(番外編)Guillemots in the world-殻を破った鳥は空を目指す-
「もうここで、いいよ。」
千鳥がそう告げると、ウミバトは立ち止まってモルタルの壁にもたれかかった。
朝焼けが、千鳥の影をすっぽりくり抜いて射している。ウミバトの揺れる黒髪が、光の加減で茶色く見えた。こんなに近くにいたのに、今更気づくなんて。
そう。とウミバトは答えた。彼女は少し俯いたまま、顔をあげない。あたしの言葉を待っているのか、掛けるべき言葉を探しているのか。それとも、この時間がただ名残惜しいのか。
ウミバトのことは、今もよくわからない。ウミバトもきっと、私のことは理解できないのだと思う。
「あんたが、こんなに長くここに居るなんて、思わなかった。」
ウミバトは腕を組んで目を伏せた。ユリカモメの制帽が、彼女の表情を隠してしまう。
「なんだよ、もっと早く出て行って欲しかった?」
いつものように、憎まれ口を叩いてみせると、ウミバトは寂しそうに笑った。いつものウミバトらしくない表情に、千鳥は調子を狂わされた。
「…あたしには、時間が必要だったんだ。」
「なのに今更行くのでしょう?」
「そう。」
「ここにいる時間で、あなたは大人になったと思ってた。」
ウミバトは、その黒い髪を弄りながらニヒルに笑った。
「もちろん、少しは成長したよ。でも、それでも、やっぱり大人になりきれないみたいなんだ。」
千鳥は、あの頃と何も変わらない笑顔を見せた。
「夢は捨てきれないんだよ、これが。笑っちゃうね。」
千鳥の瞳が、獲物を捕らえる寸前の狩人のように冴えわたる。きらきらと、薄褐色の波が打ち寄せる。その瞳に捕らわれて、ウミバトの胸がきゅっと締め付けられた。
「ウミバトもあたしと変わらないでしょ?」
試すような千鳥の口調に、ウミバトは静かに微笑した。ともに過ごした長い時間が、二人の間に、確かに沈殿してゆく。
「こんなこと聞くの、野暮なんだけどさ。」
そう言って千鳥は瞳を流す。色素の薄い睫毛が、きらきらと朝焼けに溶ける。
「お前も一緒に来る?」
あの頃と、何一つ変わらないその表情に、仕草に。不覚だけれど、ときめいた。たった一瞬だけ、ウミバトもあの頃の純情に、戻れた気がした。
けれど、そんなのは恋心が見せる、幻想。
「ふふふ、馬鹿みたい。」
ウミバトは笑った。丸めた指先を顎に添えて、綺麗な眉のラインが歪む。ぎゅっと瞳を瞑って、赤らんだ頬に口角が上がる。
それはまるで、一輪の花が綻ぶような、乙女の純情。
その表情を、千鳥は初めて見た。
お前、そんな風に笑うんだ。
きょとん、と千鳥の丸い瞳がさらに丸くなる。かわいらしく、あほらしいその表情に、ウミバトはまた笑った。
「私は行けないわ。どうしても行けない。…違うわ、行かない。私はここでやらなきゃいけない事があるの。」
「うん、知ってるさ。でも、なんとなく。言わなきゃいけない気がして。」
千鳥の頭に思い浮かぶのは、月夜に揺れる白いカーテン。一羽の雛鳥が差し伸べた、白く柔らかい指先。
「カモメが行く前に、あたしに言ったんだ。」
「あたしももう、大人になったわ。守るものも責任も、たくさん増えた。だからあたしはここに残るの、あたしの意思で。そこを履き違えないで。」
「わかってるよ。」
そう千鳥が答えると、ウミバトは制帽の角度を変えて、しゃんと立った。
「あたしは、中からこの世界を変えるわ。」
黒い制服に、襟元の青が美しい。鳥が一輪の花を咥えているエンブレムが目に留まる。千鳥を見送るウミバトは、ユリカモメ特攻隊の制服に身を包んでいた。
「男女川カモメに会ったら、伝えて頂戴。」
「もちろん。」
千鳥は目を伏せる。瞼の裏に映るのは、ユリカモメ特攻隊に入ると告げた、あの日のウミバトだった。ウミバトも大人になったんだと、あの日の小さい背中を見送った。
「あたし、世界をぐるぐる回ってみようと思うんだ。自分の力で。カモメに会っても会えなくても、この目で全部、確かめたくなったんだ。」
「馬鹿みたい。」
「上等だよ。」
いつまでも子供の心を忘れないあなたが、好きだった。
「あたし、あなたの自由を愛してた。その不自由さも平等に、好きだった。だから何にも縛られて欲しくない。あたしにも。」
ウミバトの真っ黒い瞳が揺れる。漆黒の夜に輝く月のようなその瞳が、千鳥は好きだった。
「あなたは私が願っても得られないものを手にできるの。ま、願ったりしないけど。」
「お前は一言多いんだよ。」
千鳥は笑う。快活なその笑い方が、いつもウミバトの心を一喜一憂させたのを、盲目な鳥は知らない。
「君もだよ。あたしにできないことが、君にはできるから。君の幸せを、願ってる。」
幸せに、してくれなかったくせによく言うわ。でもしょうがないのよ、私たち友達なんだもの。唯一無二の、友達になってしまったんだもの。一羽の鳥が、海を目指したあの日から。
千鳥の薄褐色の瞳が、くるくるとした柔らかい髪の毛が、朝焼けに照らされて、冴えわたる。
彼女の心にまたひとつ、忘れられない光景が、増えた。
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