千鳥とウミバト


 夕暮れた玄関で、千鳥はスニーカーの靴ひもを結んでいた。そのスニーカーは運動用のスニーカーではなく、太く黒い紐がかわいい、ちょっとお洒落でカジュアルなものだ。生地はあまり厚くない。毎日同じ靴ばかり履いているから、黒と白のスニーカーの白い部分はもう、薄汚れて茶色くなっている。

 立ち上がってつま先をトントンとタイルに打った。別に何かが変わるわけじゃないけれど、少しだけ軽くなるような気がして、千鳥はこの習慣が好きだった。カバンを持って靴箱の角を曲がろうとすると、腕を組んだウミバトが千鳥を待ち構えている。

なかなか気持ち悪いことするなあと、千鳥は呆れた。ウミバトはそういう奴だった。

「お待たせ。」

いつものように声をかけると、ウミバトは千鳥をちらと見て歩き出す。相変わらず不器用が行き過ぎた奴だなと千鳥は内心笑った。

 

ウミバトと一緒にいるときは、千鳥は特に話題を振らなくていい。というよりもウミバトがつまらない世間話を好まないから、無言の威圧で黙らされている。こういう時は決まって、ウミバトが何か言いだすのを待った。

「私は、ユリカモメ特攻隊に入る。」

やっと口を開いたウミバトが言い放つ言葉は、わかってはいたけど結構ショッキングなものだった。

「国のために、花のために生きて死ぬことが、この世で一番美しいことだわ。アジサシ先生も言ってるでしょ。」

「えー、お前アジサシの肩持つの?」

「私は私の考えでそう思うの。」

「ふーん、そっか。」

「あたしは、花が好きなの。だから守りたい。大学なんて行ってる間に花が侵されるの、耐えられない。あたしは一刻も早くユリカモメに入る。」

「…そう思うのは勝手だけどさぁ、」

ウミバトは少し、自暴自棄になっているような気がした。そしてその言葉の裏に、カモメの存在が影響しているということも。

「死に急ぐなよ、バカバト。」

「心配してくれるの?千鳥、」

「ちげえよ、でも嫌なんだよ。知ってる奴死ぬなんて。」

構わず、ウミバトは歩いて行こうとする。

「ウミバトの親だって心配するんじゃないの、」

「世界の為に。それが一番美しくて偉いことだって、言ってるわ。」

そう話すウミバトの瞳は遠くを見ている。こんな時代でも、命懸けで花を守る仕事が誇らしいと思われている。時代錯誤な事実に千鳥は溜息をついた。

「あたしは嫌だな。」

「なによ、止められないわよ。」

「…わかってるよ。」

そう、言ったって。止められない。止めてほしくて自分に話したわけじゃない。そのことを、十分千鳥はわかっていた。その決意を誰かに知っていてほしくて、選んだのが千鳥だったのだ、と。

そう、わかってはいるけれど。あんたに死んでほしくはないし、苦しんでほしくもないんだよな。

この国で、花に関する仕事……花医、花屋、庭師、そして花に関する学校教育をする教師などの職業は、国家公務員とされている。どうやら給料もいいらしい。ウミバトが前に話してくれた。その中でも、花と国を命懸けで守る特攻隊、ユリカモメは国で最大の機関で、志望者も多い。虫と鳥とじゃ戦力に雲泥の差があるなんていうのは、一昔前の話。コバルト・パピヨンの勢力は年々増加し、戦場に赴き毒に侵され、半身不随になってしまうユリカモメもいる、らしい。そんなのは、嫌だ。


…花ってそんなに重要かな。それがあたしには、どうしてもわからない。どうして鳥は、こんなに花に躍起になるのだろう。先生やウミバトに言えば、きっと怒られる。

だから、あの時。カモメが花を解放するって言った時、わくわくした。何にもなれない自分を、どこにも行けない自分を、承認してもらえたみたいで。


「ねぇウミバト。カモメは、ほんとに壁を越えると思う?」

「ノイローゼでしょ、そんなの。」

「でもさ、ほんとに壁を越えたら面白いと思わない?あたし惚れちゃうかも。」

「そんなの、できっこない。冒涜よ。花への、あたしへの。」

「へへ、そこまで言う?」

「言う。」

ウミバトは歩き続ける。そのまっすぐな視線があまりにブレないものだから、千鳥は少し面食らった。

「千鳥はどうすんの、進路。何も言ってくれないけど。」

「別にぃ。」

「あんたは花、好きじゃないの?」

「…嫌いじゃないよ。でも、花のためとか、そういうの、ピンと来なくてさ。」

そう告げると、ウミバトの眉がかすかに動いた。

「かと言って他になにも無いんだけどね。」

「ふーん、男女川カモメに触発されたわけ?」

ウミバトは振り返る。その瞳は排他的で、敵意に満ちていた。千鳥は小さい頃から、周りの大人たちのこの表情に怯えていた。

ウミバトまでそんな顔、しないでよ。

「は?なにその言い方。カモメのことよく思ってないのは知ってるけどさ、そういう言い方はなくない?」

思いがけないウミバトの言葉に、千鳥の神経が逆なでされる。

「別にアジサシに告げ口しなくてもよかったじゃん。カモメのこと嫌うのは、文句言わないけどさ。そういうやり方、おかしくない?…なんでそんなに、カモメにつっかかるわけ?」

「あんたにわかるわけない、私の勝手でしょ。」

「じゃあ、カモメの勝手でしょ。お前が口出すなよ。」


男女川カモメなんか、大嫌いだった。

千鳥が欲しいと、思ったことさえないようなあんな女。

「なによ、カモメが好きだからってカモメの肩ばかり持って。」

千鳥の瞳が、ばしゃばしゃ揺らぐ。丸く開かれた愛らしい瞳と、傷ついたように、紅潮した頬。すぐにウミバトは後悔した。

わかりきったことを言って、知りたくなかった感情を、知ってしまった。

「…そうだよ。だからあたしの前で、カモメのこと悪く言わないでよ。上手く息が、できなくなる。」

許さない、許せない。ふざけないで。結局みんな他力本願、どうして千鳥はあたしを見てくれないの。わたしはこんなに、あなたのことを、

「あなたはカモメに世界を変えて欲しいだけ。世界を受け入れも、壊せもしないのに、ただ宙に浮いてるだけ。その羽を生かしも殺しもしないで、持て余してんのよ。」

「…それのどこが悪いのさ、わかんないよ。」

「情けないのよ、わからずや。」


そう言って、ウミバトは千鳥の前を歩いた。その姿はいつものアジサシと似ていて、千鳥は少し眩暈がした。


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