風穴


静寂、永遠に思えるような0.1秒。その時静かに、石崖の体に小さな穴が開いた。それは、不覚にも開かずの扉に空いた、小さな鍵穴のように見えた。

気づけば、スミナガシはとっさに走り出していた。

頭の中で何度もしてきた想像、この手で摘み取ってきた命が見せる幻影。いつだって悲しまずに済むように、心の準備はしておいたはずだった。

この瞬間は、もっと衝撃的に、惨たらしく、やってくると思っていたのに。

やっと咲いた花の花弁が散ってゆくように、白いその翅が散るのを、スミナガシは見た。

死は凄惨であるということが、世界が蝶に教えたことだった。それなのに、どうして美しい蝶は美しいまま、永遠になるんだろうか。


白い翅が舞い散るその瞬間、石崖はスミナガシを見た。その瞳はどこか、寂しそうだった。

「ごめん、」

目を伏せて石崖は呟いた。その表情は、ちゃんと見えなかったけれど、泣いているような気がした。

その姿は、網膜の裏に焼き付いて離れない、一生。

咄嗟に抱きかかえた彼の肩は、思っていたよりも小さかった。焦点の合わない琥珀色の宝石が、ぼんやりとこちらを眺め、少しだけ口角が上がった後。醒めるような光が、消えた。


正義について考える。スミナガシは、正義の味方になりたかった。子供だましの陳腐な夢、子供なら抱く小さな野望。その夢をいつまでも、捨てきれなかったスミナガシは、どんなに大人ぶってみたって、結局子供のままだったのかもしれない。

そのために、今まで生きてきた。深山が醜い彼を見つけて、美麗な蝶に育てあげた。その恩を、スミナガシは一度も忘れたことがなかった。

「世界のために、蝶のために。花を支配するために。」

身体ばかりが成長したあどけない少年に与えられた役割は残酷だった。それでも何度もスミナガシは、大人を信じて世界を信じて、引き金を引き続けた。いつか世界を変えるため。そうやって、純粋無垢に、愚鈍に、何かを信仰することができたのは、彼の心が幼かったからではないのかと、スミナガシは自分に問いかけた。そしてその問いの答えは、もう返ってこない。返ってくるはずがない。壊れそうな心を繋ぎとめてくれた親友は、たった今、標本になった。

スミナガシが今まで生きることができたのは、あの琥珀色の蝶がいたからだった。醜い角の生えた容姿は迫害の対象だった。大人になればその呪縛から解き放たれると思っていた。彼は、美しい翅を手に入れた。しかし彼はどこまでも、他の蝶とは異なっていた。彼だけがもつ不気味な色彩。まるで紅を挿したようなその唇。同胞殺しのスミナガシ。そう囁かれるようになったのは、彼だけの美しさを皆恐れていたからだった

それを、石崖だけはいつも、好きだと言ってくれた。

どんなに惨いことが起きても、自分の意志とは裏腹に世界が進んでいったとしても、目の前に自分とは全く異なる美しさを持つ石崖がいてくれれば、明日もスミナガシは、生きられる気がした。

世界のために、スミナガシは心に蓋をして舞い続けてきた。

なのに、世界は彼から唯一の宝物を奪う。

「……ぶっ殺してやる。」

スミナガシの漆黒の声が、銃声鳴り響くその場所に、静かに木霊していた。

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