壁の向こうの少年
「ユリカモメ特攻隊から今朝、学校に連絡がありました。」
アジサシ先生はいつものように教壇の後ろで、身を乗り出す。
「壁に設置したカメラに、パピヨンの子供が映っていたそうです。彼は、すぐに壁から離れたらしいですが、これから2、3日は警戒が必要です。壁には近づかないでください。」
そうアジサシ先生が言うと、皆は口々に、早く駆除してほしいとか、こわーい、とか、きもーいとか話していた。ウミネ子はどう反応していいかわからず、キョロキョロとあたりを見渡す。つまらなさそうに窓の外を眺めていた千鳥はウミネ子に頬を寄せ、「別にどうでもいいよねえ。」と呟いた。地獄耳のウミバトが、「千鳥、」と制すると、はーいという生返事をして、ホームルームが終わった。
「男女川さん、」
話し終えたアジサシ先生は私を手招く。アジサシ先生はちらりと私を見る。ついてこい、と言っているようだった。宿題やったー?何ページからだっけ、昨日のテレビ見た?気怠げなさえずりが聞こえる教室を出て廊下へ出ると、先生は振り返る。
「昨日、大丈夫だった?」
「はい。」
もし大丈夫じゃなかったらこの成鳥はどうしていたんだろう。
「よかった。…でも、あなたがもしあいつらに遭遇してたかと思うと、吐き気がするわ。」
…は?あなたが遭遇したわけではないのに?私をバイ菌か何かだと思っているのかしら。
「でも、男女川さんならきっと大丈夫ね。誰よりも強いんだもの、あんな虫ケラなんか、朝飯前よね。」
「そんなこと、ないですよ。」
「謙遜しなくていいのよ、誇るべきことなんだから。」
そう言うと、アジサシ先生はあたしの肩を撫で、また鋭い足音で闊歩していった。
もし大丈夫じゃなくっても、きっとこの人は何もしなかっただろう。ただその熱弁に拍車がかかったくらいだ。そうなれば千鳥が不登校になってもおかしくないだろう。
私たちに身近な大人が、教師しかいないことが、ひどく退屈でつまらないことに思える。大人は私たちに夢を抱けというのに、大人の現実ばかり。アジサシ先生の格好悪いところばかりが目に入って、目を覆いたくなるような毎日だ。
だから私は、アジサシ先生から花を解放してみたい。
家に帰るとちょうど、制服のネクタイが曲がったペリカンが疲れた顔で夕刊を届けに来た。お疲れ様です。大変ですね。
夕刊には、昨日遭遇したパピヨンのことが大きく載っていた。特攻隊の警備を強化し、環境庁は対策会議を開く…云々。どうしてそこまで躍起になるのだろう、わからない。
夕刊を持って家に入ろうとした時、ひらひらと一枚の紙きれが落ちた。
「今日の夜、あの祭壇まで来てほしいの。」
白い花弁に書かれた四角い文字。名前も筆跡もわからなかったが、なんとなく、差出人がわかった。
モルタルの壁の周りには黄色いテープがたくさん貼ってあった。こんなに厳重に守られる花もかわいそうだなあと思いながらテープをちぎって進んだ。たどり着いた緑青の扉には気配がなく、蜜蜂はどこにもいなかった。蜜蜂を探して白く続く螺旋階段を上っていった。
頭が尖ったアーチを抜けると、変わらずに花は鎮座していた。その白い輝きに吸い寄せられるように、祭壇を登った。夜露に濡れる彼女は艶やかに煌めき、思わず息を飲んだ。ああ、花には魔力がある、皆この花に魅せられて、戦争したりいがみ合ったりしてるんだ。
その意味が、まったくわからなかったけれど、少しだけわかってしまった。この花の美貌に取りつかれてしまった私たちは、ずっとずっと抜け出せないままでいるんだ。
いけないと思っても。止められなかった。手を伸ばせば私も、魅せられてこの世の大人と同じになってしまう気がした。それでも手を伸ばして、一輪の花に触れようとしたその時、後頭部に冷たい感触があった。
「その花をどうするつもり?」
ヤバい、完全に油断した。
鼻に掛かる芯の通った声だった。銃の持ち主は冷静に、冷酷に、微塵も臆することなく私の背後に立っていた。
「私は、」
そのひとは銃を持つ手に力を込めたようだった。ふつふつと煮立った怒りが銃の先から伝わる。
「私は、この花を世界から解放する。」
「解放?」
その人は私を鼻で笑った。
「そう、解放。」
必死に声を振り絞ると喉の奥がひくついた。
「私は世界を、この花から解放する。私は、花のために生きない。花のために、死なない。私はこの壁を越える。壁の向こうへ行くの。私が生まれた海に、帰るの。」
「へえ、」
そう声を漏らした彼は笑った。私にはどうして笑ったのか理解出来なかった。
「……あなたは、」
恐る恐る振り絞ると、彼は私に突きつけていた銃をゆっくりと下ろした。
「俺は、この花を世界から破壊する。」
あの時と同じ青色の瞳が、静かに燃えていたのだ。
「……破壊?」
「そう、破壊。大人にならないために、ずっとずっと子供でいるために。俺はこの花を破壊する。この壁を破壊する。大人達の眩んだ瞳をぶち開けてやんのさ、」
「…どういうこと、」
「つまり。俺の考えてることと、あんたの考えてることは一緒だってこと。」
でも、
「結末は違うけどさ。」
そう言って彼は微笑んだ。
「手を組まないか、小鳥さん。」
無数に棘の生えた蝶の子供は提案する。
「俺はこの花を破壊したい。あんたはこの花を解放したい。俺たちはこの壁から出なきゃいけない。そのためには、あんたの所の特攻隊とコバルト・パピヨンから逃れなきゃいけない。…結末に辿り着くまでの障害は同じだぜ。」
差し伸べられた手を握り、眼前のその瑠璃色を見つめた。
「でも、私たちはこの壁を越えたら、花を略奪したら、敵同士になる。」
彼はニヒルに笑った。からからした笑い声。彼の意志は、揺るがぬようだった。
「その時はその時だよ。俺たちは壁を越えられずに世界に殺されるかもしれないんだから。」
「そっか。」
少年は握っていた私の手を引き、立たせた。その力は見た目よりも強かった。私より子供だからって、油断しちゃいけない。
「俺はルリト、あんたは?」
「カモメ。」
「よろしくな、カモメ。」
そう言って微笑を浮かべた。
するとそのまま踵を返して初めて会った時のように窓から飛び出していった。きらきら光る糸の軌道。パピヨンの子供が空を飛べないなんて教育は、嘘だ。
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