自己犠牲と自暴自棄の花嫁
モルタルの壁の最上階。花の祭壇の頂で私たちは落ちあう。約束の時間まであと20分。逸る気持ちで階段を駆け上がる。辿り着いた踊り場。
「カモメ、」
寸分狂いなき角度の制帽を被った委員長。その立ち姿は、数多の戦場を潜り抜けてきた熟練のユリカモメのようにも、婚礼を前にその美しさを証明する花嫁のようにも見えた。
ウミバトは、振り返った。
「花を奪いたいなら、私を倒してからにして頂戴。」
彼女の手には、私たちが散々訓練で使っていた対パピヨン用の銃が握られていた。
「その手で私から花を奪ってみなよ、その手で、花に捧げた私の命を摘んでみなよ、」
ウミバトは、見せつけるようにその銃口を真っ白なこめかみに押し当てた。
「待って、ウミバト!」
ウミバトは何の躊躇いもなく引き金を引いた。カチ、と虚しい音がしてそっと胸を撫で下ろした。
「こんなの、ロシアンルーレットと一緒。次はあんたの番。」
「ねえ、こんなことして何になるの!」
「あんたは甘いのよ、ただの理想主義者。」
ウミバトの手が、震えていた。
「世界を革命したいなら、それっぽっちの覚悟じゃあ足りなくってよ。」
ウミバトは私に銃を投げてよこした。
ウミバトの燃えるような、瞳。思わず釘付けになる。わたしは、この顔を、この瞳を見たことがある。世界を壊して自分の世界を守ろうとする蝶の子供。とってもわがままで、純粋な、自分だけが世界を変えられるという雛鳥の甘い驕り。
ああ、ウミバト。なんてかわいそうな、ウミバト。あたしなんかを阻止するために自分の命を無下にしようとするなんて、なんて愚かで、なんて馬鹿で、なんてかわいいウミバト。
あたしは受けとった銃の銃口を、汗の滴るこめかみに突き付けた。するとなんだか、笑えてきた。馬鹿みたい、こんなことで命を飛ばしてしまおうなんて、意地らしくって、かわいい。
ウミバトは、悲痛な顔であたしを凝視した。
そうだよ。あたしがずっと欲しかったのは、あなたのその敗北に満ちた表情。恍惚と笑える自分が好きだ。
あたしは真っ黒い凶器の、引き金を引いた。花はまだ、その審判を下さない。
「…ずっとあんたのことが嫌いだった。」
卵から出られない雛鳥の、静かなる宣誓。
「あなたはいつも、私にはないものを持ってた。先生からの期待、成績。勤勉さ、真面目さ。どこか飄々として、『本気出さなくてもこれくらいできます。』みたいな、顔して。あたしが欲しいもの全部、はじめっから持ってるくせに。あたしが努力で積みあげてきたものを、あんたは最っ初から持ってたくせに。それなのに…わたしは、許せないの。花を一番守る才能があるのに、世界から花を守ることがあんたにはできるのに。他の鳥より、あたしよりも。それがあんたの、…才能なのに、どうしてそれを摘んでしまうの。」
雛鳥は伏せていた顔を上げ、あたしを見据えた。
「…壁の向こうに行くなんて、海を目指すなんて、そんなのただの理想論じゃない。現実から目を背けるための、世界から逃げ出すための言い訳だわ。あんたは、理想のために誰かの命を摘むことが怖いんでしょう。自分が死んでしまうのが怖いんでしょう。見くびらないでよ。そんな覚悟もないのに逃げんな。それは冒涜よ、あたしへの。先生への。皆への。」
「さっきから聞いてりゃあ、思い上がりやがって。」
「…は?」
「あのねえ、命がどうとか、こうとかああとか心底、どうっでもいい。」
あたしはウミバトの方へ詰め寄り、座り込んだ彼女を見下ろした。
「ああ、そうですよ。逃げですよ。あたしは誰も殺したくない。死にたくない。生きてたい。誰よりも、生きたい。花のためになんか、死にたくない。でも、それの、何がいけないの。別に、それでいいじゃない。どうして殺しあう必要があるの、いがみ合わなきゃなんないの。なんであたしたちは本能のまま飛ぶことを忘れちゃったの?だいたいね、その、命を捧げれば美しいみたいな、そんな思想。馬っ鹿みたい。」
「…なによ、」
「馬鹿だって言ってんの。思い上がるな。あたしの命もあんたの命もね、そんなに意味なんかないのよ。あんたが命懸けであたしを阻止する?はっ、そんな美談のためにあたしを利用しないでよ。ふざけんな、思い上がんな。」
「五月蝿いわね!あんたに何がわかるのよ。誰にでも愛されて、認めてもらえるあんたに、あたしの気持ちなんかわかりっこないでしょう?」
ウミバトの瞳が揺らめく。
「あたしはこうやって、自分を犠牲にして、世界のためにって戦うことでしか、承認してもらえない。好きな人に好きって言ってもらえない。」
「…馬っ鹿じゃないの、」
バチン、と威勢のいい音がした。私はそれを、他人事みたいに聞いていた。ウミバトの真っ白な肌が、真っ赤に染まりあがって、ヒリヒリと痛そう。
ふざけんな、あたしの掌だって、ジンジン痛いのよ。
「自分のことも大事にできないのに、誰かに愛してもらおうなんて、頭が悪いのかしら?ウミバト。」
「…五月蝿い…五月蝿い、五月蝿い、五月蝿い。…あたしはこの生き方しか、知らないの!」
「もっと自分大事にしなさいよ、バカバト。」
ウミバトの瞳が、海水が波打つように揺れたのがわかった。
「自分の命を犠牲にする革命?笑わせないで頂戴。それは、あなたが言う逃げじゃないの?自分の命を犠牲にして、あんたはさよなら、時代の英雄?ふざけんな。革命したいなら、その目で最後まで見届けろ。勝って笑って、革命のその、甘い汁を吸うまでが、革命でしょう。」
「どうして…泣いてるの。」
「あたしは、あんたみたいな、死ぬのが尊いって思ってるやつが、嫌いなの。」
まるで子供の、口喧嘩みたいだった。勢いよく叫んだあたしの肩はリズミカルに上下していた。怒りがまだ収まらない気持ちの裏に、なんか楽しくって今すぐ笑いだしそうになる自分がいるのがわかった。
「私は自分が、大好きよ。自分のことがかわいくって、仕方ない。だからあたし、海へ行くのよ。自分のことが大好きだから、自分のことを大好きでいたいから。」
「…馬鹿なの、」
「馬鹿よ。かわいくって愛さずには、いられないでしょう?」
「…ふふっ、負けたわ。」
ウミバトは俯いたまま、口を噤んでしまった。まるで電池の切れたシンバル抱えたおもちゃみたい。
「気が済んだ?私はもう、行くわ。」
「一つだけ、教えて頂戴。」
立ち去ろうとするあたしを引き留め、ウミバトは俯いたまま、言葉を紡ぐ。
「わたしはこれから、どうしたらいいの。」
「そんなの、好きなようにやればいいじゃない。あんたが思ってるより、あんたって自由なのよ。」
「自由、」
「まあ、私は。あんたみたいな奴と違って、ちゃんと責任取れんのよ。」
ウミバトは、不思議そうに頭を傾げていた。なんだ、まだまだ子供じゃない。
「ウミバトも、外においで。美しい世界が、海が私たちを待ってる。」
「なにそれ。…見損なったわ、男女川カモメ。」
そんなセリフに合わないほど、彼女の声は柔らかくさえずっていた。
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