愚鈍な雛鳥


 優等生の浅いポケットから、まるで花びらのような小さな紙切れが舞い落ちるのを見た。

「おい、落とし…」

拾い上げた時。千鳥は、何か、拾ってはいけないものを拾ったと思った。その紙に書かれた、背徳的な言葉の数々に、ひどく心を掴まれる。どく、どく、どく、とまるで心臓が鼓膜まで上ってきたかのように加速して、ときめいた。

なぜかはわからない。狩人の勘、というものだろうか。きっと、ウミネ子だったなら、疑うことなくカモメに返しただろう。

もしかしたらこれが、最後のチャンスなのかもしれないと千鳥は思った。模範的で均一的に見えるその振舞の裏側に、やはり彼女は反骨的な何かを隠していた。彼女はもうすぐ、この温かい卵の中を飛び出して、飛び立つは荒波立つ荒野…

飛んでいってしまっては、もう千鳥に為す術はない。これしか、ない。

男女川カモメの、しゃんとまっすぐ伸びた美しい背中が遠くなる。その背中に呼びかけることも、近づくこともできないまま、千鳥は生温かいポケットに小さな紙切れをしまい込んだ。

革命の、予告状―


「何企んでんだよ、優等生。」

聞きなれた声が、真っ暗になった教室に木霊した。

「こんな時間に何してるのよ、不良少女。」

「何やら怪しい雛鳥を見つけたもので。」

千鳥は、懐中電灯を携えて私に歩み寄る。歩く度揺れる光の影は、だんだんと私を飲み込んでいく。

「驚かないの、カモメ。」

「どうして驚く必要があるの?」

「どうしてって、笑っちゃうな。犯行現場見られてるわけですけど。」

「だって、ウミバトでもウミネ子でも、先生でもない。あなただもの。」

千鳥は伏せていた瞳を上げた。薄褐色の海に吸い込まれそうだった。

「千鳥は私を止めたりなんか、しないでしょう。」

「…なんだ、わかってたんだ。」

「多分最初から、ね。」

そう答えると千鳥はしおらしく微笑み、私を手伝った。

「ねぇ、カモメ。ひとつ教えてよ。…どうして、カモメはそこまで海を求めるの。外が、怖くないの?」

「怖い?」

「本当に外に海があるかなんて、わかんないじゃんか。」

今日の千鳥はやっぱり少しおかしかった。千鳥の瞳はいつも、獲物を捕らえる寸前の狩人の目をしていた。それなのに今日は、夜の静かな海に沈んでいく難破船のようだった。

「カモメは、世界の細いつながりから解放されて、本当の自由になっちゃうことが、怖くないの。」

「そんなこと、考えもしなかったな。」

「あたしは考える。こんなクソみたいな世界でも、自分は切っても切れないつながりの中にいて、それが苦しくて、でもそれをなくしちゃったら、途端に自分が自分でなくなっちゃうような、怖さ。」

「かわいいとこあるのね。」

「は?真面目に聞けよ。」

「ごめん。…私は私の本能に従うだけ。」

本能という言葉に、千鳥は楽しそうに笑った。

「ウミバトやウミネ子みたいに、ここにいたい理由があるのなら、私は何も言わないわ。でも、千鳥が、ここにいるのが怖いなら、怯えてしまうなら。」

ふわふわして頼りない羽で覆われた手を差し出した。風を切って飛ぶ鋭い羽にはまだなれない。

「千鳥も一緒に、来る?」

彼女はスカートの裾をぎゅっと握りしめ、俯いた。

「今はまだ私の手を取れない?」

千鳥は小さく頷いた。それだけでも私には十分だった。

「いいよ、それで。…ただね、千鳥。男女川カモメが、私というちっぽけな雛鳥が、罪を負ってまで壁を越えて海を目指そうとしたこと。そんな大馬鹿がいたことを忘れないで。覚えてて。そんな愚かさも、世界にあっていいんだって、」

「好きだよ、カモメ。」

「なぁに、いきなり。」

「だって、これから死ぬみたいなこと言うからさ。」

千鳥の瞳が煌めいて、涙の粒が弾ける。でも、きっと、そう見えたのは、今夜は私の鳥目がひどいせいだわ。

「あたしは、めちゃくちゃカモメの目が好きだったよ。窓の向こうの壁を越えて、もっとずっと遠くを見てた君が好きだった。カモメはずっと、海を見てたんだね。」

「ありがとう、千鳥。」

薄暗い月夜にきらめく金色の癖っ毛が、夜風に揺れる。見下ろした薄褐色の瞳は、真昼の光が乱反射する波間。彼女の瞳が、狩人のように冴えわたっていた。


 教室は、空気穴のあいた箱みたいだった。上手く息が、できなくなる。同じ制服を着て、同じ勉強をして、おんなじように育てられて。みんな同じ色をしてる。その中で、カモメだけが、違う色をしてた。彼女だけが、なんだか。誰よりも自由で、綺麗だった。揺れるカーテンの隙間、開け放した窓から、そのまま飛んで行ってしまいそうなくらいに、自由。誰にも、何にも縛られないカモメの姿に、憧れて、焦がれた。

「好きだよ、カモメ。」

カモメを好きでいることだけが、不確かなあたしを、確かなものにしてくれる気がした。

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