六十八の棘


「待ってたよ、ルリト。」

その姿を見た時、驚愕した。そこには、大人になった魅色が立っていた。

親友は裏切らないって、裏切ろうとしてたのに。信じすぎた自分が、馬鹿すぎた。

赤と青の翅が目に眩しかった。…思った通りだ。色素の薄い魅色には、儚げなその瞳には、一際目を惹くその翅が似合う。こんなの世界がほっといちゃくれない。美しいことは、武器だ。だから、大人になってほしくなかった。その美しさが世界の歯車になってほしくなかった。

「…なんでお前がここにいるんだよ。大人になったお前が。」

「止めるには、これしかないと思ったんだ。」

策士の魅色のことだ。俺が動揺するのを狙ったんだろう。相棒にするには最高だが、絶対敵にはしたくない。

「ルリト、勝負してよ。今度は訓練じゃないよ、本番だ。」

「いいぜ、ノーはあり得ないだろ。」

「そう来なくちゃ。」

魅色は胸元のポケットから何かを取り出した。何度も見つめたそれの正体を、知らないわけがなかった。

「翅が地面に落ちたらスタートだ。準備はいい?」

「OK」

魅色は、いつものように手を開いた。重力に従って、ガラス片が落ちてゆく。忘れもしない、形見の翅。忘れないように、刻み付けるように、初めて翅が降ることを理解したときに拾いあげた。そろいの青い翅。俺たちの、形見。

闇に煌めく翅の青さが目に染みた。ぼんやりと、これが命の輝きなのかなと思った。生はいつまで生でいれらるんだろう、いつから生は死になってゆくんだろう。

死ぬ瞬間が一番、美しいと思ってた。


存外、灰になって撒かれるのも、ありかもしれない。青い砂を、彼女がやっとたどり着いた海で、潮風に乗せて。その砂は青い海に落ちて、もといた場所に還るように海と同化する。

その時。君が、泣いてくれたらいい。と思う。俺を思わなくたっていい。その光景に感動して、俺なんか忘れてくれていい。君が泣いてるその姿は、この世界に隠された秘密みたいでドキドキする。こんなこと考えるなんて、今度こそは、死ぬかもしれない。

輝きが、地面に落ちる。その時間が永遠のように思えた。

ガラスの欠片が地面に触れる時、脳が身体に信号を送る。一歩踏み出して砂が舞うその瞬間、魅色は急接近して、目の前を通り過ぎた。翅が触れたのか、それとも風か。頬に一筋の切れ込みが入る。ワンテンポ遅れて生温かい血液が流れ出す。

色鮮やかな蝶は、こんなことをせずとも勝てるのに、おちょくっているのか。

ルリタテハの強さは、どこまでもそのスピードにある。素早く相手の懐に潜り込んで銃を打ち込む。……しかしそれは、翅が生えていればの話。

ルリトが恐れていたのは、魅色はまだ本気を出していないことだった。ミイロタテハは本来近接戦闘向きじゃない。飛翔スピードは速いけれど、それよりももっと強力な武器を持つ。

「今頃効いてきた?」

固い石の床に銃が落ちる音が響いた。その音でやっと、自分が銃を落としたことに気づいた。それまではちゃんと、握っている感覚があった。なのに、指先が痺れて、上手く動かない。

「まだまだこれからだぜ。」

さっき目の前を通り過ぎたのは、わざわざこれを仕込むためだったのか。

落ちた銃を素早く拾い上げる。構え直して、美しい蝶にその照準を合わせる。ピントだけが、もう、合わない。

「もう足だって上手く動かせないはずだよ。」

目の前に端正なその顔が迫る。見慣れたはずの顔なのに、知らない奴のようで、息もできない。

わかってる。勝ち目なんかないって。棘しかない自分じゃ、翅のない自分じゃ、到底太刀打ちできないって、わかっていたけれど、ここで退くわけにはいかなかったんだ、どうしても。

全身痺れた俺は指一本で押し倒される。息の上がった俺にとどめを刺すように、首に指をかけながら馬乗りになる。魅色が全体重をかけて、俺に多い被さる。そんなことまでして俺を止めたいのか。

自分を守る無数の棘が、その青く柔らかい肉体を刺す。美しい青色に、深紅がじわじわ滲んでいった。

六十八本。夥しい数の棘は、自分を守ってくれる優しい世界だった。怖いものに触れなくて済むよう、隠れ蓑にしてくれるあたたかなブランケット。傷つかなくて済むように、傷ついてもいいようにそれはいつだって俺を守ってくれたのに。

なんでだよ、どうしてお前を傷つけてんの。

「…どうして、僕じゃだめなんだよ。」

見上げた魅色の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。

「どうして僕じゃなくて、あの鳥の女なんだ。」

胸倉を掴む力が強くなって、その手は小さく震えていた。

「ルリト。忘れるわけないよね?いいか?僕たちは、僕たちの兄弟は、家族は。鳥たちに殺された。…なのにお前は、最後に僕じゃなくてカモメを選んだ。よりによって同胞でもない。俺たちの生まれながらの敵を選んだんだ。…あてつけのつもり?」

魅色の瞳から、ぼろぼろと雨が降る。真夏の気まぐれなスコールみたいに激しくて、悲しくて、熱かった。ガラス玉みたいな瞳が赤く揺れる。反射する水面に虹がかかった。こんな状況でも、そんなことを思った。

「僕がどんな気持ちでお前のそばにいたか、わからないだろ。」

「わからないよ。お前が俺の事をわからないように。」

「…ずるいよ、ルリト。僕を置いて一人だけどこかに逃げようなんて、こんな世界からお前だけ逃げようとするだなんて。…僕がどんな気持ちで、お前のそばにいたと思ってる…!」


「僕は、君がいたからここまで生きてこられたんだ。」


「僕の一番が君であるように、君の一番は僕だと思ってた。言葉にしなくたって、つながってると思ってた。なのに、お前は…僕を裏切ったんだ。」

「…魅色には、大人になって欲しかった」

そう告げると、美しい蝶は眉を顰めた。

「俺は多分、世界の誰よりもお前が大事だったよ。」

「…ならどうして。」

「だから、連れていけない。」


「大事だから、生きてほしいと思った。こんなクソみたいな世界でも、生きていて欲しかった。だってお前は誰より綺麗な蝶なんだから。もったいない、と思った。」


「今はどんなに苦しくても。大人になれば、世界はお前に傅くよ。大丈夫。」

「でも、君は。君は、その未来にいないじゃないか。」

「俺はダメだよ。みっともなくて到底、生きてらんないや。」

ガラス玉みたいな魅色の瞳には、満ち足りたように笑う自分の姿が映っていた。驚いた。まだ、こんな風に笑えるなんて。

「俺で全部最後にしたい。」

「それが僕は、苦しくて仕方ないのに。」

「最後のわがままくらい聞いてくれよ。」

「…君はいつも、そうだ。大事なことは何一つ言わないで、全部自分で決めて、自己完結するんだから。」

甘い蜜を吸った蝶が、また翅を広げて豊かな色彩を放つように、瞳を開いた。

「そこまでして僕を、守りたかった?それとも、そこまでして僕から逃げたかった?」

「たぶん、両方。」

「…いいよ、わかった。僕は君を、赦さないから。」

「サンキュ、相棒。」



「お前はちゃんと、生きてくれよ。」

そうルリトが囁いた時、美しい蝶から大粒の雫がひとつ、零れ落ちた。

「なんて、説得力ないよなぁ。」

ルリトは階段を上っていく。まだ子供の彼には、その涙が見えなかった。本当に見えなかったのか、それとも、見ないふりをしたのか。私にはわからない。私にはわからないけれど、私だけがそれを、見ていた。

「カモメ。」

祭壇に上ろうとした時、座り込んだままの蝶が私の腕を掴んで、縋るように私を見上げた。

この瞳を私は、何度も見てきた気がした。そうだ。似ているんだ。私に挑んできた優等生の劣情に、私を見送った優しい鳥の瞳に。この感情の名前を、知りたい。

「私、初めてだったのよ。」

細く白い指先が、私を放す。

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