世界の歯車
「大丈夫だよ、僕がここにいるじゃないか。」
石崖はそう言ってスミナガシをやさしく包み込んだ。子供の時みたいに、自然に、当たり前のように、その背中に腕を回そうとして躊躇った。
あまりにも、変わりすぎてしまった。目の前のこの蝶の翅は、簡単に破れてしまうほど、美しく脆い。血まみれたこんな腕じゃ、とてもじゃないけど触れない。
「抱き返せよ、スミナガシ。」
まるで見透かされたみたいだった。石崖の、琥珀のような瞳が静かに燃えている。口角だけはわずかに上がっているが、スミナガシにはわかった。怒っている。
「お前が触れたって折れやしないよ、僕の翅は。」
石崖はいつもスミナガシを煽ってみせた。躊躇とか、恐れとか、そういうもの、全部忘れさせてくれたのだ。
「お前のそういうところ、ほんと食えねぇ。」
「なんだよ、そこがいいんだろ?」
「お前だけは昔から、変わらないよな。お前だけは、俺を蔑まないで、差別しないで、いつだってそばにいてくれた。よく意外だって言われるんだけどさ、俺に友達って言えるような奴は、お前しかいないから。」
「それは違うぜ、スミナガシ。」
石崖は細い人差し指を唇の前に突き出し、笑ってみせた。
「僕だって、お前を差別してた。たぶんきっと、ほかの誰よりも。でも、素直に、美しいと思ったんだよ。その色彩が。僕には望んでも得られないその色が。」
石崖は振り返る。長いコートの白い裾が、さらりと風に舞う。
「みんなは、お前のその色彩を恐ろしいと、蝶じゃないみたいだと蔑んだけど、同じくらいに僕は、君の造形が、その紅色が好きだった。」
同じくらいにスミナガシも、石崖の造形が好きだった。繊細な脈が走る翅とか、宝石が埋まっているような瞳。言葉にはしないけれど、色相環の真逆にいるみたいなスミナガシと石崖。
「それはある種、崇拝に似ているんだ。そして崇拝は、嫌いなものを排除することの裏返し。僕は君を差別した。崇拝した。こうやって、支配したかった。他の蝶とは全く異なる方法で。でも、それは、蔑みと、同じなんじゃないのかな。」
自嘲するように、石崖は笑った。広げた翅に光が吸収されて、透けた白磁に琥珀が煌めいているみたいだった。たとえ、そうだったとしても。スミナガシにはすべてどうでもよかった。冷え切った体に触れるささやかな温度が欲しかっただけだった。
「なってやるよ、世界の完璧な歯車に。」
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