さようなら、僕の恋人
「ありがとう、花を世界から解放してくれて。」
心臓を直接掴むような囁きとともに、冷たい温度の指先が私の首筋をなぞった。その瞬間、ルリトは私を引き寄せ抱きしめた。そして、ある一点に銃口を向けた。ゆらり、花が舞うように黒い喪服に身を包んだ蜜蜂が現れる。
「あんたは、俺とカモメを利用した。私利私欲のために。」
「…どういうこと、」
「あんたはあの世界から花を奪って花を独占しようとした。あんたはひとりじゃ、あの世界から抜け出せないから、俺とカモメに世界を破壊させ、革命させようとしたんだろ?」
「ああ、そうだよ。でも、それのどこがいけないの?」
「どこがいけない?はは、笑わせんなよ。だって、あんたがあの世界を作ったくせにさ。」
「僕は、花を愛するためにあの世界を作ったんだ。花は、僕の恋人だったよ。そこに現れて横取りしていったのはお前たちじゃないか。……ましてや、鳥は壁を作るなんて言い出した。でも、これは利用できると思ったよ。壁を作ることで、僕と花は永遠に一つになれるんだ。永遠に僕は彼女を手に入れることができる。」
「まんまとあんたがあの世界に縛られちまったわけだ。滑稽だね。」
「…僕は、僕の愛情が間違ってるなんて思ったことは一度もない。現に、蝶だって鳥だって、君たちだって同じようなもんだろう?」
「…けれどあなたは、ひとつのものを愛するために、あまりにも多くのものを犠牲にしすぎた。」
「僕が彼女を想うこの感情だけが、この世界で唯一本物の愛なんだって…そう思ってた。」
「それが、言い逃れできないあなたの罪。」
「…だから僕は、終わりにしようと思った。」
忠誠の蜜蜂はその大きな瞳を伏せた。悲しげで、どこか凄然とした表情は、まるで喪に服しているようだった。
「許して欲しいなんて、今更思わないよ。烏滸がましい。僕は僕の愛のために、沢山のものを殺しすぎた。その自覚は、あるんだ。」
蜜蜂は瞳を開く。その瞳に初めて、黒い蝶の少年と、白い鳥の少女が映った。
「でも。それでも僕は、彼女を失いたくなかった。」
「…私たちがここまで縛られて、拘ってきた花って、一体何だったのかしらね。」
「蜜蜂。あなたは自分の罪を、世界を犠牲にしたその愚かさを詫びなければならない。」
「男女川カモメは宣告します。あなたは、忠誠の蜜蜂は、あなたのその罪の贖いをしなければなりません。あなた自身の存在と、時間を以って。」
「私たちの前に、もう二度と現れないで。」
カモメの瞳には、大粒の涙が溜まっていた。どうして彼女が泣いているのか、ルリトにも、蜜蜂にもわからなかった。きっと、カモメ自身でさえも。
「…泣かないで、カモメ。僕はこの世界の住人じゃない。僕の時間は、花を失ったあの時に、とうに止まっている。言うなれば僕は、亡霊のようなもの。元居た場所に還るよ。誰もいない、彼女のいない永遠に。」
蜜蜂の、黒い喪服が潮風を吸い込んで。彼の黒いハイヒールが、白浜に埋もれてゆく。
「君たちには迷惑をかけたね。僕を見つけてくれて、ありがとう。」
そう呟いて身を翻す。穏やかな瞳の薄紫が、煌めいて見えたと思った時、彼の姿はもう、どこにもなかった。
セピア色の風景が、あの日の景色の鮮烈さを奪う。鈍く光った雲、君の柔らかい髪が潮風に揺れる。豊かな潮騒。
君を失ってから、僕の世界から色彩が消えた。
黒い喪服に身を包んだ忠誠の蜜蜂は、両手に花束を抱えて、濁って見える海を眺めていた。
「ただ、生きるだけで美しい。」
蜜蜂は、遠い記憶に思いを馳せた。
「君がそこにいて、微笑んで。僕の手を取って、金色の髪が潮風に揺れて、僕はすごく幸福だった。君が僕の目の前で、笑ってくれる。それだけで。」
今でも鮮明に、君のことを思い出せる。まるで花のようなその可憐さを、僕にだけ見せてくれた表情を。
「君は、生きているだけで美しかったのに。」
それなのに君の、その顔だけが真っ白に塗られて、もう僕は君を、思い出せなくなってきた。
「僕が、君を、殺したくなかったから。認めたくなかったから。こんな形でいつまでも、生きながらえさせようとした。」
冷たい風に、両手に抱えた花束が、ひらひらと舞っていった。
「僕は君になろうとしたんだ、君を絶対に忘れないように。」
もう、渡す人のいない、こんな花束なんか、散ってしまっても構わないんだ。
「でも、君は、それを望んでなかったんだね。僕は結局、自分のために君を支配して、崇めてたんだね。君はなにも望まなかったのに。僕が、僕が全部悪いんだ。」
蜜蜂は、彼女に近づこうと、静かな海の方へ歩いていく。またひとつ、花弁がひらひらと、舞い落ちる。
「僕は、間違えた。沢山、間違ったよ。…でも、リリィ。君にだけは信じて欲しいんだ。僕は君を、愛してた。」
愛してた、そう言葉にした瞬間。
僕の中の君の残り香が、いよいよ、潰えた気がした。
そしてそれは、潮風に乗って、何処までも何処までも、流れてゆくんだろう。
君が本来いる場所まで。
僕は必死に手を伸ばした。遠ざかる君の記憶を、引き寄せた。
「愛してる、リリィ。」
けれど手遅れだって、もう自分でもわかってたんだ。僕はずっと、逃げ続けた。現実から、真実から、逃げ続けて。君になろうとした。抱えた花束の、白、薄紫、水色が、ひらひらと風に舞って、彼女を呑み込んだ海に消えた。ゆらゆらと水面を漂って、蜜蜂の独白を彩った。
届くことのない花が、いつか君に届きますように。
そう願って、忠誠の蜜蜂は瞳を閉じた。薄い色素のその睫毛が、鈍色の空を照らすあの光を反射して、忘れかけていた一筋の雫が零れた。
さようなら、リリィ。君はもう、何処にもいないんだね。
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