呪いの中野坂上くん

新田五郎

呪いの中野坂上くん 完結

 これ本当の話なんだけどさ、いやわざわざそんなふうに断らなくてもいい話なんだけど、テレビで映画監督がインタビュー受けてたんだよ。

 その監督は時代劇を撮ったばかりで、記者から「今後、身近な題材は映画にしないんですか?」と聞かれてた。

 そうしたらその監督が、ジョークのつもりで、

「そんな、中野坂上あたりの高校生のなんだかんだみたいな話撮ったって、あんたら面白いか?」

 ……と言って、記者たちの笑いをとっていたんだよ。これ、本当の話だよ。

 「中野坂上」って東京の駅名、絶妙なチョイスだよね。東京ではありふれているし、地方ではたぶんだれも知らないし。

 まあ、アイドル歌手で「中野坂上」っていう歌を歌っていた子もいたんだけど……ずいぶん前に。知らない? あ、そう。

 町としてのアイデンティティとか、ないじゃん。中野坂上って。歩いて新宿に行ける距離だしさ。名所とかあんの? ないでしょ?

 でも、おれには思い出がある。

 おれ、小学生のときに中野坂上にあった学習塾に通っていたんだよね。

 ……って、知ってるか。知ってるからおれに会いに来たんだよな、あんた。

 まあ、聞けよ。


 おれは、小学校五年生から学習塾に通っていた。

 とても厳しい父親から、私立中学を受験しろと言われたんだよ。

 当時は自分は小学生で、身体も小さく気も弱かったし、さからうことなんてできなかった。

 それに自分で言うのも何だが、ある程度勉強もできたんだよね。

 「子供時代のない子供」っていう言葉が、当時流行っていた気がする。ネットで検索しても出てこないんだけどさあ……。今よりもずっと「お受験」なんてマイナーな行為だったけど、かえってそれが世間には奇妙に受け取られたんだろうね。中学受験をする子供がマスコミによく取り上げられもした。

 そのおれの通っていた学習塾が、中野坂上にあったんだよ。

 え? 早く本題に入れって? まあ待てよ!


 話はちょっとそれるんだけどさ。おれ小学生時代、自転車に乗るのを禁じられてたんだよ。

 早い子は小学三年生くらいから、五年生ともなるとほとんど友達全員が自転車に乗っていた。

 他の子と遊ぶときも、自転車で全員集合してくる。みんな器用に乗り回してたな。

 ウチが貧しかったわけじゃない。「危ないから」という理由で、オヤジが禁じたんだよ。

 オヤジは柔道五段で、自宅には青い畳の柔道場まであって、当時、いつもそこで泣くまで投げ飛ばされてたんだよ。よく大怪我しなかったと思うよ。だけど、なぜか自転車はダメ。

 おれは、オヤジに頼み込んで、補助輪なしで乗れるところまで自転車を練習することはした。オヤジが物置から出してきた、錆だらけのボロボロの自転車を使ってね。

 でもやっと自転車に乗れるようになったその日、オヤジに言い渡された。

「おまえは外で自転車に乗るな」って。

 もちろんさからえないよ! オヤジは柔道五段だから。自転車もボロボロだったしね。

 だから、友達同士で遊んでても、みんながゆうゆうと自転車で走って行くのを、おれがひーひー言いながら走って追いかけていくわけ。

 あっちにひいひい、こっちにひいひい。


 そんなわけで、中野坂上の学習塾に行くのも、自転車ならすぐなんだけど、地下鉄を利用していたんだよね。

 歩いて行ってもよかったんだけど、どうしても面倒で、オヤジに頼んだら地下鉄に乗ることはなぜかは許してくれたんだ。

 新中野駅から、ひと駅だしね。

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 まあ、勉強はイヤだったよね。学習塾に行くのがイヤでイヤでしょうがない。

 まず家から駅まで歩く。駅までだって、自転車で行けばあっという間なんだけど、オヤジに禁じられているという理由だけで歩く。今考えると、そのこと自体が面白くないんだな。

 駅につく。回数券を使ってホームに出る。

 さて、それからが長い。おれの記憶では。

 それから地下鉄が来るまで、なんて長いんだろうと思ってた。今? 今はそうでもないよ。iPodで音楽聞くか、スマホをいじってれば時間なんてすぐに経つじゃん。

 でも、そのときには中野坂上の駅で降りたら、さらに学習塾まで歩いて、そこで二、三時間勉強して、また地下鉄に乗って家に帰って、オヤジの説教聞いて。そんな一連の流れが頭に浮かんで、うんざりしてくるんだよ。

いやいや、もっとずっと遠い距離を通学している人たちがいるのはおれも知ってるよ。

 そういうことじゃなくてさ、たったひと駅の地下鉄に乗るか乗らないか、自転車に乗るか乗らないか、私立中学を受験するかしないか、そういうことがぜんぶオヤジの手で決められていた、そのことがちょっとしたことを永遠の長さに感じさせてたんだと思うんだよ。


 ホームで、じっと地下鉄の線路の、暗闇の奥の方を眺めていると、かすかにライトの光のようなものが浮かんでくる。

 新中野駅のホームに、カーブを描いて入ってくる地下鉄のライトが、トンネルの壁に照らされる、その光だと思うんだけど、よく観間違えるんだ。「おっ、地下鉄が来た!と思うと、ただの目の錯覚なんだよ。それでガッカリする。

 あ、話をしてて思い出したけど、三十年くらい前はホームでの「地下鉄が来る」という告知も、現在ほど徹底されていなかったはずだよ。

 今だと、来る前にランプが点くよね。「荻窪」とか「池袋」とかが出る電光掲示板、あれも当時あったかどうか覚えてないな。

 とにかく、おれは小学生時代、新中野の駅のホームで、ずっと地下鉄の線路の暗闇の奥の、かすかな光を見つめていたような気がするな。


 何? つまんないって?

 じゃあもう帰ればいいだろ。おれだって呼び出されたから話してやってんだぞ。

 「中野坂上くん」のことだろ。これから話に出てくるから待ってろって。


 「中野坂上くん」は、あの辺の人たちにとっての非公式マスコッキャラクターだった、ってことはあんたも知ってるよな。

 中野坂上の駅から数分歩くと、おれの通っていた学習塾の入ったビルがある。その前に、そいつが立ってたんだ。

 地元のあやしげな芸術家って、どこの町にもいるじゃん。言っちゃ悪いけど、「芸術家」というよりも「芸術家気どり」っていうか……。本業は古着屋かなんかやってて……古着屋がすべてそうだって決めつけてるわけじゃないよ……そう言うヤツが中野坂上にもいてさ、それをつくって勝手に設置していたらしい、というもっぱらの噂だった。

 塾の講師がそんなことを言っていたな。

 今だと警察もうるさいんだろうけど、それは当時、ずっとそのままになっていたんだよ。

 「中野坂上くん」は、ブリキみたいな金属製の人形で、体長は2メートル以上とデカかった。どういうモチーフか知らないが、ブリキでつくられた大人の男が直立不動の姿勢で、なぜか直径3センチくらいの金属製の細いポールの上に据え付けてあったんだよね。

 で、胸のところに縦書きで「中野坂上くん」って刻みつけてあった。

 つばのついた帽子をかぶっていて、色はだいぶハゲていたことも覚えているな。

 ちなみに、ポールで立てられた「中野坂上くん」は、地上から三十センチくらい離れていたと思う。

 そしてそのポールが、コンクリート製の台座に据え付けられていたんだ。

 なんだろうね。あれ、本当になんだったんだと思ってたよ。子供心に、不気味じゃん。なんでそんなかたちしてるのかもわかんないしさ。

 でもまあ、月水金と週三回、おれはその「中野坂上くん」を横眼で見ながら、塾に行っていたわけだよ。


 それで何? あんたなんでおれのところになんか、話を聞きに来たんだっけ。

 ああ、どうも思い出話をすると話があちこちに飛んでしまうな。


 オヤジが戦争賛美者で、文筆家で、すごい論客だったっていうのは後から知った話でね。おれにとっては、単なる恐い頑固オヤジでしかなかったよ。柔道で投げ飛ばされたことばっかり思い出してさ。

 ただ、すごい細かい人ではあったよね。戦争がどうとか言ってさ、豪快なイメージを持っている人もいるのかもしれないけど、かなりどうでもいいことにこだわる人だった。

 おふくろなんかいつも嘆いてた。オヤジは家事に事細かに口を出して、でも自分では何もやらないんだ。包丁一本、持ったことがないと思う。横暴なやつだったよ。


 中野坂上の学習塾に通ったのは2年くらいかな。週三日、永遠とも思える時間を使って通ったんだ。あの頃は、何かが始まるとなかなか終わらない気がしてたな。永遠とも思える時間、駅まで歩いて、永遠とも思える時間、地下鉄を待って。塾の授業を受けて。

 地下鉄のホームで、早く地下鉄が来ないかなと暗闇を覗いてた。

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 んで、そうそう……。あんたの聞きたい「あの日」のことだ。

 あの日、おれはめずらしくオヤジに口答えした。もう我慢の限界だったんだよ。オヤジは、自分の持っていた雑誌をおれが隠したんだと言い出しやがった。おれは、オヤジの雑誌など滅多に読むことはなかった。お堅いものばかりでね。論壇誌とか。ただ、カッコいい飛行機が表紙の雑誌が一冊あって、それを眺めていたことはある。

 オヤジの方針で、ウチにはテレビもラジオもマンガも娯楽雑誌もなかったんだ。だから、確かにおれはその雑誌の飛行機が見たくて、オヤジの部屋の本棚から取り出したことはある。

 だけど、なくしたりはしていない。確かおれの記憶では、本棚に戻しておいたはずだった。

 とにかく、オヤジの勘違いかおれの勘違いか、飛行機が表紙の雑誌はどこにあったかわからず、犯人扱いしてきたオヤジに対しておれはキレた。確か、生まれて初めて人に対してキレたんだと思う。

 「自分の子供を、そんなに疑うのか!」くらいのことは言ったと思うよ。

 で、それを捨てゼリフにして塾に出かけた。母親は、ただオロオロするだけだった。

 父親と口論した後だから、歩くのも、地下鉄を待つのも、地下鉄に乗っている間の時間も、永遠に終わらないのではないかと感じた。

 ホームで待っているときに見つめたトンネルの暗闇も、いつもより濃いように思えたな。

 で、おれは中野坂上の駅で降りて、階段を上がって地上に出た。


 すると驚くことに、地上を出たところにオヤジが立っていた。しかめっ面で、右手に飛行機が表紙の雑誌を持っていた。

 びっくりして声も出せないでいると、

「古新聞の束の中に入ってたぞ。やっぱりおまえが間違えて入れたんじゃないのか?」

 と、そう言って雑誌をおれに突きつけてきた。

 おれは、怒りで目がくらみそうになった。古新聞の片付けはおふくろの役目だったから、間違いがあったとしたらおふくろがやった可能性が高い。

 そんなことをわざわざ言うためにおれを追いかけてくるのも気持ち悪いし。大人げないよな。あやまりに来たのならともかく……。

 しかし、どうして地下鉄に乗ったおれに追いつけたんだ? と思ってオヤジの背後を覗くと、見たこともない、ピッカピカの自転車がそこにあった。

 それに乗って来たんだよ。わざわざそんなことの文句を言うために。しかも、おれに追いつくためには、猛スピードで自転車を走らせてきたに違いない。

 観たこともない自転車だったから、買って隠していたのか、急いで買ったのかは知らないけどね。


 おれはもうそのとき、なんで永遠とも思える徒歩、永遠とも思える地下鉄を待つということ、そして永遠とも思える塾の講義を受けなければならないのかと、なぜかそのピカピカの自転車を見たときに思ってしまったんだ。


 一瞬とまどった。もう1回切れるべきなのか、それともオヤジのこのエキセントリックな行為を我慢してやり過ごした方がいいのか……。


 そのときなんだ。オヤジの背後の「中野坂上くん」がグラグラと揺れ出したと思ったら、足元の細いポールがポッキリと折れて、オヤジの頭上にのしかかって来た。

 後から知ったんだけど、「中野坂上くん」って中身まで金属がギッシリ詰まっていて、重さ二百キロくらいあったらしい。それが、細いポール一本で立っていたんだ。


ズシーンッ!!!!!


 いくらガタイのいいオヤジでも、突然後ろからのしかかってきた二百キロの金属の塊にはどうすることもできなかった。「うわーっ」とかなんとか声をあげて、右手に雑誌を握りしめたまま、「中野坂上くん」の下敷きになってしまったんだ。


「くっ、苦しい、助けてくれ、助けてくれえ!」


 いつもは冷静なオヤジが、「中野坂上くん」の下でもがき苦しんでいる。

 おれはとっさのことにどうしていいかわからずオロオロしていたんだけど、通りがかりの人が警官を呼んでくれて、何人かの大人たちが「中野坂上くん」の下からオヤジを救出した。


「はあ、はあ、助かった、はあ、はあ、はあ……」


 オヤジはそれまで観たこともない恐怖にひきつった顔をしていた。

 あばら骨が五本折れていて、その後入院したよ。

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 オヤジが退院してしばらくしてから、ある人物が家にたずねてきた。

 背のちっちゃい、サルみたいなヨボヨボのじいさんでね。

 驚くべきことに、「中野坂上くん」の製作者だっていうんだな。

「えらいことになっちまって」って、謝罪に来たんだよ。

「芸術家気どりの古着屋がつくった」なんて、ただの噂話だったんだよ。


 思い出しても不気味なじいさんだったな。今にも倒れそうなくらい高齢で、身なりも貧しいんだけど、目つきがなんだか恐かった。威圧的、ってんじゃない。何か地獄の底を見たような目つきだったことは覚えてるよ。


 そのとき聞いてちょっと驚いたのが、「中野坂上くん」って、「中野坂上くん」じゃなかったんだ。

 「中野坂十(はんじゅう)」っていう、人の名前だったんだって。

 単に、あそこが中野坂上だから、みんな勘違いして「中野坂上」って勝手に読んでいただけだったんだ。

 サルみたいなじいさんの名前は、中野義勇(ぎゆう)。ずっと中野坂上に住んでいて、出征して戦死した息子の坂十氏を弔うため、あの銅像のような奇っ怪なオブジェをつくったんだそうだ。


 考えてみりゃ不気味な話でさ。確かに、思い返してみると「中野坂上くん」って、出征兵士みたいに見えないこともないんだよな。直立不動だし。ただ造形がへたくそすぎて、ひと目で兵隊さんだってわからないんだよ。

 つくりも変でしょ。地面に足が設置してなくて、細い金属性のポールの上に立っているんだから。いったい何だろう、って思うよね。

 いつかポールが折れることを想定していたのかな? って思ってしまう。


 オヤジが怒ったかって? それがそうでもないんだよ。

 中野義勇氏が、玄関先で立ったままゴニョゴニョと言い訳を言うと、まだ包帯の取れない腹をさすりながら、苦々しい顔で黙ってうなずいていた。だけど、しぶしぶ中野氏を受け入れつつ、すぐにでも帰ってほしい、って顔だったな。

 義勇氏が「治療代に」と金の入っているらしい封筒をオヤジに渡すと、「いらないから帰ってくれ」と封筒を押し戻して、追い返してた。


 その後のことは、あんたの方がくわしいんだよな。おれも調べたけどさ……。

 中野義勇氏は、古神道や日本の超古代史を研究していたオカルティストだった。戦前はそこそこ影響のあった思想家だったらしいが、「出征兵士として、息子をある『神』に生贄として捧げる」という一文を書いてからは、周囲から人がほとんどいなくなった。取り巻きも消えたらしい。


 ちなみに、息子の中野坂十氏は、明朗な普通の青年だったらしい。さっきも言ったように、戦死してしまったんだけど……。

 「中野坂上くん人形」が設置されたのは、昭和五十年代だから中野坂十氏が戦死してから三十年以上は経過していて、その意味はよくわからないんだったね。ただし、ある種の呪術的な意味があったってことは……そうそう、あんたから聞いたんだったな。


 たぶん、戦争賛美者だったオヤジは、研究家として中野義勇を知っていたんだろう。だいぶ高齢だったからまさか生きているとは思わなかったんだろうし、「中野坂上くん」が呪術のためにつくられたと聞いて、気味が悪いと思ったことは間違いないね。

 中野義勇氏は戦争賛美者であり、出征兵士としての息子を人形にしたわけだから、同じ戦争賛美者のオヤジに呪いをかける道理はないはずなんだが。


 オヤジが中野坂十(はんじゅう)の像を恐れたのだとしたら、中野義勇氏が人形を捧げた「神」が、何かとつもなく邪悪な存在だったことを知っていたんだろうな。生前、そんなことを口走っていたこともあるんだよ。

 その「神」の名前? 残念ながら、忘れちゃったなあ。もちろん、キリスト教のような一神教の神ではなかったみたい。八百万の神々とも、無関係だよ。

 まあ、単にオヤジが金属製の人形の下敷きになった、ってだけの話なんだけどね。それでも、オヤジが何かをえらく恐れていたのは覚えている。笑っちゃうよ。


 その後、おれはけっきょく私立中学は受験しなかった。オヤジが急に弱気になっちゃって、やめさせたんだ。文筆業もやめて、家族ともども田舎に引っ込んでしまった。当然、中野坂上とも離れて、地方で何か小さな会社を始めたけど、何をしていたかはよく覚えていない。

 その後は投げ飛ばされることもなくなったよ。第一、おれが大きくなっちゃったからね。運動なんか何にもしていなかったけど、中学を卒業する頃には、オヤジくらいの体格の男だったら、柔道やったって負けやしなかったよ。


 そうそう、面白いシンクロニシティがあってね。おれが「かっこいいなあ」と思っていた雑誌の表紙の飛行機の写真は日本軍の戦闘機で、中野坂十さんが乗っていた飛行機だったそうだ。

 飛行機の名前? 忘れちゃったな。


 おれももう、地下鉄のトンネルの暗闇を覗きこむようなことは、していない。

 今でもときどき思い出すかって? ああ、思い出すね……。

 あれが呪いだったかどうかは、わかんないけどさ。(談)


(月刊オカルトストーリー、2011年4月号、P52「戦中派オカルティスト・中野義勇の知られざる呪術? 金属人形に込められた怨念とは!?」より抜粋)

(了)

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