやん。この前も全員分のプレゼントが入る袋、くれたし」

 言われて、誕生日のときのことを思い出す。道理で、あんなにタイミングが良かったわけだ。そこまでされていると知ると、なんだか背中がぞっと重くなる。

「そんなん、俺に彼女できたら解散やろ」

「そう簡単にいくと?女子って怖いとよ」

「…」

「っていうかもう兼行さんと付き合う気でおると?振られたらとか考えんと?」

 動かしていた手は即座に止まった。そんなこと、考えたくも無かった。必死で水面を目指して掻いている手が、止まるのが嫌だったから。

 橙を染み渡らせて、じゅんっと小さくなったティッシュがまるで、水を差された俺の恋心。

「…難しいこと、訊くなよ」

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