第8話 狭間に降る光の衝くこと

 朝、登校すると、上履きが無かった。

「兼行さん、どうしたの」

 朝のホームルームの後、ちょいちょいと廊下へ誘われ、担任の守口先生に事情を訊かれた。無いものは仕方ないと、私は靴下のまま教室にいたからだ。

「失くしました」

「どこで?」

「…分かりません」

 しばしの間、目を合わせられずにいる私の額を、先生の思案する眼差しがじっと撫でる。

「とりあえず、学校で保管してある持ち主の分からない上履き、持ってくるからね、サイズは?」

「二十三です」

「うん、授業の前には戻るからね」

「…すみません」

 申し訳なく、先生の背中を見つめている私の横を、通り過ぎていく他のクラスの生徒たち。その好奇の視線が足元に刺さる。居心地が悪かった。恥ずかしくて、教室に戻っても、それはあまり変わらなかった。

 足先がじりじりと、焦げていくようだった。


 三限目の後、教室へ戻って来ると、机がひっくり返っていた。

 頭を両側から大きな手でプレスされるような感覚に陥った。焼けるくらいに冷たい。頭皮がざわつく。

 急いだ様子で理科室を出た彼女たちの姿は無い。生物の教科書とノート、ペンケースだけが各々の机上に放り出されるようにして、足跡を残していた。

 廊下を駆けてくる声に身体を押し込まれ、音の無い教室にようやく足を踏み入れる。半サイズ大きい上履きがそれを嫌がった。踵を離れ、パタッと古木の床に打ち付ける、気の抜けた音をいくつも連ねる。

 皆が帰って来る前に。私は脈打つ心臓に構う暇なく、喉奥に込み上げる灼熱を飲み下しながら、自分の机を元通りにした。

 その手が、震えていた。


 大丈夫、あと一週間で終業式。これは私への罰だから。後ろめたさを自覚しながら、これ以上積み上げたくないなんて、自分のことしか考えなかった、光のすべてを欲しがった私への罰。だから甘んじて受け入れて。そう覚悟したはず。

 これを、乗り越えればきっと。


 きっと。

「ねえ、知っとう?千早くんの彼女」

 いつもの場所に向かう途中、階段を降りながら私は、廊下を跳ね返って来る声に立ち止まる。違う、足が固まったのだ。ふいに聞こえてきた、そのワードに。

「えっ、やっぱりおると?ショックー」

「そんなこと言ったってどうせ、なんもできんくせに」

 どんどんこちらに近づいてくる。立ち聞きしてしまったみたいで決まりが悪く、私は鋼になった脚を持ち上げ、どうにか引き返しまた階段を昇る。

「…まあね、でも本当と?」

「だってさー、いつも…」

 そのまま彼女たちの会話は渡り廊下のほうへ消えていった。

 その内容を反芻すれば、のしかかるようにしていた重い何かは、私の胸をとうとう潰しにくる。ひとつ段に足を乗せた格好のまま、電池の切れたおもちゃみたいに、急に身体が動かなくなる。

 そっか、いるんだ、彼女。




 明日から終業式までは、午前までの短縮授業。だから彼女と過ごす昼休みも、今日が夏休み前の最後となる。

 ゆらゆら熱された土の上を走る。肘まで捲り上げたシャツ、晒け出した腕に日射しがまとわりついて痛い。それがますます、実感を焼き付けてくる。一ヶ月以上会えないなんて本当、気が狂いそうだ。

「千早くん…」

 階段を昇りきって、目の前に立ってからやっと、俺に気づいた。顔を上げた彼女は、やっぱりまだ元気が無さそうだった。こんなに日は強いのに、反して白さを増す彼女の肌。

「早くも夏バテ?」

「え?…ううん、そんなことないよ」

 薄く微笑って弁当箱の蓋を開けるが、彼女は一向に箸を持とうとはしなかった。いつもは耳にかけている長い黒髪が、今日は彼女の表情を隠す。普段と違うそんな様子が、心配だった。

「ちょっと待っとって」

 言い残して俺は立ち上がる。彼女の何か言いたげな視線を見つめ返してから、全速力で校舎の向こうまで走った。


 カチャン、ピッ。ガタゴトン。学校の自動販売機は、運動部のためにペットボトルのスポーツドリンクだけは品揃えが良い。俺の好きな果汁百パーセントのオレンジジュースがどこにも見当たらない時は憤慨したが、今日だけは誉めてやる。ドリンクが落ちて来るより先に扉を開けて待ち、ぱっと掴みながら踵を返す。


「はい、兼行さん」

 座る彼女の前を、横切りざまの出来心。スカートと靴下の隙間から、少しだけ覗く白肌を、冷えたペットボトルで撫でてやった。

「ひゃっ!」

 それを、驚きに身をかたくした彼女の横に置く。その丸くした目を俺は笑って躱す。いたずらごころがちょっと悪さをした、それを弁明するつもりは毛頭無いが、少しでも彼女の声が弾けるのを聞きたかった。元気を出して欲しかった。

「食べれんなら、水分だけでも取っとき」

 だから、そっと笑いかける。

「うん、…ありがとう」

 弁当を置いて、彼女はその隣のスポーツドリンクを手に取る。蓋を開けて口を付け、上向いた顎に白い首が露になる。なめらかな輪郭。こんな時にでも疼いてくる、どうしようもない衝動を振り切るようにして、俺は咄嗟に顔を背けた。

 抜けるような青い空。今日は雲の姿も見えない。これが空っぽに見えてしまうのは俺だけだろうか。気持ち良いはずなのに、どこか、寂しい。

「…ここで食べるんも、しばらく無いっちゃんね」

「…そうだね」

 こくん。か細い喉が頷いて、彼女はペットボトルの蓋を閉めた。その音が、この寂寞に場違いなくらい軽快だった。それに励まされるように、あるいは縋るように、俺はひとつ息を整え、あの時の約束を取り出した。

「テスト終わったら…どっか行こうって、言っとったやん?」

「…うん」

 もっと彼女と過ごしたい。俺を彼女で埋め尽くしたい。彼女を、俺だけでいっぱいにしたい。それ以外の余地など塵ほども残さないよう。

「お祭り行かん?お濠公園の」

 彼女が、落とし気味の視線を少しこちらに向けたのを、横顔で知る。口を開こうとしては閉じて、何を言うか迷っているのだと分かる。

 動けない。これは、怖いのか。そのせいで俺は青空から目を離せずにいる。一分の隙もない、敷き詰められた四角い青から。


 そうして黙って待つ間がどれだけのものだったろうか。流れ行く雲も無いから分からない。投げ出した足先だけが切り取ったように陽に刺され、たまらず引っ込めた。ザリ、とこの無音を切る音。はからずもそれが号砲になった。

「…彼女さんと、行かなくていいの?」

「はっ?」

 行くか行かないかのどちらかしか返って来ないと思っていただけに、その答えに俺は大層面食らった。

「え、何それ?」

「だって、噂で」

「おらんよ、彼女なんか」

 お互いきょとんとした顔で見合う。そしてどちらからともなく視線を外す。でも、ペットボトルを両手で握り締める彼女の横姿が、ふっと軽くなるのを、俺は確かに見た。

 ――どくん。仮に、元気が無いのは、それを気にしていたからだとしたら。

 ――どくん。もし、俺のことを考えて、俺のために、彼女は悩んでいるのだとしたら。

 急激に巡りを速くする血液が、俺の中ですべてを繋げる。あの時のように、心臓が俺を駆り立てる。もう横顔がもどかしい。唇を噛み締めるほどいとおしい。

 水面が見える。俺は浮いていく。これが最後のひと掻き。余計なことはもう考えられない。傍にいる彼女を、引き寄せるなら、

「俺さ、」

 今。

「そろそろ、さや果、って呼びたいっちゃけど」

「えっ!?」

「いやと?」

「ううん、そうじゃないけど…」

「けど?」

「…恥ずかしい、というか…」

「慣れるやろ、すぐ」

「…でも、みんなびっくりするでしょ?急に、そんな…」

「…やったら、…二人のときだけにする」

 戸惑うその手を、

「えっ?」

 掴んで、

「本当は周りに聞かせたいっちゃけど」

 引き寄せ、

「俺のって、言いたいけん」

 瞳を捕まえる。

「千早く…」

 俺はいつもそう。

「さや果」

 考えるより先に、言葉。

「俺と付き合って」

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