憧憬


 夜の祭壇に、微かな星の光だけがガラスから射し込んでいる。

その中で、ぼうっと浮かび上がる影ひとつ。忠誠の蜜蜂は、目をこする。その影が消えないことを確認すると、指を鳴らした。影への道を作るように、蝋燭の火が順番に灯っていく。

「…カモメ?」

カモメが体育座りをして項垂れていた。ヒールの音が、静かな空間に木霊して、沈黙を破った。

「私、気がついたの。」

丸まった華奢な身体を見下ろすと、カモメは言う。

「私、何も知らない馬鹿な子供だった。私、今まで何も知らなかった。なんて愚かだったんだろう。…世界は、優しい人ばかり、美しい人ばかり奪ってゆくでしょう?愚かな極悪人は、不老不死なのよ。」

「カモメ?」

蜜蜂はしゃがみ込む。カモメの頭に触れようとした時、彼女は顔を上げて蜜蜂の腕を掴む。

「この世界は、残酷な神様と狡賢い囚人が支配しているの。だって、美しい人はとうに死んでしまったのよ。この世界に残るものすべて、間違ってるんじゃないかしら。」

カモメの瞳の下には、涙の軌道ができていた。泣き腫らした目が、赤い。

「こんな狂った世界に生きられない美しい心のひとは、とうに死んでしまったの。私たちその死骸の上で、善悪を論じて、豊かさを吸い取ってるの。可笑しな話でしょう?」

言葉を紡ぐと、またカモメの瞳にじわりと涙の膜が張る。そして彼女は小さく声を漏らし、俯いた。

「悲しいわ。」

「泣いているの?」

蜜蜂は、彼女の頭を撫でるように、優しく触れた。カモメは言葉を紡ぐ。

「可哀想。小さな雛鳥たちは、世界に消されてしまったのだわ。そうして、『頭のいい子』だけが残るの。賢くない『頭のいい子』だけが。みんな世界に殺されてしまったんだわ。」

蜜蜂のもう片方の腕が、カモメにぎゅっと握られている。鋭い爪が、柔く白い肌に食い込んでいった。

「なんの話をしているの?」

蜜蜂は尋ねる。するとカモメは顔を上げ、涙を拭って笑おうとする。

「蜜蜂、賢いってことは、大馬鹿者ってことなのね。」

無理やり作った笑顔は痛ましく、泣き叫んでいるようにしか、見えなかった。

「何も知らず、感じず。世界のルールを疑うことなく、従って生きられるなら、それほど簡単なことはないわ。寧ろ、それが一番賢明な判断かもしれない。」

カモメは蜜蜂の手を握る。カモメの手は熱すぎるくらいに、熱を持っていた。

死んだように冷たい蜜蜂の指先に、熱が伝わっていく。それは蜜蜂に、忘れていた体温を思い出させた。

「何が正しいとか間違ってるとか、そんなのは端から問題じゃないのよ。だって、私たち、気づいてしまったの。善悪の前に、触れるべきではない花に触れてしまったの。私たちその時点で、大馬鹿者よ。」

カモメは縋るように蜜蜂に抱きつく。ふるふると頼りなく、震える肩。首筋にかかる熱い息に、彼女がまだ大人になれない子供であることを思い知る。

「賢いって悲しいことね。無駄なことばかり考えてしまうんだ。無駄なことばかり考えてしまうから、苦しくて苦しくて仕方ないの。考えられる脳なんかもっていなければ、もっと楽に生きられたのに。」

蜜蜂は、不規則に上下する背中をさすってやる。

「悲しいことがあったのね、可哀想に。」



 優しく接することで、自分の罪を忘れたかった。とくん、とくんと、控えめな心臓の動きが蜜蜂を悲しい気分にさせる。

 忠誠の蜜蜂は、男女川カモメが嫌いだった。

 まっすぐに伸びた美しい背中、流れ落ちるような髪…カモメの魅力すべてが、蜜蜂が心にしまい込んだ、あの日の『彼女』を思い出させるから。

 おかしい、彼女のことを忘れたくなかった、思い出したかったはずなのに。彼女の仕草が、声が、温度が、思い出せない。大好きだったその顔さえ、今では空白に塗られて、抜け落ちてしまっている。

 苦しい。記憶の中の彼女の姿に、目の前の少女の姿が重なる。カモメの温度、声、仕草…歪な形の記憶が、無理やり補われていく。

…違う!

彼女ははそんなこと、しない。

『早く…早く僕を、助けて。君を忘れてしまう前に。』

心の中の叫びは決して声にならないまま、彼女を抱きしめる腕の力だけがきつく、強くなっていた。


「もう泣かない、私覚悟を決めるわ。革命の日は、もうすぐそこまで来ている。私はどうしたって負けられない。」

カモメの瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。その一粒が蜜蜂の肩に落ちる。カモメの眼光が鋭くなって、握りしめていた蜜蜂の指を離す。

 瞼の裏にいつだって、その光景は広がっていた。瞳を閉じればいつだって、その潮騒が聞こえてくる。

 カモメは確かに見つめていたのだ。壁の向こうに広がる、本物の海を。

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