眩んだ瞳
小さな階段を上ると、サーチライトが縦横無尽に動き回って、目がチカチカと眩しかった。
けたたましく鳴り響く警笛、灰色の壁の頂に立つ。
ちっぽけな私たちは吹き飛ばされてしまいそうだった。制服のスカートと、棘だらけのマントが風にはためく。
眼下には、同じ教室で過ごした仲間達。千鳥がひどく落ち着かない様子でこちらを見ている。傍らのウミネ子は見ていられないと顔を覆った。後方からウミバトが走ってきた。ウミバトは私を見つけるや否や後ろを振り返る。げ、アジサシのお出ましだ。
ウミバトは抱えてきた拡声器をアジサシに手渡した。アジサシ先生は慌てて拡声器のスイッチを入れた。
「男女川さん、何やってるの!下りてきなさい!」
拡声器が鋭くハウリングすると、隣にいたルリトが耳を塞いだ。
「…横にいるのは誰、…嗚呼!かわいそうに。悪い虫に脅されているのね。先生が今、助けてあげるからね!」
飛び出そうとするアジサシをウミバトが抑え、千鳥も加勢する。さすが未来のユリカモメ。学級二位なだけあるわね。まぁ、一番は私なんだけど。
「お願い男女川さん、下りてきて。」
「下りません。」
「どうして、」
「私は世界を解放します。」
「まあ…やっぱり受験のノイローゼなのね、気づいてやれなかったあたしが悪いのね。」
「違います。私は私の意志で、この壁を出るんです。」
「…あなた、本当にその意味がわかってるの?外にはね、あなたの隣にいるような悪い虫がたくさんいるのよ!」
「そんなのは、関係ありません。私は行くんです。」
「…どうして、あんなに聡明で聞き分けのいい子だったのに。」
アジサシ先生は真っ青な顔で叫ぶ。
「あなたは誰よりも高く飛べた。あなたは誰よりも知識と知恵があった。あなたなら、ユリカモメを統べる偉い鳥になれたのよ!他の誰でもないあなただけが!」
ウミバトの肩が、小さく震えていた。ああ、こうやって。こうやってこの鳥は正しさを振りかざして、あなたの正しくないものを排除してきた。
「ここにいれば、ずっとずっと幸せでいられるのに!なに不自由なく、怖いものなんて何も知らぬまま、花だけ愛でていればいいのよ!」
「…ここにいれば、あなたみたいに心の貧しい人になってしまうんでしょう?」
「…は?」
「自分の愛のために、平気で誰かを殺す人になってしまうのでしょう?」
「私がいつ、誰を殺したのよ!」
「いつだって、殺してきた。何も知らない無垢な雛鳥を、知ってしまった愚鈍な雛鳥を、壁の向こうの彼らを、私たちを。…そして、花を。」
「花を?」
「花はただそこにあった、それだけ。害虫駆除なんて一言も頼んでないのに。先生、なんて自分勝手な愛の形なのかしら。」
「私は知りたい、本物を。私は海鳥。本物の海を知らないまま、死ねるもんか。」
「海もない、魚もいない。花しかないこんな世界で、もうこれ以上生きてやるもんか。本物の海を知らないまま、大人になんかなれるもんか!」
「…はは、オカシイ。気が狂ってるわ…ねえ、皆さん、非国民よ、あそこに非国民がいるわ!排除、排除。ほら、早く!でないと私たちの愛が犯されてしまうわ!」
「今までありがとうございました、先生。どうかあなたはこの壁の中で、海の美しさも知らぬまま、花だけ愛して滅んで下さい。」
「ギルティ、ギルティだわ!あなた、人生棒に振るわよ、壁の外で穢れて野垂れ死ぬんだわ、」
「ええ、結構。あなたみたいなお局様になるくらいなら、いくらだって汚れてやるわ。」
「…あんた、不幸になんなさい。」
「あはは、言われなくても。」
男女川カモメは憑き物が落ちたように快活に笑う。そして、小さな点の集合体みたいに見える雛鳥たちに、叫んだ。
「ねえ、あたし外で待ってるから!」
私たち、まるで小さな箱みたいな教室で、同じ制服を着て、同じ教科書を開いて、同じように過ごした。なのに、可笑しいわね。私たち、お互いを知ることもなくその箱を飛び出した。
でも、けれど。それでよかったのだと思う。
あの息苦しい空間が私を苦しめて、確かに蝕んでいったけれど。あの均一に並べられた座席の間で、私たち確かに守られていたの。
仲良くなんてできなかったし、隣の席の女の子が一体何が好きで嫌いなのかもわからなかった。わかろうとしなかった。でも私は、みんなのこと平等に、愛してる。同じ空間で、同じように育てられたあたしたちが、誰一人同じ未来がないということが愛おしい。たったそれだけのつながりが、もう二度と会わないかもしれない関係が、ひどく、愛おしい。さようなら、皆さん。私は、あなたの幸福な未来を願います。さようなら、私はずっと、待ってるから。
「ほら、行くぞカモメ。」
ルリトは頭につけたゴーグルを目まで下ろし、操縦席に潜り込んだ。すべてのレバーを指ではじくと、鈍くコバルト5301は唸る。
「待ってるから、」
眼下に立ち尽くす雛鳥たちを眺めた。
「やるじゃん、優等生。」
千鳥の瞳が波間に反射する太陽の光のように輝いていたのを、私は一生忘れないのだろう。どう足掻いたってあたしはカモメにはなれない。あたしはあんたにはなれない。
力が抜けて地面に座り込むと、「なにしてんのさ、バカバト。」
とずっと求め続けた声が聞こえる。顔を上げると快活に笑う千鳥がいた。欲しかったのは、この笑顔。
「あたし、男女川カモメに負けたわ。」
「負けたぁ?なにそれ。勝ちも負けもないじゃん、こんなの。」
千鳥はあたしに手を差し伸べる。
「バカバトがこれからどうするかでしょ。ま、あたしは後を追うけどね。誰がなんて言っても。」
ああ、悔しいなあ。これが嫉妬なのか、それとも愛しいという感情なのか痛くてもうわからない。悔しい。悔しい。絶対許さないんだから、男女川カモメ。
「…カモメちゃんがこんなことするなんて、思わなかった。」
ウミネ子のひんやりとした声が二羽の鼓膜に響く。それはまるで、テレビのニュースから聞こえる加害者の知人少女Aのような、冷たい声だった。
「真面目で、無口だけど優しくて、成績が良くて。…こんなことするなんて、信じられない。」
「…ウミネ子、カモメは、」
「もう!みんなして私をのけ者にしてー、…知らなかったのは、私だけだったんだね。」
ウミネ子はぷくぷくと頬を膨らませた。だんだん遠くなっていく銀色の機体にひらひらと手を振った。二羽はほっと、胸を撫で下ろす。
「ほら、立ちなよ。」
千鳥の優しい瞳に、確かにウミバトが映っていた。
「私、カモメちゃんのこと何も知らなかった。その瞳の奥に何を隠してたか、知ろうともしなかった。でも、あなたのこと、これからも大好きよ。元気でね、カモメちゃん。」
差し伸べられた手を取って、立ち上がった。千鳥の生え変わりかけた羽が、風に舞って宙へ飛んで行く。なんて私たちは自由なんだろうと、寂しくなって、涙が零れた。
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