第6話 強と弱
雲も厚みを増してきた、七月の午後。まだ日は高い。私は、ふう、と息をついた。
最後の試験も終わり、周りの皆は、これからどこへ行こうかなんて話で盛り上がっていて、早々に鞄をひっ掴んで駆けて行った人もいる。無理もない。だってこんなに良い天気。自らの白いセーラー服に跳ね返る日差しが眩しいほどだ。目を細めるのは、嫌だからじゃない。私は最近、日の光が、ちょっと好きになってきた。
「あ、兼行さん」
呼ばれて、声の主を探す。次々流れ出ていく人達を塞がないよう、その都度道を譲る影。遠慮がちにドアから姿を覗かせたのは、
「会長?」
一学年先輩の、彼だった。頷くように会釈をする、眼鏡の奥の両目は柔らかく下がっていて、穏やかな人柄がよく滲み出る。
「ごめん、教室まで」
鞄を整理していた手を止めて急いで歩み寄る私に、すまなそうに声を投げてきた。
「どうしたんですか?」
あちらこちらに目線を散らかしながら彼は、右手を腰の下で拭う。
「今から、時間ある?」
「はい…?」
そして左手も。
「えっと、実は、生徒会室まで…」
来てほしいと促され、教室から一歩出たところだった。
「あ、平岡くん!」
廊下の向こうからやって来るのは、このクラスの担任の、守口先生。
「あ、はい!」
会長の返事を聞くと、豊かな白髪をふわりと弾ませ、手を上げた。速度を少しも変えずに歩いて来る。
「丁度良かったよ。預かっていた小論の添削、できたから今から職員室、来れるかね?」
「今から、ですか?」
「うん、僕、この後会議だから。月曜日になってもよければいいんだけど、こういうのは早いほうがいいと思ってね」
「…そうですね、じゃあお願いします」
彼は、少し思案したが提案を受け入れた。私に軽く頭を下げると、目尻もさらに下げた。
「ごめん、兼行さん。また今度にするわ」
「はい。お疲れ様です」
私もぺこりとお辞儀をして、二人の後ろ姿を見送った。帰ろう。振り返り、すっかり静かになった教室に一歩踏み入れ直すと、人影がひとつ。逆光で黒くなっても劣ることのない存在感。こちらに強い視線を投げる彼女と、目が合った。刺し込まれるプレッシャー。いたたまれなく、私はすぐ逸らしてしまう。それが悪手だと分かっていても。
「兼行さんって、」
だから間髪入れずに縫い留められた。
「生徒会長と仲良いんや?」
「えっ…」
思わぬ指摘に肩を震わせた。
「なんだ。有紗、勘違いしとった?」
彼女は机に腰掛け、ずっと私を見ていた。脚を組み、きめの細い肌が余計に露になる。いつものように綺麗に巻かれた長い髪を、くるくると弄びながら笑っていた。でも、笑っているように見えなかった。
「てっきり、有紗のこと出し抜いて、千早くんに言い寄っとうと思っとったけんさぁ」
迫る、闇の声。かたちを持たないそれは真正面からぐんと距離を詰め、痛いほど冷たい息を吹き掛け、私の肩をトン、と、
「生徒会長と付き合っとうなら、そんなんありえんもんね?」
潰す。
「そんなっ…」
白薔薇は赤く塗れ。鼻の先に、赤いペンキがゆらゆら迫る。仰け反るようにして、すんでのところで首を振る。
「え、違うと?じゃあなんであんな親しげなん?」
それを見て、一層闇色を深くする女王の声。
「親しいってほどじゃ…」
確かに、生徒会の仕事には雑務もかなりあるので、生徒会室で過ごすことは多い。必然的に、会長と過ごす時間も。だとしても、それが彼女の言うような関係とは直結しない。
それを説明しても、無駄だろうということはもう、前の一件で分かりきっている。赤いペンキを塗れと言われたら最後、塗らない選択肢は無いから。
「ええ?だって今も楽しそうに話しとったやん」
楽しそうに。私が。
千早くんと過ごす時間は、とても好き。学校にいるのに楽しい、唯一の時間。彼は私に、仲良くなったら笑ってくれるか、と問うた。それはつまり、私は笑えていなかったということ。それなのに会長と話すときは、楽しそうにしていたなんて。白なのに赤で、赤なのに白。あべこべ過ぎて、悔しい。違うのに。本当は違うのに。
否定しないと。その刷毛を押し付けられる前に。
「そんなことな…」
「そうやって、千早くんにも色目使ったっちゃろ」
だけど遮られてしまう。上から押さえつけられて、全うできなかった言葉は、最初から無かったことになる。
「そんな…!」
もうほとんど悲鳴だった。声を上げても体を弾いても、どんどん赤に汚れていく。どうしてこれほどの憎悪で塗り潰されようとしているのか、私は、ちゃんと知っている。だからこそ向き合わなければいけなかったのに。強い力に尻込みして、弱さを楯に取って私は逃げていた。隠れてこそこそしていた。後ろめたさを、自覚していながら。
今は逃げないで。
「違う、」
ちゃんと彼女の目を見て。
「私は、」
私が短い声を発するたび、
「私もただ…」
彼女の両目も長く切れ味を鋭くする。
「千早く」
ガタターッン。震えるくらいの音が、乱暴に引き千切った。誰かの机が横倒しになっている。私は驚きに言葉を飲み込んだ。
「…千早くんとしゃべりたい子は、みんな有紗のグループに入っとうと」
彼女は突き出した足をゆっくり折り曲げて、元に戻す。何が起きたのか、それを見る間にじんわり理解する。蹴り飛ばされた机からは教科書が派手に吐き出されていた。
彼女の言うグループとは恐らく、メッセージアプリのトークメンバーのこと。正常では無い目の前の景色と、剥き出しの敵意にチリチリと晒される今、私にはそれが絶対王政のひとつの国のようにしか思えなかった。
「千早くんと何を話したか、誕生日には何をあげるか、ちゃんと報告してくれとうし」
彼女は脚を組み替えると、長い髪をひと掻きした。
「有紗が一番千早くんに相応しいって、みんな分かっとうから。ちゃんと弁えとうと」
スタン、と美しい女王は机から降りた。整った螺旋を強調する髪は、その動きに弾み合ってざわめいて、揺れて揺れる。
「千早くんと話したいんやったら、有紗のグループに入れたげる」
横たわる机を跨いでゆっくり、私に向かって歩いてくる。ぐらぐらと煮えたそれを、こぼさないように。
「やけん、兼行さんも弁えて」
鼻筋の通った彼女の綺麗な顔は、なりふり構わず歪んでいた。
「入らんとやったら、」
それでも真っ直ぐ射抜かれた。
「千早くんに二度と近づかんとってッ!」
張り裂ける声と、質量を持った、光る粒。髪を乱しながら、彼女が顔を激しく震わせるたび、キラキラと散らばる。その様を間近に見て私は、吸い盗られるように全身の力が抜けてしまった。
彼女はそのまま顔を隠すように下を向き、私に尖らせた肩をぶつけて走り去っていく。ぱたぱたと、上履きが廊下を蹴る音が、少しの間漂う。涙の飛沫と一緒に。
彼女は、すべてを全力で塗り潰すくらいに、彼のことが好き。あんなに感情を溢れ出させるほど、彼のことが好き。激しくて豊かな恋。私は何も表せない。笑うことすらできていない。今だって、動けない。だったら彼女の言うようにするべきなのかもしれない。だって、こんな「好き」じゃ、あまりに不誠実だ。
衝突の大きさに、教室のドアへ思い切り背を打ち付けた格好のまま、私は――。
千早くん。光の中にいる彼の周りには、キラキラした人がたくさん居て、その隙間を縫うように私は見ているだけだった。それで満足だった。どうせあそこまでは行けないから。どうしようもなくくっきりと分かたれた明と暗は、それをいつも私に思い知らせた。私も分かっているつもりだった。
でも、あの日、一年生の冬の日。あんなに近くで彼を見て、私は光にあてられた。眩しくて、ろくに瞳を向けることもできなかった。
そのくせ呼び止められた渡り廊下で、身の程知らずにも魅入ってしまった。もしかしたらなんて、境界の向こうに、触れたくなった。
だから闇を呼んでしまった。陰の奥でじっとしていれば、静かに光を見ていられたのに。分かっていたのに。今はもう、彼女の手から分け与えられる光の幻に縋るか、もう二度と光の夢を見ないか。与えられた選択肢は二つ。
だけど私は、いつの間に欲張りになっていたのだろう。光を傍に感じて、少しずつ薄くなっていく陰。私の居場所を照らす光が心地良い。私は光が、恋しい。光の全てが、欲しい。
彼が、好き。
――私は。教室に、一人、ぱたり。
心の底が抜けた音だった。押し込めていた気持ちが大きすぎて。行き場無く溢れてくる。枯れることを知らずにそこかしこから溢れてくる。この恋心と同じだけ、大玉の涙が次々頬を転げ落ちていった。止めどない。声を上げて泣いた。こんな泣き方、初めてだった。
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