世界を革命する者



「ルリト、ここで降ろして。」

ルリトは私の言う通り、ちょうど真下にコバルトを着陸させた。

棘みたいに生えたたくさんのレバーを指ではじくと、重い音を上げてコックピットが開く。

鼻孔を擽る、塩の匂い。

 吸い寄せられるように、その砂浜に足をつける。さらさらと、しっとりした感覚が私を虜にする。高鳴る胸の鼓動。

 ザザ、ザザ…という心地いい音が鼓膜に響く。まるで、卵の中にいるみたいだ。自分の心臓の音が、薄い膜の中で木霊する。豊かな潮騒。DNAに刻まれた、懐かしい音楽。

 青く広がっていく水面を眺めた時、じわり瞳に涙がにじんだ。懐かしくて、愛しくて。ずっと夢見た桃源郷。思い描いた原風景は、妄想なんかじゃない、確かに存在してたのよ。

 砂浜に打ち寄せる波は白い泡を吐き出す。波は砂を濡らして、重たいグラデーションを作った。青色は遠くに行けば行くほどその深度と濃度を増していくみたいだった。

 真上を旋回して、反射する太陽の光に目を細めたい。

 吐き出した息が、頼りなく震えていた。きらきら光る水面が、あたしの網膜を傷つけていた。

「カモメ、」

昼下がりの、穏やかなさざ波のような声。初めてルリトのこんなに優しい声を聞いた気がした。私はそっと振り返る。目に映るその光景に大して驚きもしなかった。きっとこうなるだろうと、わかってたもの。

 ルリトは、穏やかな表情で私にその銃口を向けていた。それはある種、私に対する信頼のようにも見えて、愛おしいと思った。

「いいよ、撃ちなよ。」

叫んだ。波の音に、強い風に、私の声がかき消されないように。

「それでルリトが自由になれるなら、少しでも生きやすくなるなら、あたしのこと殺しなよ。」

「あんたって、優しいよな。」

そう言って、少年は構えた銃を力なく下した。次にその銃口の向く先が、私にはわかる。

「ねえ、ひとつ聞いてもいい?」

「いいよ。」

「そんなに死にたいなら、どうしてあの時死ななかったの?見せつけるみたいに、こんな世界クソ喰らえって死んじゃえば良かったのよ、あの時。みんな見てる前で、あの壁の頂きで。」

ルリトは俯いた。

「でもあなたはそれをしなかった。」

口元だけが、諦めたように柔らかく結ばれていた。彼方に広がる海の声だけが、私たちを包んでいた。

「ねえ、どうして?」

答えて欲しくて、何か言って欲しくて。私の五月蠅い鳴き声だけが、潮風に攫われていく。

「死ぬのが、怖くなった?大好きな人達が見てる前で、できなかった?それとも、世界に馬鹿にされるって思った?自分の愚かさに、正気になっちゃった?」

「俺は別に、死にたいわけじゃない。」

虚空を切り裂くようなルリトの鋭い声が響く。

私、あなたの本当の声が、聴きたかった。

「世界に殺されるくらいなら、自分が誇れる自分のまま、死にたかっただけだ。」

青い瞳の波が切実に揺れ動く。ぎゅっと固く握られた拳が震えていた。

「でも、世界はそれを愚かだと、可哀想だと言う。そんなふうに言われるのは、ごめんだ。俺は愚かだよ、大馬鹿者だよ。それでも俺は可哀想じゃない。少しも可哀想じゃない。俺を可哀想なんて思っていいのはさ、俺の命を生きてきた俺だけだよ。

……あーあ、嫌いなものばっかだった。世界なんて大嫌いだった。全部なくなればいいって思ってた。でも、何も無くなりやしない。変わりやしないなら、俺がいなくなるしかない。」

二人の熱を帯びた視線が交差した。ルリトはその時、言いようのない表情をした。

「俺を憐れむな。俺は、全部嫌いだったよ。世界の全部、壊れればいいと思ってた。でもそれは、なにひとつ愛せなかったからじゃない。友達だって、尊敬する人だっていた。自分のことだって大事だからここまで来たんだ。」

青い瞳の器に、打ち寄せる波が溜まってく。

「自殺志願者が、何一つ愛せなかったから死を選んだなんて、想像力のない愚かな世界の戯言だよ、カモメ。世界は被害者を作りたがるんだ。なのに世界は何一つ変わらないよ。」

ふるふる震えて流れないまま、感情だけが燃えさかる。

「世界に殺されるくらいなら、自分で自分を殺めたかった。大人になって世界に消費されるくらいなら、わがままな自分のまま生きていたかった。美しくなければ蝶じゃないなら、俺はそんなもの要らない。望まない。」

「…あなたを殺そうとした世界は、もうここにはないのに?」

「残念だけど、俺の全部が、俺を育てた全部が、あの世界を覚えてる。生きてる限り、自由にはなれないよ。逃げ切れっこない。俺は、変わらない世界を憎み続ける。亡くした人のことを、残してきた人のことを忘れられない。俺は、大罪人だ。だからもう、行かなきゃ。」

震える声と青白い彼の指先が頼りない。言葉とは裏腹に、あなたの感情は、肉体は素直で、馬鹿らしくって泣けてきちゃう。

「あなたは、可哀想なひと。」

男女川カモメの、柔らかなさえずりが波間に轟く。

「やっとここまで逃げてきたのに、それでも世界に縛られるなんて、可哀想なひとね。世界の被害者になりたくないなんて、今のあなた。十分立派な被害者だわ。」

夥しい数の棘で、立て篭る君に歩み寄る。ひんやりした砂が私に絡んで舞っていった。

「でもね、被害者じゃ世界は変わらないの。言い訳したって、自分は悪くないって言ってみたって、何も変わってくれないの。」

見下ろしたそのあどけない顔の、黒い睫毛が微かに震えていた。

「だから私達、加害者にならなきゃいけないの。」

狂った言葉を紡いで、やっと顔を上げてくれた。

「私達これ以上世界に害されちゃいけないの。自分で自分を殺めるなんて、そんなことしちゃいけないの。だってあなたが死んだって、誰もなにも変わらないんだもん。」

私が死んでもくるくる回る、知りたくなかった世界の事実。

「私達、世界を変えることなんかできっこない。烏滸がましいわ、そんなこと。でも、それでも。わたしたちがここまで来た事で、誰かが少しでも、生きやすくなれるなら。ここまで来て正解だったの。」

また、綺麗事に聞こえちゃうかもしれない。でもこれは、紛れもなく私の本心だった。たとえ誰も、理解してくれなくても。

「私は、道が作りたかった。私が歩むことで、誰かが続いて歩める道が。」

ぽつり、呟く言葉が水面に落ちた。

「子供のまま死んでしまおうなんて、馬鹿みたいな理想論並べ立てないで。あなたは蝶の世界を壊して、捨てて、やっとここまで来たのに、そうやって逃げるんでしょう。自分は死んで、あとは知らんぷり。」

そんなのは、許さない。

「あなたが生きてなきゃ、革命はいつまでも果たされないのよ。革命に、責任を持ってよ。生きてその目で見届けて、最後まで。」

じゃなきゃ、私は。

「あんた馬鹿なのよ。想像力がないんだわ。明るくて面白い未来が描けないの。」

「……じゃあ俺は、どうすればよかったの。」

「そんなの、簡単よ。」

冷え切った柔らかな頬に触れた。

「大人になればいいの。」

ラムネの中のビー玉みたいに、真ん丸に見開かれた青い瞳。銃を持つその手が微かに震えてたことを、私は見逃さなかった。

抱きしめるように、青く震える身体を包んだ。銃を握るその両手を包んで、解く。まるで花が綻ぶように、硬くなっていた指先が、簡単に解けた。

初めて出会った時のように、その銃口を私自身の身体に押し当てた。

「今から大人にしてあげる。」

背中に回した指先に、無数の小さな棘が食い込んでいく。

「嫌なら、また逃げればいいじゃない。殺してでも。得意なんでしょ?」

震えながら、それでも無邪気に跳ね回るわたしの声が鼓膜に響く。青白いその唇を啄むと、少しだけ身をよじったのがわかった。少しだけ開かれた口の中に無理やり舌をねじ込んだ。銃の先がカタカタと震えて、冷え切ったその指先が、引き金に触れる。

覚悟は決めた。やれるもんならやってみなさい。


やがてルリトは抵抗をやめた。どうやら私は死ななくて済んだみたいだ。

血の気のない唇を引き離すと、絡んだ舌から糸が引いた。焦点の合ってない瞳が、呆けたその表情が、可笑しかった。

「革命の甘い汁、一緒に吸いましょう?」

「…ずるい女。」

と呟いた、その声は皮肉っぽくて、でもすごくあったかかった。やがて、彼の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。降る雨に拍車をかけるように、肩が震えて嗚咽が漏れる。雷雨みたいに声を上げて、目の前の少年は泣いていた。

子供みたいで、みっともない。みっともないけど、悪くないと思う。だってあたしたち、ガキだもの。もっと我儘に、自由に。生きるべきなんだわ。


彼を守っていた無数の棘が、抜け落ちてゆく。まるで当然のように、最初からそうなることが決まってたかのように、ぽろぽろと、落ちてゆく。彼はそれを、穏やかな表情で眺めていた。滑らかな、翅。真っ黒の生まれたての翅が、彼を包み込む。少しだけ寂しそうに、瞳が揺らぐ。

彼は、生まれ直す。ここはもう、新世界。古くなった羽は捨てた。窮屈になった繭を破って、世界のルールなんか、知るもんか。

卵の外が、また卵の中かもしれないなんて、外に出なけりゃわからないのよ。

「なにジロジロ見てんの。」

泣き止んだルリトは生意気そうに頬を赤らめて言った。さっきまであんなに必死だったのに、もういつもの調子を取り戻していて、憎らしい。

「別に?」

ルリトの青い瞳が、穏やかに揺れている。吸い寄せられるようなその瞳。それは、懐かしい青の波間、探し求めた桃源郷。水晶玉みたいな瞳の奥に、豊かな海が広がっている。私の姿を捉えては、打ち寄せて、引いてゆくその波の動きを、眺めていた。

少年の背中に、夜の帳が落ちる。瞳と同じ瑠璃色は、水平線のよう。


艶やかに広がるその翅が、想像以上に綺麗だったから、私の鳥目が霞んじゃった。


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